14 最初から最後まで嫌がらせかよ


 仄暗い室内では澤井の表情はよく読み取れない。彼の指が保住の頬を撫でた。


「お前は可哀想な子だ。父親の影に付き纏われ、そして乗り越えたい相手はもういない。決して報われない。そんなお前の中身まで知ってやれるのはおれだけだ。そして、お前が乗り越えたい父親のこともよく知っているのはおれだ。おれを父親だと思って乗り越えてみろ。そうすれば救われるかも知れないぞ。そう思わないか? 保住」


「あなたを……ですか」


「そうだ。たとえ田口に心動かしていたとしても、おれとの上司と部下の関係は続く。おれはいつでもお前の中にある。おれの存在をお前は消すことができないのだ。だったら最初からおれにしておけ。面倒なことは嫌いだろう?」


「嫌い、ですけど」


 ——しかし。違うのだ。だからって澤井との関係を続けることは、おれにとって心の闇を深くするだけだ。


 保住の気持ちは沈み込んでしまっている。もうどん底だった。落ちるところまで落ちた。

 暗い闇の中にいるからこそ、暖かくてほっとする田口に恋い焦がれる。彼はいつもそばで救ってくれる。どんなに最悪なことを曝け出してもそばにいてくれる彼が大好きだ。

 澤井はそんな保住の心を知っているのか、ふと口元を歪ませてから、体を起こした。


「帰る」


「澤井さん」


「遅刻するなよ。お前に足りないのはタフさだ。数日徹夜してもやり切るくらいの体力を持て。その内、お前のことも国に出してやる。国に行ったら、忙しさはここの比ではないからな。お前の父親のようになってもらっては困る」


 保住の父親は、澤井の人事で国へ出向した。いや出向という言葉ではなく研修だ。国に在籍している間、給与は市が払うからだ。身分は地方公務員のまま、国のいいように働かされる。


 地方公務員は少しでも中央とのコネやパイプを持ちたがる。どこの自治体も国からの人材を快く引き受けるし、研修にも出したがる。


「おれは、そういうのは好きではありません」


「知っているからこそ、やるのだろう?」

 

 ワイシャツを着込んだ澤井はニヤリと笑う。


「嫌がらせってわけですね」


「そういうことだ。お前が困っている様はおれの心を満たす」


「意味がわかりません」


「どこに送るかはその時に決める。まずは目の前の仕事だけしておけよ。そして楽しみに待っていろ。いつまでこうしていられるのかわからんからな。おお、そうだ。今晩もおれは空いている。帰る時に声をかけよう。今のうちにお前を味わっておかねばな」


「本当に、あなたって人は失礼極まりない」


「嬉しいね。どうやらお前にとったら、おれは特別な人間らしい。こんな嬉しいことはなかろう。お前は人に興味を持たな過ぎるからな。光栄なことだ」


 いつまでも愉快そうに笑っている澤井は、アパートから姿を消した。


 澤井との関係は、常に不安定で、いいものではない。保住は彼が嫌い。彼は嫌がらせが多い。なのに、切っても切れないって。


 ——思い通りになることなんて一つもない。


 今までの人生はなんだったのかと思うくらい、思い通りになんてならないのだ。これが父親の見てきたもの。彼が抱えてきた葛藤。そんなものを家庭にまで持ち込まない人だったから、知らなかった。市役所職員として命まで削った男だ。


「くそ」


 ——一人の男に心動かしただけでこの様か。乗り越えなくてはいけないものばかりあるということだ。

 

 田口とのことは、それとして考えていかなくてはいけないことだが、澤井との関係性はそれはそれだ。暗い泥沼の底に沈んでいるような場合ではないということだ。


 ベッドから這い出し、澤井が残していったものを振り払わなくてはいけない。バスルームに向かい、自分に言い聞かせた。


 ——あの男の思い通りはごめんだ。自分は自分の意思でやっていく。たとえ、田口とのことが難しくなったとしてもだ。あの人の影を追いかけて入庁した職場だが、今は違う。明確に自分の為すべきことを理解しているつもりだ。父と比べたいなら比べればいい。そんなものに屈することはできないのだから。


 薄らと明るくなってきた空を眺めながら、仕事にいく準備を始めた。

 


***


「保住さん。大丈夫ですか?」


 日曜日。自宅のソファで仕事のことを考えていてうたた寝をしていたらしい。珍しいことだと自分でも驚いた。目の前には黒いエプロンをした田口が心配気な瞳で立っていたのだった。


「銀太——。おれは」


「うなされていましたよ。変な夢でも見たんですか?」


「ああ——昔の嫌な思い出を夢に見たのかもしれない。覚えていないな」


「夢って忘れちゃうんですよね。ぱっと目を開けた途端に消えてしまうんですよ。楽しい夢も悪い夢も。でもなんだか気持ちだけはずっと残って……」


 瞳を輝かせて話す田口の表情を見ていると、なんだか気持ちが落ち着いた。


 ——今ここにいてくれるのは銀太だ。澤井ではない。


「おれの夢だと嬉しいんですけど」


 彼は期待に満ちた表情を見せた。職場ではそう変わることのない顔つきが、こうして二人きりになると生き生きと変化する様が保住は嬉しい。思わず「ふふ」と笑ってしまった。


「保住さん?」


「いやいや、お前の夢を見るとしたら、お前が大型犬にでもなって、散歩をしているところだろうな」


「え? ど、どういうことでしょうか?」


「そのまんまだろう? 大きい犬め」


「犬、犬って。止めてくださいよ。本当」


「嫌なのか?」


「嫌じゃないですけど」


 ——銀太には救われる。


 保住は見ていた書類を脇に置いてから、腕まくりをして立ち上がった。


「すまない。夕飯の手伝いをしよう」


「いいんですか?」


「当然だ。お前だけでは心元ないからな」


 田口と一緒にいる保住は幸せに満ちている。今まで生きてきて体験したこともない幸せな時間だ。この時間が少しでも続くように自分は努力しなければならないのだ。澤井の言うように、自分は力を手に入れるしかない。彼を守るため、自分たちのこの安寧の時間を守るためだ。


「ほらみろ。銀太。こんなんじゃ、失敗するだろ?」


 保住は笑みを浮かべて田口を見上げた。すると彼は嬉しそうな笑みを返してくれる。そしてそっと腕を伸ばしてきたかと思うと、保住の腰を引き寄せる。


「あの——」


「なんだよ」


「ご、」


「え?」


「ごはんより、保住さんを——その」


 頬を赤くして恥ずかしそうにしている田口を見て、保住は吹き出した。


「バカか。お前。夕飯の後な」


「は、はいっ!」


 嬉しそうにしっぽを振っている田口は、幸せそうだった。それを見ている保住も幸せな気持ちになる。

 彼と出会えて、自分はよかったのだ。きっと二人は出会うべくして出会ったのだ——と保住は思っていた。



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