1270年~1277年

その美味を嘘にするな(前)

 1270年10号月、マルソイン家からハーシュサクに手紙が届いた。


「やったぞイオ。アンデルバリ伯爵夫人がご懐妊だ」

「本当ですか!?」


 ハーシュサクが社長を務める貿易会社のオフィスで、僕は思わず声を上げた。あのカズスムクが、もう父親になるのだ。


「何かプレゼントを見繕おう。ああ、【肉】はカズスムクが手配するだろうから、それ以外でな。健康に良い食べ物だとか、ベビー用品だとか。妊婦はとにかく栄養が不足しがちで大変だぞ」

「あー、先日営業が来てた角の手入れ油はどうです? 肌に優しくて匂い控えめって触れこみでしたけど、つわり中の女性から、肌の弱い赤ん坊にぴったりかも」

「いいな、それ。この間の営業に連絡してくれ」


 出産予定日は来年の4号月から5号月ごろだろう、とのことだった。

 名前の候補は男の子ならゾーネムユリ、女の子ならベツアペルテス――後者は、カズスムクの亡き母親と同じものだ。


 この時の僕は浮かれていた。タミーラクが亡くなって一年も経たないカズスムクのことは、離れていてもやはり心配なものだ。けれど、彼の傍にはソムスキッラがいて、二人の間に子供が生まれる。時間は確実に前へ進んでいるのだ、と。


 だから、僕は基本的な原則を忘れていた。あるいは目を逸らしていた。

 命は他の命がなければ生きていけない。

 一つ新たな命が生まれるのなら、一つの命がまた、食われるのだと。



 ソムスキッラの妊娠が安定期に入ると、マルソイン家の領地であるアンデルバリ伯爵領でその旨が告知された。それはただの、めでたい知らせではない。

――『来年春に出産予定のもののうち、我が子をニマーハーガンの贄に差し出すものを募る』そういうお触れだ。


 貴族の贄は、使用人たちの中でも素性がはっきりとしていて、三年以上仕えた経験があり、信用できる者の中からのみ選ばれる。何年何月に贄となって死ぬ契約を交わすと、給金が増え、待遇も段違いだそうだ。

 だがニマーハーガンの贄は違う。

 大抵はその領民の中から候補者を募るのだが、差し出した家はまとまった報奨金と栄誉を与えられるため、名乗りを上げる者は多かった。


 古い時代の王族や有力者たちは、跡継ぎの長男の角が生え変わると、次男を殺して食べさせたと言う。三男であれば四男を、長女であれば次女を。

 だが、これはいかにも効率が悪い。時代と共に、長男に食べさせる者は三男や四男に、次には従兄弟へ変わって、養子を食べさせる所に落ち着いたのである。


 しかし――いかな貴族でも、子供に与える贄をすべて育てることは負担が大きい。経済的にも精神的にもだが、先に贄を食べた上の子が、後に控えた贄の子に「君は殺されるんだよ」と秘密を漏らしてしまう危険もあった。

 それを避けるため、子供が逃げられないよう屋敷の一室に監禁していた家も多い。

 タミーラクのように、末子の贄候補スタンザにまで、共に育てた子を食べさせる例は稀なことなのである。



 1271年4号月の末、ソムスキッラは無事に健康な男の子を出産。翌5号月、カズスムクは一人の赤ん坊を連れてくると、その片角を赤く塗った。

 名前は贄の子を引き取った貴族が自由につける。カズスムクは、長男ゾーネムユリに与える子に、タシティカル〔Tastiqar幸福〕と名付けた。赤い名前だ。


 翌年も、その次の年も、カズスムクとソムスキッラの間には順調に子供が生まれていった。次男ディムリシリル〔Dimlisirgr高みに座るもの〕、長女ベツアペルテス、次女チラヌシュカ〔Tiranushkaさばかれる〕、三男ゾクトイヴ〔Soktoiw賢いもの〕。

 マルソイン本邸には、五人の兄弟姉妹と、長男長女のための生け贄、計七人の子供たちが暮らしていた。次男次女と三男のニマーハーガンは、角が抜けてから買ってくることになっている。


「子供のころは、大勢の兄弟が走り回る屋敷に憧れたていたんだ。少しだけ、ね」


 二十五歳を越え、帝国イグニブラ議会ウィドルの議員資格を得たカズスムクは、子どもたちで賑わう屋敷で幸せそうに見えた。

 鹿角を削って造るのは、長男に与えるための〝宿り牙〟の短剣アウクだ。もう数ヶ月もあればゾーネムユリの角は生え変わりのため抜け落ちる。宿り牙はその時、子供に角の代わりとして与える大事なお守りだ。

 そして角の生え変わりニマーハーガンは、タシティカルの命の終わりが近いことを意味した。


 そして気がかりなのは、子供たちの誰もが〝赤い名前〟でははないことだ。カズスムクは贄候補スタンザを選ぶことに、まだ踏ん切りがつかないのかもしれなかった。

 もちろん、いつまでも先延ばしに出来る問題ではない。

 必ず責務の時はやって来る。そしてザデュイラルで生きること、特に家長であるということは、生かすことと殺すことをを選択し続けねばならないことなのだ。

 それは、僕も同じだった。



 祭礼の贄は、少なくとも自分が殺されることも、そうしなくてはならない理由も知った上で祭壇ウプトアに乗った。だがニマーハーガンの贄は、自分が殺されることも知らず、父親だと思い慕った相手に殺されるのだ。

 だが、殺される理由を説明して、それを納得させることなどできるだろうか? 死にたくないと泣きわめかれてしまえば、こちらの心がくじける。


 だから。ゾーネムユリの角が抜けたその日、カズスムクはタシティカルを屋敷の一室に隔離した。医師であるヴェッタムギーリから、「きみは病気だから、人にうつさないようしばらく一人で寝なさい」と説明を受けて。

 あの子は何も疑わず、しばらく寝坊し放題だと喜んでいた。


 子供を断食させることは難しい。その代わり、タシティカルには固形物を徐々に減らして、粥やスープを与えていった。それがほんの、四、五日間のことだ。

 ゾーネムユリの新しい角がはっきりと生えてきたことが確認されると、カズスムクは睡眠薬メレナ入りの菓子を焼いた。


「元気になって良かったね、タシィ。お父さんとお母さんが、お祝いにお菓子を作ってくれたから、一緒に行こう」


 僕は確か、そんな感じのことを言ってあの子の手を引いたと思う。記憶力に自信はあるのだが、この時のことは思い出すのも気が重いのだ。


、ゾーンもいる?」

「さあ。たぶん、いるんじゃないかな」


 ハーシュサクが、僕の名前はGoと書くが、元々はJoだったんだと教えたので、こんなあだ名が定着してしまった。

 僕は適当なことを言って誤魔化しながら、早足になるのを堪えてタシティカルを連れて行く。長い長い廊下を越えて、階段を降りて、逃げ出したい気持ちで。

 この子は殺される。僕はその手伝いをする。今はただ主犯ではないと言うだけで、いずれは僕も、我が子のために同じことをしなければならない。


 食堂にはカズスムクとソムスキッラの他に、ハーシュサクとヴェッタムギーリが勢ぞろいしていた。万が一、タシティカルに勘づかれた時は、速やかに男たちで静かにさせなくてはならない。全員が共犯関係だ。

 ただ、この時ソムスキッラは、すでに第六子を妊娠して腹がふくらんでいた。だから無理に同席しなくとも良いとカズスムクは止めたが、彼女は強いてここに居る。


「とうさま、かあさま、このお菓子食べていいの?」


 着席したタシティカルは、大きな緑の瞳をきらきらさせて、目の前の皿を見つめた。それはクリームが挟まれた丸い焼き菓子で、上に宝石のような蜜漬けのチェリーと粉砂糖が散らされている。生地はカルダモンを練りこんだ、甘いブリオッシュ。

 甘ったるい砂糖の塊にスパイスがアクセントをつけて、子供も大人も喜ぶ一級品のスイーツだ。痛ましいほどに、手をかけられた一皿。


「最近はあまりお菓子も食べられなかっただろう、タシィ。後でゾーンも来るから、先に食べてしまいなさい」


 カズスムクは声も、表情も、時が止まった海のように穏やかだった。

 その隣のソムスキッラは、我が子同然に育てた子を安心させるように微笑みかけている。日陰の花を思わせる、普段の彼女らしからぬ儚い笑み。

 両親に促されたタシティカルは、迷わず菓子に手を出した。これに盛った睡眠薬はヴェッタムギーリが処方したもので、食べ終わった後の茶を飲み干して間もなく、ごく自然にタシティカルは眠りに落ちた。実に見事な手ぎわだ。


 床に倒れかけた小さな体をハーシュサクが支えると、ソムスキッラが「こちらへ」と両手を伸ばす。彼女は意識のないタシティカルを抱えると、しばらく髪と、赤い片角をなでた後、意を決した表情で夫に預けた。


「美味しく作ってあげてね、カズスムク・シェニフユイ」

「この力の及ぶ限り、誓ってそのように」


 タシティカルを両手で抱えたカズスムクを先頭に、僕らはソムスキッラに見送られて厨房へ向かった。この時、タシティカルは六歳、体重は46コドラほど。


……ああ、ここから先のことは、僕はあまり思い出したくない。

 すべてはつつがなく、手順通りに進行した。幼い子供の腹を切り、手を突き入れて心臓の大動脈をちぎって、首を落とす。

 血を抜き、毛を剃り、解体し、料理する。この時、【肉】はできる限り一日で使い切らなくてはならない。幼い子供のユワが自分の死を意識する前に、手早く輪廻の遣いコランハサの元へ送ってやらねばならないからだ。


 もちろん、それは六歳の幼児が食べ切れる量ではないため、僕ら親族も相伴に預かることとなる。その一方で、贄になった子を差し出した元の家族には、我が子を口にする権利はない。この点も祭礼の贄とは異なる点である。

 ニマーハーガンのために引き取られた子供は、正式に養子縁組されているからだ。


 さっきまで生きていた【肉】は、死後硬直で独特の手応えがした。

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