11 頼りになる新人



 大きなアラーム音に意識が引き戻された。さわやかに覚醒させてくれるような繊細な音ではない。乱暴な雑な音。一気に眠りが妨げられた。


 どこだ?

 ここは?

 いつ?

 朝なのか?

 夜なのか?


 ぱっと見開かれた瞳だが、身体は容易には動かせない。動物的本能なのだ。視界に入った天井がわが家ではないと認識した瞬間に、状況を確認しなければ——と思った。

 しばしじっとして周囲に気配がないことを認識してからやっと体を起こす。見慣れない部屋だった。しかし、造りを見れば一目瞭然だ。ここは——。


「ビジネスホテルか」


 室内の広さから言ってシングルの小さい部屋だ。カーテンを開けると、眼前には見慣れた街並みが見えた。市内であることは理解できる。

 ベッドわきのサイドテーブルに置かれているメモ帳を見て、ホテルの名称を確認した。

 駅前にあるビジネスホテルだった。


 ——昨晩は、どうしたというのだ?

 

 夜の記憶をたどろうとすると、右のこめかみが痛んだ。これは二日酔いか。

 

 ——昨日は確か。澤井に連れられて……。料亭? 料亭に行った。あれは……。


 メモになにか書かれているのに気が付いて、それを取り上げる。そこには、右上がりの独特なクセのある文字。澤井の字だった。


『お前の家がわからないからそこにおく。ちゃんと起きて休まず仕事に来るよう 澤井』


 保住は大きくため息を吐いて顔を覆った。


 ——なんたる失態だ。目覚ましまでかけてもらって……恥ずかしいにも程がある! 

 

 澤井には弱みを見せたくなかったのに。酒を飲んで意識を失くすのは昔からだ。酔っている間の記憶もない。窓際に据えられている椅子に腰を下ろして、早朝の街中を見下ろした。


 梅沢市とは東北の田舎の町だ。中核市に移行するくらいの規模だというのに、平日の早朝は駅前と言えど人はまばらだった。車の往来も少ない。

 

 東の空から姿を表す太陽の光に反射して、梅沢の誇る山がキラキラと光っていた。

 

 昨日の会合の意図を保住は理解できなかった。あの総務部次長と財務部次長は保住の乳親の話をしていた。入庁して父親のことについて触れられるのは初めてだった。まさか父親のことが自分の仕事に大きく関わるなんて思ってもみなかったのだ。


「面倒だな」


 頭を振ってから荷物をまとめて部屋を出た。一度自宅に戻らなくてはいけない。今日は平日で仕事だ。



***



 三月とは市役所にとっては繁忙期である。なにせ異動の時期だからだ。


「あのねえ。うちの部署もコピー機使ってるんだよね。貸せなんて無理無理」


 都市計画課の廊下を挟んで向かい側のフロアにある住宅政策課の担当者は眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をするが、そんなことは知ったことではない。保住は表情を変えずに言い放った。


「あ、そうですか。ではうちの課長にはそのように伝えて——」


「ちょっと、ちょっと待ってよ。澤井さんにはそんなこと言わないで」


「ですが、コピー機貸してくれないんでしょう?」


「わ、わかったって。早めに終わらせてよ」


 澤井の名前を出した途端、態度が豹変する住宅政策課職員を見て、保住は内心ほくそ笑む。


 ここのところ、「澤井」の使い方を理解してきたところだ。大概の職員は彼の名を出せばこちらの要求を呑む。


 澤井からの課せられる課題は無茶が多い。自分のところのコピー機で間に合わないのであれば、余所のを使うまで——という悪知恵を働かせて仕事を滞りなくこなすのが保住の日課になっていた。


 ひと様の部署のコピー機を占領し、自分の部署のコピー機も占領し、後は終わるのを待つだけにしてから自席に戻る。それから河合に頼まれていた書類を彼女に返却した。


「河合さん、これやっておきました」


「あら! 忘れていたわ。今日の昼までよね。——悪いわね、保住くん」


「いいえ。提出されるとよいと思います」


 河合は顔を赤くして謝辞を述べた。その間にふと山田が腕組みをして書類をにらめっこをしているのを見つける。


「どうかされましたか」


「いや。この書類がさ。決済降りないんだよな。どこがどうなんだか、どうしても作った本人は間違い探しみたいに見つけられないもんだ。お前、見てどう思う?」


 山田の差し出す書類を眺めてから、保住は直ぐに返した。


「多分、五行目と七行目の誤字。下の表の合計金額間違いではないですか」


「うそ? え?」

 

 山田は電卓を出して金額を計算始めるが、誤りを確認したのだろう。「うわ、本当だ」と頭をかいていた。澤井の仕事をこなしながらも、係の仕事のサポートも怠らない。澤井から最初に課せられた課題のおかげで新人であるにも関わらず、大抵の仕事の内容は把握していた。しかし、相変わらずの呼び出しは続いていた。


「保住!」


 聞きなれた澤井の声に保住は腰を上げる。それから彼の元に行くと、澤井は近くの打ち合わせ室を無言で見た。またなにかやらかしたのだろうか? いや。別になにもしていなくても澤井の虫の居所が悪いと八つ当たりされることは多々ある。もう慣れっこだった。


 保住は軽くため息を吐いてから、その打ち合わせ室に入っていった。


***



 澤井に呼ばれて姿を消した保住を見て、河合はため息を吐いた。最初の頃は、鼻に付く生意気な新人だし、澤井に叩かれているのが当然と思っていたのに——。


「いや、保住がいてくれて助かる。書類の精査にかけたらマシーン並みだ」


 そんな中、山田は書類をプリントアウトして満面の笑みだ。何度も悩んでいた書類の直しが終わってほっとしたのだろう。


「保住くんが来てくれて本当に助かりましたよね」


「確かにな。随分と成長してくれたものだ」

 

 澤井の側で鍛えられた保住は、課内の全ての業務を熟知した。そして、組織の中でスムーズに通りやすい書類の作成の方法、人との交渉術を身に着けた。

 

 係内のメンバーたちの信頼を勝ち得た彼は、態度が大人しくなった。澤井の教育のたまものなのか? 生意気な口のきき方は成りを潜め、新人らしい、それでいて頼りになる職員に成長していたのだ。最初はハラハラと見守っていた河合だが、今ではすっかりと信頼していた。


「大丈夫だろうか」


 係長補佐の佐藤が怪訝そうに声を潜めた。


「ここのところなかったのに、ですよね」

 

 橋谷田や山田も手を止めてその心配に乗っかる。河合も同感だった。

 

「少しはご飯食べるようになったけど、それでも仕事ばかりしているものね。心配だわ」


 ——保住くん、大丈夫かしら……?




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る