第4話 再会

 数日の月日が経った。


 アユムは毎日屋敷の家事を忙しなく手伝っていた。ルジアは稀人は客人なのだから何もしなくていいと言っていた。

 稀人というからには何か特別なことを求められるのかと身構えたのだが、そうでもないようで拍子抜けした。普段何をしているのかとか、どんな食べ物が好きなのかととか、友だちと何して遊ぶのかとか。たわいもない、誰にでもできる普通の会話をすれば、満面の笑みで喜ぶところは普通のおばあちゃんと変わらないなとアユムは密かにおかしかった。

 なら部屋でゆっくりしていたかと思えばそうでもなくて、自分でも不思議なことに、何かしていなければという思いがひりひりと頭にこびりつき、離れなかった。部屋でじっとしている居心地の悪さに耐えられなかったのだ。

 この屋敷は大きいこともあって、部屋にいると常に誰かが働いている音が聞こえてくる。その音はこの世界を構成する歯車が回る音のようであり、それに噛みあわなければという気にさせるのだ。


 あ、ここにもある。


 居心地を悪くするものはほかにもあった。

 この屋敷にはいたるところに犬を模した石像やお札がある。それが可愛らしい犬であればいいのに、どれも口が耳まで裂けたような奇妙なものばかり。その恐ろしい姿を見るとアユムは見ないふりを決め込んでいた。


「アユム、またそんなことまでして。子どもなんだから、外に出て遊んできなさい」


 屋敷中の雑巾がけをしているアユムを見て、あきれ顔で声を掛けてきたのはユウだった。サリナの親戚で、もうすぐ二十歳になるらしい。この家に住み、主に家事手伝いをしている。おっとりと笑う綺麗な女性だ。


「でもじっとしているのも、なんだか落ち着かなくて」


 アユムは叱られた子どものように、もじもじと雑巾を手遊びでいじりながら言った。


「それよりも何かお手伝いできることないかな? 何でもいい、僕も皆みたいに働きたいんだ」


 ユウはハタキを片手に困ったように笑って言った。


「うーん、でも本当にアユムは何もしなくていいのよ? まだこの村にも慣れないだろうから、ゆっくりしていていいの。いずれ働かなきゃいけなくなるんだから、いまラクしておかなきゃ勿体ないわよ」


 努めて明るい声で話すユウ。だがその言葉は逆効果だったようで、アユムは沈んだ顔で下を向いていた。


「うーん、困ったわねぇ」


 ユウは首を傾げ、しばらく何やら考え込んでいたかと思うと、「あっ」と声を上げ表情を輝かせた。


「そうだ、アユム君。もしよかったらお願いしたいことがあるんだけど」


 お願いしたいこと。その言葉を聞いてぱっと顔を上げるアユム。期待に満ちたその視線にユウは苦笑いをするしかなかった。



 それからアユムは独り、森のほとりにある川にいた。


「もしよかったら川で今日の晩御飯のおかずを獲ってきてくれないかしら」

 ユウはそう言うと、どこからともなく釣り竿を持ってきた。


 アユムは釣りが得意だ。お父さんはアウトドアが好きだから、何度も行ったことがある。餌を自分でつけることもできるし、魚を針から外すことだってできるのだ。アユムは「任せて!」と胸を張って出かけるのだった。


 教えられた通り、川沿いを歩いて遡ると、しばらくして森が見えてきた。大小さまざまな石が転がっており、大きな樹が傘のように覆いかぶさるところには適度な木陰ができている。


 きっとここなら魚もたくさんいるに違いない。


 アユムはワクワクする気持ちを抑え、早速釣りの準備を始めた。手頃な石を使って生け簀をつくる。餌はちょっと大きめの石をずらせばうじゃうじゃいた。

 竿を振って餌を投げ入れる。あとは魚が食いつくのを待つばかりだ。


 水面は穏やかで目を閉じれば川のせせらぎが聞こえてくる。時折吹き付ける風には苔むしたような森の香りが含まれている。ここに来るまでに歩いて火照った体も、ひんやりとした石が疲れと一緒に吸い取ってくれるようだった。


 誰もいない、静かな時間。

 アユムは深く息を吐いた。


 そのとき、竿が大きくしなった。魚が餌に食いついたのだ。アユムはすっくと立ち上がり、満面の笑みで竿を引いた。この手応え、中々の大物だ。小さな体をしならせるようにして全身の筋肉を使い、何とか引き上げた。


 いま目の前には、種類こそわからないが立派な体躯をした魚がまだピチピチと動いており、光をキラキラと反射していた。魚が飛び散らせる水が顔にかかり、汗とともにアユムの顔を濡らす。心臓がバクバクと音を立てていた。

 魚は生け簀に放つと元気に泳ぎだした。まだまだ1匹目だ。もっとたくさんとらなきゃ! 勢い込むアユムだった。


 それからも順調に魚は連れ続けた。生け簀には何匹もの魚が悠々と泳いでいる。それを見てアユムは誇らしい気持ちでいっぱいだった。自分独りでもこれだけたくさんの魚が釣れたのだ!


「ねぇお父さん見て! すごいでしょ」

 思わずアユムはそう言って振り返った。


 しかしそこにはもちろん誰もいない。アユムはさっきまであれほど弾んでいた気持ちが、急速に萎んでいくのがわかった。

 とぼとぼと木陰に戻るアユム。さっきまであんなに楽しかったのに、最早これ以上釣りを続ける気にはならなかった。


 アユムが木陰に引っ込み、水面をぼけっと見ていると、いつの間にか一人の男が生け簀を見ていた。


 誰だろう? どこか見覚えがある姿だ。


 声をかけることもなくじっと見ていると、その男はすっとアユムの方へと振り返った。「あっ」思わず声を上げるアユム。あの日、葬列を一緒に見送った男だった。


「よく獲れたじゃないか」


 男はそう言って、大きな手でくしゃりとアユムの頭を撫でた。その顔は無表情だ。だがアユムはそこに父親の姿を幻視した。思わず涙が出そうになったので見られまいと俯いたのだが、そのせいで余計にぽろぽろと涙が零れてしまった。


 ……帰りたい。皆に会いたいよ。


 アユムはそのとき、ここに来て初めて大きな声を出して泣いた。男は何を言うでもなく、ただじっと頭を撫で続けてくれた。


 しばらくしてアユムが泣き止むと、男は木陰へと連れ立ち、何を言うでもなく隣に座っていた。



「ごめんなさい」


 気持ちが落ち着いたアユムが頭を下げると、男は不思議そうにこちらを見ている。

「突然泣いちゃったから」とアユムが言っても、それは変わらなかった。何も言わない男にどうしたものかとアユムが困惑していると、それが伝わったのか、男が前を指差した。つられてアユムが前を見ると、横で声が聞こえた。


『跳ねる魚。静寂を破る音』


 するとさっきまで静かだった水面に、何匹もの魚がぱしゃぱしゃと一斉に跳ねだした。叩かれた水面が白い羽のように見える。だが次の瞬間、何もなかったかのようにそれらが一斉に消えた。


『猛き鹿。争いの音響き渡る』


 するとすぐ傍でいつの間にか2頭の鹿が現れ、「ケーン」とサイレンのような高い声で鳴きあうと、その枝分かれした大きな角を互いにぶつけ合った。

 目の前で繰り広げられる光景に後ずさりして怖気づきつつ、アユムはその迫力に目を離せずにいた。


 だがその光景もふっと幻のように消え去る。驚き横の男を見れば、ふっと柔らかな笑みでアユムを見ていた。

 これが魔法によるものだとアユムが気づくまで、しばらく時間がかかった。それがわかればさっきまで泣いていたのが嘘のように、アユムは男にもっともっとと次の魔法をせがんだ。しかし男は安心したように笑うばかりで、気づけば辺りも暗くなってきたので二人で後片付けをして家路についた。


 男とともに屋敷につくと、その釣果を見てユウはとても喜んでくれた。さらにユウは晩御飯になると、調理された魚を指して、さも自分のことのように誇らしげにアユムの釣りの腕を自慢するのだった。

 男は一緒にご飯でもと引き留められたのだが、すぐに帰ってしまった。アユムは二人の会話から、そのとき初めて男がクオンという名前だと知った。



 アユムはその晩、とても幸せな気持ちで寝付くことができた。魔法とはあんなこともできるのだと思うと胸が躍った。目を瞑り、そっとアユムは呟く。


『熊五郎、おいで』


 すると「くぅん」といういつもの声が聞こえた。


 これは幻なんかじゃないんだ。


 アユムの脳裏には今日見た本物と見紛うほどの魚や鹿の姿があった。魔法の力があれば、きっとまた皆と会える。アユムの胸は希望で満ち溢れていた。


 後日、クオンはあのとき、泣くアユムを前にただ狼狽えていたのだとアユムは知ることになる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る