10 野良猫



「おい、大丈夫か」


 目眩でも起きているのだろうか。彼の瞳は揺れている。平衡感覚が失われているらしく、保住は両手を壁に付けて立っているのがやっとの様子だった。


「お前には酒の飲み方も教えないといけないようだな……」


 澤井は呆れていた。大野と添田を送り出した瞬間、後ろに倒れそうになる保住を支えたが、まさかこんなに酔っていたとは思ってもみなかった。

 会合中、彼はただもくもくと日本酒を煽っていたから、ずいぶん酒は強いのだと思っていたのだが——。まさか、泥酔状態に陥っていたとは思ってもみなかった。


「そんなことは、……無用デス」


「呂律が回っていないぞ」


 頬を上気させて保住は体に力が入らないらしい。すぐに澤井の腕に掴まっててきた。それから、へら〜っと笑う。


「そんなことはありませんヨ!」


「お前な……」


 澤井は苦笑するしかない。バランスを崩して倒れそうになる保住は、澤井の腰にぎゅっと手を回してきた。


「あのなあ。上司にしがみつく部下がどこにいる? 普通はお前が酒を遠慮して、おれを送って行くものだろう?」


「だって、おれを乗せてくれたじゃないレすか」


「帰りはお前に運転させる予定だったんだ。それなのに。先に酒を飲み始める馬鹿がどこにいる」


「すみません。ああ、そういうことですか! ——あのレすね、おれは色々と不具合が多いんデスよ。だから、ちゃんとはっきりと言ってもらわないとわからないんデス」


「そんなこと、知っている」


 ぎゅーっとしがみついたままの彼の腰に腕を回して、抱き抱えると、保住の匂いがぷんとした。どこか日光にあたった布団みたいな、ほこりのような匂いがした。


 ——あいつと同じ匂いだ。

 

 昔のくすぐったい思い出に引き込まれそうになる自分を諫め、澤井は咳払いをして保住を見た。


「お前の家はどこだ。送ってやる」


「え〜、いいんデスか」


「いいもなにも。ここに置いていったら女将の迷惑だ。それに、いくら男でもその辺には捨てられないだろう」


「近くまででいいデスよ。や! やっぱり、おれ、歩いて帰りますから。だいじょうぶデス!」


 酔うとこんなに陽気な男に変貌するとは。笑うしかない。


「お前なあ、大野や添田はお前の値踏みをしたかったのだぞ」


 二人がいる間、この醜態を隠し通せたのだからよしとするしかない。ある意味、本能で嗅ぎ分けたのだろう。だが堪えきれなかったようだ。それとも自分には遠慮がないということか?


「おれも舐められたものだな」


 他の職員たちから、自分はどう思われているのか、どう囁かれているのかは知っている。自分でもそれに乗じて、それに見合った振る舞いをしているつもりだ。それでいいからだ。自分への周囲の評価は、自分でも満足するものだ。

 鬼でもいい。悪魔でもいい。他の職員たちと慣れ親しむ気はないのだ。

 

 自分は過ちを犯した。それは取り返しのつかない過ちだ。だから——誰かに囲まれて幸せな市役所ライフを送るつもりはない。それは自分への戒めだからだ。

 自分は梅沢市のためなら死んでもいい。身を粉にして市役所のためだけに生きると決めたのだ。それが償いだと思っている。

 

 それにあれだ。

 

 ——おれには成し遂げたいものがある。命を賭してもだ。そのためだったら、なんでもやる。たとえ大事なものを犠牲にしても……だ。


 そんなギリギリの思いを抱いて仕事をしてきたのに。突如現れたこの男は——。

 精神的に追い込んで、限界ギリギリまで追い詰めても、こうして澤井との距離を縮めてくる。ここまで自分のテリトリーに侵入してきて、のうのうとしている職員は見たことがない。


「本当にお前は……」


 ふらふらと歩き出す保住だが、側の電柱に激突した。


「痛っ!!」


「なにをしている。本当に。世話の焼けるやつ。ほら、送って行くぞ」


 首根っこを捕まえて野良猫でも捕まえるように引っ張った。


「離してくらさいよ」


「うるさい。近所迷惑。さっさとおれの車に乗れ!」


 じたばたとする様も猫みたいだ。


 ——そうか。この男は野良猫だ。


 澤井は保住を助手席に押し込めながらそう思う。血統書はついているが、素行が粗悪。その辺に捨てられて好き勝手やってきたのだ。きちんとした飼い主のしつけがないから、高級猫なのに野良と同じような素振りだ。


「お前には、お前にふさわしい躾が必要だ。野良猫が。やはりおれは必要のようだ」


「はあ? なんレす? 猫? おれは猫なんて嫌いです」


「そうか? お前が猫っぽいぞ」


「おれのどこが猫ですか。いい加減にしてくらさいよね。えっと、なんだっけ?」


「澤井だ」


「そうそう。澤井課長」


 澤井の名を思い出し、満足したのか。ふふと笑ったかと思うと、そのまま助手席のシートに持たれて寝息を立てる。


「今度は寝るのか。困ったな」


 保住の実家は知っている。父親の時に一度訪れたことがあるからだ。しかし、この男は一人暮らしをしていると言っていた。彼の家を澤井は知らない。

 職員名簿でも見ればいいのだろうけど。生憎、そんなものは持ち合わせていない。


「はあ。どれだけ手がかかる。保住——お前の息子は、お前以上に面倒な人間だ」


 澤井は大きくため息を吐く。すっかり夢の中の保住はむにゃむにゃと何か寝言を呟いていた。


「幸せそうな顔しやがって! 本当に、なんでここまで似ているんだ。くそ」

 

 悪態を吐いてから彼を見る。


「おれは、おれです……あの人じゃない……」


「保住……」


「あんなやつ、大嫌い……」


 ——父親のことか?


 澤井はため息を吐いてから苦笑いだ。


「小学生の反抗期か。お前は……」


 澤井はそっと手を伸ばし、保住の前髪をかきあげた。露わになった顔は父親とそっくりだった。だがホクロの位置が違っている。父親は口元。息子は目元。


「同じではないのだ。あいつはいない。同じ人間ではあり得ないのだな」


 じっとしてから、エンジンをかけて車を走らせる。田舎の夜は暗い。星が見え隠れする中を澤井は車を走らせた。



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