04 鬼との攻防



 保住はため息を吐いた。一晩くらいの徹夜はどうってことないはずなのに、無意味な課題だと思うと、精神的な負担が大きいのだ。席に座ろうと椅子に手をかけた瞬間、「保住」という澤井の声が響いた。


「ちょっとこい」


 ——席にくらい座らせろっ。


 舌打ちをして、今来た道を戻った。


「なんでしょうか」


 棒読みの返答に澤井はパソコンから視線を外すわけでもなく、そばの分厚いファイルを手渡した。


「次、これだ。夕方までに提出。要領は昨日の課題と同じだ」


「……承知しました」


 ——本気で、殺すっ!


 ファイルを抱えて、保住は自席に戻った。



***



「保住くん。昨日から澤井課長から課題を出されているみたいですよ」


 河合の言葉に係長補佐の佐藤はお弁当から顔をあげた。


「課題って?」


 河合は保住のデスクに置いてある事業計画書を指差した。


「それ?」


「A4一枚にですって」


「嘘でしょう? まとめられるわけないじゃん」


「それを一晩でやったの?」


 主査の山田も呆れた顔をしていた。


「それが終わったみたいですよ。だから、次の課題」


 河合は分厚いファイルをまた指差した。それから一同は顔を見合わせる。


「いやあ、東大卒は能力が違うな」


「ヘ〜……」


 感嘆の声を上げる職員たちを見て、橋谷田は「まだまだだ」と呟いた。


 ——そう、まだまだだ。澤井課長の嫌がらせはこれからだ……。


「澤井課長に目をつけられたら、自殺したくなって退職する職員がいるって聞きますけど」


「もう何十人も退職に追い込んでいるらしい」


「あ〜あ。東大卒のインテリ君じゃあ、耐えられないんじゃないの?」


 山田の言葉に橋谷田は顎に手を当てて唸った。



***



 六月。ジメジメとして梅雨真っ盛りの時期。市役所内も湿度が高くて不快指数が跳ね上がっている。当時はクールビズなんて制度もなく、職員たちは暑苦しいネクタイを緩めることもできずにひたすら我慢をしているところだった。


「暑い」


「暑いですね」


「暑い……」


 部署みんなが口を開けば「暑い」の連呼。


 そんな中。保住はネクタイを緩めて、黙々とパソコンを打つ。

 ここ一か月以上。澤井からの連日の課題はエスカレート。最初は書類の要約ばかりだったが、ここのところは彼の書類を作らされている。

 しかし一度で通った試しはない。一つの書類を作るのに、最低十回はやり取りをさせられる。ここまでくると同僚たちも気の毒になってきたのか心配の声が上がっていた。徹夜ではないと終わらない課題も多いようで、くまと顔色の悪い保住は、橋谷田と口論する暇もないからだ。


「最近、お昼ご飯を食べているところも見てないよね」


 河合はそっと保住に声をかける。


「保住くん。パンでも買ってきてあげようか?」


「結構です。これ仕上げないと」


「でも……」


「できました」


「あの」


 保住はさっさとデータをプリントアウトすると、澤井の元に歩いて行った。一同はそれを見送ってから顔を見合わせて首を横に振った。



***



「課長。手直しいたしました」


「遅い!」


「申し訳ありません」


 彼は他の書類を横に置いて、保住から書類を受け取る。


「ここ。こういう書き方するな」


「はい」


「それから——」


 澤井は視線を上げてから保住を見た。


「お前。昼飯食ったか」


「え? ——いいえ」


 突然。澤井は保住の腕を引き寄せた。


「な、なんです? 触れられるのは好きではありません」


「黙れ」


 彼は保住の腕を取ったかと思うと、手首のところ——親指の付け根を抑え込んだ。


「……課長」


「脈が早い。冷や汗をかいているではないか」


「そうですか」


 自分の身体のこと。全く気が付いていない。澤井は大きくため息を吐いた。


「お前、脱水」


「は?」


 そう言われると——自覚した途端、膝に力が入らない。眩暈がした。寝不足だと思っていたのに……倒れる? そう思った瞬間。ふと腰に回った腕で支えられた。

 思わず澤井のデスクに手を着いて、自分でも身体を支える。


「申し訳ありません……」


「謝るのはあとだ」


 彼は橋谷田を呼びつけた。


「こいつ脱水だ。病院に連れて行く」


「え? では私が」


「おれが行く」


「しかし」


「あとはやっておけ」


 橋谷田は心配そうに彼を見ていたが、さっさと澤井に引っ張られて本庁から連れ出された。






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