13 お前にはおれがお似合いだ。


 ——そう。お別れになると思っていたのにっ! この男となんて金輪際お断りだっ!


 体を起こして布団の隙間から抜け出そうとすると、腰に回ってきた腕に引き戻された。


「離してくださいよ」


「行くな」


「もう帰ってくれませんかね?」


 つっけんどんな言い方をしてやっているというのに、澤井は大して相手にもしないという素振りで目を閉じたまま「寝かせろ」と言って黙り込んだ。無視を決め込むつもりか——。諦めて仕方なく元いた場所に戻ると、腰に回っていた腕に力が籠るのがわかった。

 

 不本意であるのは確かだ。なぜ、こんなことになる? そんな思いが頭をぐるぐるとしていて、到底眠れたものではないのだ。保住は澤井の腕に頭を預けてじっとした。


 ひどい目にばかり遭わせられたこの男と、こんな関係になるなんて当時は思いも寄らなかった。田口という新人と出会い、彼との関係が近づくにつれて、戸惑いばかり増えていった。

 自分は田口をどう思っているのか? よくわからない。ぐるぐると堂々巡りをする思考を持て余していたのに、澤井に言われた一言が痛かった。


『止めておけ。田口は、


 あの時の澤井の言葉が保住の彼への思いを制限してくる。


 ——そうだ。おかしいのは


 梅沢市役所制作のオペラ企画。依頼していたオーケストラが内部のゴタゴタでキャンセルになり保住たちは窮地に立たされた。もう時間がなかった。新しいオーケストラに依頼するのは、交渉の時間を含めると不可能に近い。そこで思いついたのが、オペラの音楽総監督を担ってくれるという世界的指揮者の関口圭一郎が引き連れてきたオーケストラをそのまま借りるという代替え案であった。


 今日は朝から東京に澤井と出かけ、そして関口圭一郎とそのマネジャーと面談してきた。二人で出張というそれだけでも気持ちが重かったのに。梅沢に帰ってきたその足で、澤井はずけずけと保住の自宅に上がり込んでこの様だ。


 断らない自分が悪いことは理解している。だが、心が惑っていて不安なのだ。田口とのこと。どうしたらいいのかわからない。だからって目の前の澤井にすがるなんて。お粗末で浅はか。そんな自分に嫌気が差して自暴自棄になっているのもあるのだろう。


 情愛ではない。ただ不安な気持ちを埋めるため。戸惑いの気持ちを解消するため——。たった、それだけのことで澤井との関係を続けているのだ。もう負のスパイラルに落ち込んで、どうしたら抜け出せるのかわからなくなっていた。


 澤井はどういうつもりで自分とこういう関係を続けているのだろうか? 新人だったころの仕事上の嫌がらせを考えると、その延長ではないかと思ってしまうくらいだった。


「——おい。じっとしていろよ。もぞもぞされたら眠れないだろうが」


 別にもぞもぞしているわけではないのに、そう言われると心外だ。


「じっとしているではないですか」


「いや。もぞもぞとしている。全く。お前は落ち着きが足りない」


 澤井は寝ることを諦めたのか、大きくため息を吐いてから伸びをした。


「じゃあ、帰ってくださいよ。明日も仕事です」


「明日ではなく今日の間違いだろう?」


「揚げ足とるのはやめてください」


 澤井はクツクツと不気味な笑みを浮かべると、体をずらして保住の上に回り込んだ。


「な、なんです?」


「起こしたお前が悪い。まだ時間があるのだろう? 付き合え」


「ちょ、澤井さんっ!」


 押し返そうとしてもびくともしない。首筋を吸い上げ、自分の印をつけていく澤井という男は所有欲が強い。そして粘着気質。


「人に見られる……、それはやめてください」


「いいだろう? おれのものだ。みんなに知らせればいい」


「素行不良で人事からお咎めがあります」


「そんな小さいこと気にするのか? お前が? 笑わせるな! ——それに、『人に』ではなく、『』の間違いだろう?」


 澤井の口から飛び出した彼の名前に目を見開く。


「それは……」


「田口はどう思うのだろうな? 不埒な奴とお前を軽蔑するだろう。あいつは真面目な男だ。お前のようにいい加減な人間が大嫌いだろう?」


 ——その通りだ。


 保住が好きな男は、真面目で実直で曲がったことが許せない正義感に溢れている男だから。澤井との関係性を持ってしまった時点で、自分は彼が嫌悪する対象に成り下がっているに違いない。


「諦めろ。お前のようないい加減で自分を持てない男は、おれみたいな輩がちょうどいいのだ。あの男はまともすぎる」


「そう、なのかも知れない。——でも、それでも……」


「憧れるのか。あいつに」


 ——憧れなのだろうか?


『保住さん』


 田口に名を呼ばれると、心がくすぐったくて軽くなる。なにもない、父親の物真似ばかりの自分なのに、彼に見据えられて笑顔を向けられると、自分が自分であると実感できるのだ。

 田口銀太という男は、自分には返し切れないくらいの何かを与えてくれる人間だ。

 だからこそ、近づけない。こんなダメな自分に巻き込みたくないのだ。


「おれにしておけ。お前にはおれがお似合いだ」


「そういう澤井さんだって、おれといたら巻き込まれますよ」


「おれの心配までするのか? はっ、とんだお人好しだ」


 澤井は愉快そうに笑った。




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