三 疾く故郷のガラテヤにお帰りなさい
後で聞いた話だが、イェキオリシ伯爵令嬢ソムスキッラは、婚約者のカズスムクにこんなことを言ったそうだ。
僕が典礼語手話のレッスンを受けていた時のことである。
「ねえ、カズー。わたくしたちが結婚して子供ができたら、その子たちの教育はすべて任せて欲しいの。あなたは教育方針も、ましてや何かのレッスンをつけるだなんて、決して口に出さないでちょうだい。【肉】をさばく手ほどきだとか、必ず父親が教えなくてはいけないもの以外は、何一つとして。お願いよ」
話し合ったカズスムクはしばらく雪像のように無言になり、やがて「分かったよ」としおらしい様子で承諾した。いやはや、婚約中の若い男女の会話としてはロマンの欠片もない、実際的なものである。
そして、この一件に触発されたカズスムクは自省の機会を得た。
どうやら自分の指導法は手厳しすぎるようである、と。今度誰かにものを教える時は、もっと手加減しよう、と。
だから、僕に初めてのサラダ――あのトマトを切って塩を振っただけのものをそう呼ぶのは、まだ抵抗があるが――を作らせたカズスムクは、手話のレッスンに比べれば意外と優しかったのである。
そして彼の手加減は、その時点で在庫切れになった。
「冬は死の季節。雪降る中で戦争を仕掛ける者は、
僕が初めて剥いたじゃがいもは、奇岩のミニチュアのようにデコボコして、それは見るも無残な有様だった。その時、カズスムクは前述のように語りだしたものだ。
「イオ、暦は春ですが、あなたの心は冬に取り憑かれています。心暖まる土地でしばし、お休みになられた方がよろしいのではないか……僭越ながらそう存じます」
つまり、
「てめえのような頭の回っていねえボケナスは、とっとと故郷のガラテヤに帰りやがれ、この(※編註……ポリティカルコレクトネス違反により削除)!」
と罵倒しているのだ。
「僕は……まだ、やれます。やらせてください」
喉に血が滲むような心地で声を絞り出した。カズスムクが沈黙していたのは、たっぷり一分ほどだっただろうか。彼が口を開くと、地獄の門が開いた気がした。
「……多くの場合、面接では三つから五つ程度の材料を用意され、これを使って何か一品調理せよ、と指示されます。調味料や調理器具は向こうがそろえますが、材料は毎回異なり、いくつかのレシピを覚えただけの付け焼き刃ではどうにもならない」
「〝レシピを覚えるのではなく、レシピを創出せよ〟ですね」
僕は神妙に相づちを打った。
「ええ。料理そのものは単純な作業の積み重ねです。レシピの工程を忠実に再現していけば、誰でもそれなりの料理が出来上がる。しかし、再現に必要な技術がなければどうにもならない。あなたはまだ、レシピに従うことすらできない段階です」
「……申し訳ありません」
いいえ、とカズスムクは首を振った。
「私の忍耐もまだまだ足りないのです。腹は立ちますが、じっくりとやっていきましょう。あなたという食材に必要な火加減を、これから見極めていきます」
もしかして、あまりに悪い生徒なら食われるのだろうか?
不吉な予感に一瞬おののきながら、僕は改めて包丁を握った。それから数ヶ月、来る日も来る日もじゃがいもを剥く毎日だ。ようやく剥き方に慣れてきたら、今度は付け合せの揚げ芋を作るため、じゃがいもを六または八等分にカットする技術を学び、「結局厨房の下積みと変わらないのでは?」という疑問を堪える。
当然、その間もザドゥヤ貴族流のハイコンテクストな罵り文句がついてきた。
そして再び、夏至祭礼の季節が来る。
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