07 屈しない男
「なんか保住くん、落ち着いたんじゃない?」
電話で話す人の声や、事務機器が作動する雑踏の中、河合が不意にそう呟いた。彼女の目の前に座っている山田は、その声を受けてボールペンを置いた。
「澤井課長は恐ろしいけど、そういう点ではすごいよな。あの保住を黙らせるんだから」
「澤井課長に目をつけられたら自殺したくなるって言うし、それって本気でパワハラの域だと思っていたけど。こうして大人しくなる子もいるってわけね」
——いや、大人しくなったのではない。大人しくさせられているだけだ。
係長である佐久間はそう思った。保住の場合、普通の忙しさ程度では回路が正常に機能してしまう。澤井は保住の回路がショートして機能しないように、余計な考えを起こさないようにと人並外れた業務量を命じているのだ。
黙って聞いていた佐久間だが、二人の会話に割り込んだ。
「今のところは澤井課長の作戦勝ちだ。経験の差とでもいうのだろうな。保住はまだまだ若い」
「でも、なかなか食らいついてますけど」
四月当初、どちらかと言えば保住に対して嫌悪感を見せていた部署の先輩たちは、彼の健闘振りを見て、気持ちが揺れ動いている様子が見られる。『迷惑な新人』だったはずの彼にエールを送っているようだった。
かくいう佐久間のその一人である。あんなに失礼な男であるのにも関わらず―—だ。今ではすっかり澤井付きになっているおかげで、自分の手から離れてしまった感はいがめない。
保住と言い合いをしていた時間は、佐久間にとったらなかなか楽しい時間だったのかも知れなかった。
「保住はかなり痛めつけられている。今まで何人か澤井課長に潰された職員を見てきたが、その時の比ではない。あいつ。病んでもおかしくないのに」
大人しくさせられている中でも、保住の澤井への反抗心は薄れてはいない。そう。澤井に屈して従順な職員に成り下がったのではないということだ。
先日、打ち合わせ室に用事があって顔を出した。急用というほどのことでもなかったが、やはり部下のことは心配になるもので、無理やり用事を作って顔を出してみたのだ。案の定、澤井に説教を喰らわされている最中でも、保住は減らず口を叩いていた。そのおかげで、澤井に一発お見舞いされていたところだったのだが……。
保住は賢い。新人の割に業務を覚えるのも人一倍早いし、事務能力も高い。自分の能力を最大限に駆使すれば、澤井をうまくやり過ごすことなんて楽なはずなのに。
わざわざ澤井の気を逆撫でするような態度を取るのだから困ったものだ。
反抗的な態度は、澤井の闘争心を煽る結果を招くだけなのに、わざわざ食ってかかり、そして押さえつけられるだけ。逆に構って欲しいのだろうかと思ってしまうくらいだ。
「そうなんですか。そうは見えませんけど……」
河合はコピー機のところに立ち尽くして雑務をやらされている保住に視線を向けた。橋谷田もそれに釣られて視線を上げた。
——奴の一番嫌いな仕事。あれは嫌がらせだな。あの単純事務作業。
彼はコピー機の前で首の後ろに手を当ててぼんやりと立ち尽くしていた。
***
十月は議会で忙しい月だ。ここのところ、保住の仕事は係の日常業務ではなく澤井の手伝いばかりだった。
議会では部長たちが答弁に立つが彼らが現場の細かい話を知る由もない。議会では事前に提出された質疑について、現場の人間が答弁書を作成する。課長以下の一般職員たちは、議会開催時期になると答弁書の原稿づくりに追われることになる。
澤井付きにさせられたおかげで、新人職員の割に課長の仕事の手伝いをさせられた。澤井が残業をするのであれば自分も帰ることは許されない。ここのところ連日の午前様だった。もともと受験勉強も睡眠時間だけは確保して乗り切った保住は、睡眠に対して貪欲だった。
東大卒ともなると過酷な受験戦争を勝ち抜いてきた人間だ。よって、睡眠は少なくとも平気で仕事をこなすタフな人間が多いというが、保住の場合は例外だ。
人間の生理的欲求というものがいくつかあるが、その中で欠けては困るもの、それが睡眠だった。
「まだ終わらんのか」
眠さでぼんやりとしていると、澤井の気配がする。はったと視線を上げると、すぐ隣に澤井が仁王立ちしていた。すぐ隣に立たれると大柄な彼は圧迫感半端ないが、もう慣れたものだった。
「コピー機に言ってください。これ以上は早まらないようです。そんなにお急ぎなら早めに指示してくださいよ。コピー機の印刷速度はご存知でしょう?」
「相変わらずの屁理屈。そんな元気があるなら大丈夫だな」
「心配してくださるんですか? ああ。槍でも降りそうだ」
「心配などするか。お前の代わりなど山ほどいる。お前一人抜けたところでどうって事はない。使い捨ての駒が。奢りもいい加減にしろ」
「そんなに言わなくても。ムキになられるという事は、あながち当たっているのではないですか」
保住は悪戯に笑う。
「お前の自意識過剰にはほとほと呆れるな。いくらへし折っても戻るそのプライド。呆れるとしか言いようがない」
「お褒めの言葉として受け取ります」
保住は「ふふ」と笑ってからコピー機に視線を戻した。
***
二人の様子を遠巻きに眺めて、橋谷田は目を細める。
「楽しそうに見えてしまうのは、現実なのか。それともおれの願望なのか」
いつもは冷たい視線で部下をこけ下ろす澤井が、時折見せる微笑は珍しい。
——つい微笑ましく思ってしまう自分はおかしいのか?
そんなことを心に思いながらパソコンに視線を戻すと、窓口対応をしていた河合の声が耳にはいってきた。
「はあ、しかし。あの、保住にご用とは……」
橋谷田はぼんやりと視線を巡らせて彼女の対応している相手を目視した。相手は——。総務部次長の大野だ。
橋谷田ははったとして、慌てて窓口に出る。
「次長! いかがされましたか」
「次長?」
河合は怪訝そうな顔をしていた。なにせここに次長以上のクラスが顔を出すなんて珍しいことだから。信じられないというところだろう。
一般職員は課長級以上の管理職の顔を一度も見たことがないものもいるくらいの話だ。新人になると、自分の上司である部長の名前を言えないものもいるくらい、馴染みのないものだ。
正直言って、橋谷田も自分の目を疑ってしまうような事態だった。
「いや。別に用事というわけではないのだが……澤井くんは?」
「ただいま」
橋谷田はそう返答するか否や、すぐに澤井に声をかける。
「課長。総務次長が」
彼の声に澤井も顔を上げて、すぐにカウンターのところに歩み寄る。
「どうされましたか。珍しいことです。議会中でもあるのに」
「いやね」
二人の会話が始まれば、下々の者たちは席を外さなくてはいけない。橋谷田は河合の背中を押して席に戻った。彼女は不本意そうだった。
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