06 笑顔の代償
翌日、出勤していくと橋谷田に声をかけられた。
「保住。大丈夫だったか」
彼は心配してくれていたのだろう。生意気なことばかり言って怒らせていたのに、こんなに心配してくれるだなんて、橋谷田という男は人がいい。
保住は頭を下げた。
「ご心配おかけして申し訳ありませんでした」
「いや。元気ならいいんだ。無理すんなよ」
「ありがとうございます」
それから、他の職員も。
「おいおい。少しは手伝えるのは手伝うから。言えよ」
「そうよ。昼食くらいちゃんと食べて」
——みんなが心配してくれるのか。
こんなの初めて。今まで自分の周囲にいる人は、自分に手を貸してくれることはなかったし、心配されることもなかった。足を引っ張られることはあったとしても、温かくしてくれる人たちなんて……。
「ありがとう、ございます……」
保住は頭を下げる。正直、戸惑っていた。どうしたらいいものか——。
そんな戸惑っている保住を見ていた河合は笑い出した。
「やだ。狐につままれたみたいな顔しちゃって。素直に笑っておきなさいよ」
「え?」
「こういうときは、ほら。『にこっ』ってして『ありがとうございます!』て素直に言うものでしょう?」
彼女は保住の頬をつつく。
——そうか。そうすればいいのか。
保住はにこっと笑顔を見せる。そして、「ありがとうございます」とお礼を口にした。
瞬間。周囲が止まった。
「え? え? ダメ? 今のダメですか」
きょとんとしてみんなを眺める。
「や、やだな。ちょっと。その笑顔。フェイント」
河合は顔が真っ赤。いや。彼女どころではない。佐藤や山田までちょっと恥ずかしそう。橋谷田までも視線を逸らす。
「どういうことですか。河合さんの言う通りにしたのに……ッ」
「ねえねえ。保住。あんた。課長にもそれやってみなよ」
河合はくすくすっと笑う。そんな騒ぎをしていると、いつもの如く澤井の声が響いた。
「保住! 出てきているなら来い」
「あ、はい」
——なぜ周囲の時間が止まったのか……? 疑問を抱えたまま、保住は澤井の元に歩み寄った。
彼は朝一はいつも不機嫌だ。いつもと変わりのない仏頂面のまま「今日の仕事を言い渡す」とぶっきらぼうに言った。
昨日の今日で人の体調を気遣うような言葉はないらしい。澤井らしいと言えば澤井らしいが、一応お礼しておいたほうがいいのかと思った。
保住は河合に言われた通り挨拶をする。笑顔をつけて。
「課長。昨日は、申し訳ありませんでした。本当にありがとうございました」
一瞬——。澤井の手が止まった。
——ほらみろ! やっぱり変なのだ。こんなキャラじゃないぞ! おれは!
保住は赤面し咳払いをしてごまかした。澤井は呆れた顔をして保住を見上げる。
「誰に吹き込まれたんだか知らんが。気味が悪いからやめろ」
「申し訳ありません。以後、自重します」
澤井は大きくため息を吐いた。
「おい……。余計に腹の虫の居所が悪くなった。今日は、お前が一番嫌いな業務を与えてやろう」
「え」
意地悪な笑みの澤井は悪魔に近い。
「まさかの……」
「そのまさかのだ」
澤井はにんまり笑うと、CD-Rと宛名シール、封筒の束を渡す。
「お前が死ぬほど嫌いな単純作業だ。午後の集配に間に合うようにな」
「……」
「返事は」
「……承知しました」
——不運だ。今日は最悪だ。河合に騙された。河合に騙された。
保住は何度も心の中で叫びながら自席に戻った。
「くそっ」
***
入力していたはずのパソコンの文字に誤りを見つけ、澤井はキーボードを叩いた。
「勘弁してくれ。同じ顔で微笑まれると厳しい」
『澤井——』
雪解けのおひさまみたいな儚げな笑みを浮かべ、無防備に近づいてくるあの男を思い出し、澤井は少し赤面した。
「バカか。本当に」
そう呟くと同時に、橋谷田が目の前に立っているのに気が付く。
「あの。課長」
「なんだ。黙って突っ立っているな。バカ者」
「申し訳ありません。お取込み中なのかと」
「取り込みなどしているものか!」
澤井は咳払いをして、ダンとテーブルを叩いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます