第7話 危惧



 夢現ゆめうつつだ。なにか夢を見ていた気がするのだ。しかし、それはすごく曖昧で記憶には留まらない。走馬灯のように、映像が流れているところで、自分の名を呼ぶ声に意識が引き戻された。


「銀太!」


 驚いて目を開けると、そこは我が家の脱衣所だ。なぜこんなところで寝ていた? そんな疑念が頭を支配している。


 仄暗い風景に時間の感覚があやふやになった。今が何時なのかという疑問を解決しようと視線を彷徨わせると、目の前にいた保住を認識した。彼はネクタイ姿だった。


 ——もう出勤の時間なのか?


「え? え? 朝、ですか」


「五時だ」


 ——五時だって?


「あの、え? 保住さんは……」


「すまない。今、帰った」


 ——どういうこと?


 田口は目をこすってから体を起こした。それを確認してからシャツのボタンを外して廊下に出ていく。


「風呂、入るなら先入れ」


「えっと。あ、はい」


 廊下から顔を出すと、彼は疲れた様子で寝室に入っていった。


「保住さん……?」


 とっくに帰宅して寝ているのかと思っていたのだが。彼は不在だったということか。


 きちんと確認すればよかったのだが、昨日の酩酊状態では、彼が帰っていなかったことを確認していたとしても、なにができたかはわからなかった。


 田口は風呂に入ろうとシャツに手をかける。洗面台の鏡に映る自分の顔を見て、首を傾げた。


「徹夜ってこと?」


 ——そんなに立て込んでいる案件はなかったはずだ。なにかあったのだろうか?


 確かに終わりのない仕事だが、余程のことがないと徹夜なんてしないのが保住だ。


 首を傾げつつ、浴室に入って、シャワーを出すと、ほっとした。


「酒臭いな……」


 なんだかよくわからないことばかりの夜だった。まだ頭が機能していないが、保住の行動が不可解で腑に落ちなかった。



***



 田口を起こした後、寝室に入った保住は大きくため息を吐いた。


「……困った」


 昨晩、安齋に声をかけられた。相談事があると言われたのだ。部下の悩みだったらと、職場を締めて、近くの赤ちょうちんに二人で行った。


 最初のところは覚えている。大堀とのことや、仕事のやり方、企画書についての話をした。そのうちに安齋のプライベートの話を聞かされた。そのあたりから、正直に言うとなんの話をしたのか、さっぱり覚えていないのだ。


 保住の心配ごとは、安齋の話の内容ではない。自分は? と言うことだった。


 覚えていないということが、こんなにも不安だとは。いつもは田口が一緒にいるおかげでこんな心配はない。彼はそう酔い潰れる男ではないから、自分が失言しそうになっても、フォローしてくれるに決まっているからだ。しかし、今回は田口はいない。こんなに不安になるなら安請け合いするものではなかったと後悔しても後の祭りだ。


 なにせ、目が覚めたら安齋の自宅にいたのだ。


『すみません。随分酔いつぶれてしまったので、連れ帰りました。室長のご自宅はわかりませんし。眠り込んでいましたしね』


 彼にはそう言われたが、なにも覚えていないと言うものは不安しかない。今までこんなことは日常茶飯だった男だが、田口と付き合うようになってからはなかったことだ。


「変なこと話していないといいのだが……」


 帰宅して脱衣所で寝込んでいた田口も田口だが、それよりもなによりも、自分がなにか取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと不安になって気が気ではないのだ。


「疲れた」


 頭の芯がぼーっとしてズキズキと痛む。ベッドに腰を下ろしていると、サッパリとした顔の田口が扉を開けた。


「すみません。お先にでした。どうぞ」


「あ、ああ。すまない」


 やましい事をしたわけでもないのに、田口の顔が見られない。保住は田口にそれ以上声をかけられたくなくて、さっさと腰を上げると浴室に向かった。



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