第7話 夢見草



 結局、初日なのに庁舎を出たのは夜の七時を回っていた。初日から残業だ。やはり甘くはない。

 あの後はずっと企画会議だった。アニバーサリーの企画の案についての討議をしたのだ。さすが各部署で選ばれた職員の集まりだ。昨年度の研修会を思い出しつつも、そこに保住が入ることで、ますます活発が議論が繰り広げられたのだ。

 様々なアイディアが出され、それらを集約するには、また時間を取る必要があるほどだった。


「ずいぶんとアイデアが出ましたね」


 田口の言葉に保住は、眠そうに目を擦った。


「眠そうですね」


「……そのようだ」


「明日も仕事です」


「そうだな……」


 目を擦り擦りしている彼は子供みたいだ。田口は苦笑しながら庁舎の外に出る。

 

 庁舎の脇には親交のある都市から送られた桜の木があった。ふと頭上を仰ぎ見ると、そこには桃色の花が蕾を持っているのが見える。ここのところの温暖化で桜が咲く時期は早まっている。

 昔は入学式の時期に間に合うかどうかだったが、この調子だと今年もいち早く咲いてしまうに違いない。

 余裕のない保住がそれに気が付くはずもない。田口が立ち止まっているのを訝しみ、声を上げた。


「田口?」


「保住さん、桜。もう少しですね」


 田口の言葉につられて、彼も視線を向けた。


「ああ、そうだな。そういう時期なのだな……」


 彼は黙っていた。


 ——なにを思っているのだろうか。


「夢見草……」


「え? なんです? それ」


「桜の異称だろうが」


「初耳ですけど」


「そうか。別にいい。ただ思い出しただけだ」


「保住さん……?」


「疲れたっ! さっさと帰って寝る。今晩は指一本たりとも触れるなよ。いいな?」


 突然に怒り出した保住の心中を、田口は知る由もないが。そこでふと気がついた。

  この時期、保住はどこか物憂げに黙り込んでいる時があるのではないか? 

 いつも年度の切り替えで忙しい時期だから、あまり気にしたことはなかったのだが……。

 自然を愛でるような感性を持っている人ではないと思っていたが、桜の異称を口にするなんて、なんだか違和感を覚えた。

 だがあの様子だと問い詰めても口を割ることはないだろう。特段、気にするようなことでもないのかも知れない。なにせそのことを知らなくても、こうして一緒にいることになんら支障があるわけではないからだ。


 半分怒り気味の保住の後をくっついて、春の匂いのする夜風を堪能する。冬のヒンヤリとした空気とは違いどこか埃くさいような……。


 ——埃と言えば、お日様の匂い。保住さんの匂いだ。


 たった一日しか経過していないのに、こんなにも気持ちがすり減っているのか。保住とこうして二人きりになったことに安堵しているのだった。


 今日の彼は生き生きとしていた。勿論、昨日までの振興係長が嫌だったわけではないのだろう。だがしかし。このポジションは彼にとったら水を得た魚の如く自由に跳ねまわれる。


 澤井は保住の使い方を熟知しているのだ。

 保住が入庁当時から出来た職員であったかというと、そうではない気がしてならない。多分ここまで育て上げたのは澤井だ。


 彼は自分がいいように使いこなせる職員として、保住を育ててきたのだ。ゆっくりと、時間をかけて。田口が入り込めないほどの時間だ。


 いくら副市長までのし上がって、全てを手に入れたとしても、澤井一人ではたかが知れている。

 彼はこの市役所人生をかけて、今の地位を確固たるものにするために、こうして自分に都合のいい手駒たちを手に入れていったのだろう。


 そしてきっと、自分も多少なりともそこに組み込まれたような気がしてならないのだった。


 ——澤井副市長は、保住さんを使いこなして更になにを求めるのだ? これ以上に一体、なにを……。いや、やめよう。


 そのことは経験も知恵もない田口には計り知れないことだと気が付き、考えることを止めた。


 しかし保住も保住だ。周囲から見れば「澤井にうまく使われている」と見られがちだが、むしろ彼はそれを利用して自分の好きな仕事を手に入れているのだ。


 市役所で自分がやりたい仕事を選べるなんて不可能だ。どんなに上に行ったとしても、人事だけはどうしようもない。例え市長や副市長でもだ。


 市役所という組織はそういうところだ。個人の意向で人事は決められない。組織が崩壊するからだ。

 

 今回のように澤井が保住を抜擢した人事的ゲリマンダリングは、特例中の特例だ。係長であった保住が副市長直轄の室長に任命されるだなんて。しかも彼は係長として一部署しか経験していないのにだ。

 

 副市長直轄の室長など等級で言えば、多く見積もって次長級もしくは課長級だ。財務の廣木に嫌がらせされるのも頷けるのだ。身内の嫉妬は回避できないものだから。


 ——知っている。嫉妬はひどい。おれも、あの時は……。


 昔の傷が痛んだ。田口にだって嫌なことの一つや二つはある。いや、保住と出会うまでは、嫌なことばかりだったのかも知れない。


 ——もうすっかり忘れていたのだな。


「早く歩け。なんだ。今朝はおれのことを引っ張っていたくせに」


 はったとして顔を上げると、保住がじっと立っていた。


「すみません。おれも疲れました」


「なら早く帰るぞ」


 珍しく色々なことが頭の中に渦巻いているのは、疲れのせいなのか。それともこの春の宵のせいなのか。不吉な思いを振り払うように首を横に振ってから、田口は保住の元に駆け寄った。




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