二 生きて厨房から出られると思うなよ

 ザデュイラルにおいて、『料理テム(食べ物)』は魔法の言葉だ。それは比喩表現というだけでなく、おとぎ話や民間伝承においても事実そうと扱われている。

 物語にはしばしば「料理する人テミュルカ」〔Temiewrqa〕という超常の存在が登場し、不思議な料理の力で怪物を退治したり、病気を癒やしたりするのだ。


――どうやらテミュルカは、単なる料理人よりも「魔法使い」と解釈すべき言葉のようである。


 例えばヤビヒンカ〔Jabicinkaわらの束〕という魔法使いテミュルカは、人の心臓から血を盗む怪物・ブロヴォコオイ〔Browoqoi〕の頭をキャベツの玉で叩き割り、その脳をシチューにして食べてしまう。殺害に使ったキャベツも入っているので無駄はない。


 炎のケーキが大好きな魔法使いデルデヌアヒ〔Derdenuabchiケンカっぱち〕は山火事をぺろりと食べて鎮めた後、火事を起こした悪竜と戦った。

 他にも、悪魔をフライパンで叩いて潰し、パンケーキにする話。船を沈めた巨大魚を釣り上げて食べる話。王の病をごちそうに変えた不思議な王子の話などなど。

 ザデュイラルの古い物語には、「食べられないものを食べられるよう、料理して解決する」類型が驚くほど登場する。


 ガラテヤ人である僕の感覚からすると、何ともユーモラスなことだ。だが、魚も鳥も卵も乳も食べられない、彼ら魔族の切実な苦しみと願いが、こうした「すべてを調理する全能の料理人」という存在を物語に求めたとすると、切ないものである。


 だが考えてもみれば、料理に呪術的な側面があることは自明の理だった。

 調理において欠かせない道具はなんと言っても火だろう。そして火は、言うまでもなく人類の知恵の象徴であり、文化の根源だ。

 なまの食材、すなわち自然のものを火にかけて、文化の側へと移行させる。それが、超自然の悪魔や災厄を屈服させる見立てとなるのも、当然の成り行きだ。



 だから文化人類学の門徒として、僕がザデュイラル料理を習得することは使命なのである。と、自分に言い聞かせることになんとか成功した。


「準備はできましたか、イオ」

「ばっちりです、伯爵」


 マルソイン別邸の厨房で、コックコート姿のカズスムクと向かい合う。僕は同じコートに袖を通すのは早いと言われ、上着を脱いでエプロンだけつけた格好だ。

 厨房の片隅には黒板と長机が設置され、僕は立ったまま筆記具を握りしめた。カズスムクは腰のベルトに教鞭を吊っているが、そっちは見ないようにする。


「いいですか、大学入試の調理ではいかなる肉類も扱いません。すなわち、あなたが学ぶべき範囲は〝スコズ〟と同じ青果と穀類の扱いです」

「スコズと同じ?」

「肉類を扱わない調理者をそう呼ぶのですよ。とはいえ、それ以外のあらゆる食材と、その取り扱いに精通する必要があります」

「ちょっとお待ちください」


 僕が初めてザデュイラルに来た日の夕食には、猿の肉団子が出た。だが、マルソイン家お抱えの料理人はスコズだけで、それ以外は祭礼の時に呼ばれた聖厨職人イェルテミぐらいのものだったはずだ。では、他に誰が肉団子を作れるのか?


「……もしかして。僕が初めてこの家で食べた夕食は、伯爵が作られましたか?」

「おや、よく覚えておられましたね。そうですよ、客人へのもてなしとしては当然のことですから」


 それならそうと早く言って欲しい! 僕は血が引く感覚を味わった。

 ザデュイラルの食事は基本的に豆と芋とキャベツだ。十日か一週間に一度、食用猿をつぶして食べるのが何よりのごちそうで、いくら植物性油脂を加えてもどこか物足りない感覚がある。僕は猿肉を大喜びで食べていたが、あれが全部カズスムクの手料理だったなら、もっと謝意を示しておくべきだったのではなかろうか。


「そのような些事さじは忘れておしまいなさい。今はただ、料理の〝いろはエッタ・アー・ビー・ハー〟〔eth ABC(ⰀⰁⰜ)〕を覚えることだけ考えるのです。気を散らすことは許しません」

「アッハイ。じゃがいも百個の皮剥きでも、かまどの見張りでも何でもします」


 やれやれ、とカズスムクは憂い顔でかぶりを振った。何も知らない乙女がそれだけで転倒し、頭を打って死にそうな貴公子の仕草である。


「そのような下積み仕事をしている暇はありませんよ、イオ。ちまちまと細かい手技しゅぎを磨く所から始めては、十年経っても終わりません。それでは困るでしょう」

「大いに困ります」


 やらずに済むならこんな嬉しいことはないが、それで楽できるほど甘いものではないだろう。カズスムクが僕にズルする方法を教えるなど、決してありえない。


「ですからズルをしましょう、イオ」

「あなたの高貴な口からそんな言葉が出るとは思わなかった!!」

「料理は日々の営為、手を抜ける所は抜く、利用できるものは利用する。食材に誠実でさえあれば、何をやってもいいのです」


 ふふん、とカズスムクは胸を張った。まるでその胸が世界の真理を記した石版ででもあるかのように、光り輝くほど堂々と。


「問題はズルをするにも、基礎的な力を測らなければならないことです」

「まあ、包丁を握ったこともありませんからね、僕は」


 というわけで、そこから始めることになった。

 包丁の持ち方、材料の持ち方、正しい姿勢、基本の切り方などなど。実際に何かを切ることはなく、カズスムクが黒板に描いた図を真似するということをくり返し、あっという間に一時間ほどが過ぎた。そんなに難しい内容ではない。


「では、初めての料理を作っていきましょう」

「もうですか!?」


 まだ基本の姿勢を教えられただけなのに、何かを作れとは予想外だ。僕は途方に暮れた気持ちで頭を抱えた。


「何を作るにせよ、まともに仕上げる自信なんてありませんよ」


 僕が見てきたザドゥヤ人は皆、ガラテヤなら普通にレストランで務められそうな技量の持ち主ばかりだった。とてもじゃないが、自分があのレベルにまで達することができるという見通しはまったくない。少なくとも、今は。

 カズスムクは、僕の料理のできなさをまだ軽く見ているのではなかろうか? 〝包丁を握ったことが無くても、少し触れば何か作れるだろう〟なんて。


「失敗を恐れてはなりませんよ、イオ」


 こちらの憂鬱を知ってか知らずか、眼帯の伯爵はあくまで朗らかだった。


「極論、料理というものに失敗はありません。多少残念なことになっても、惜しいことになっても、絶望的な仕上がりでも、食べられるなら『良し』と言えるのです」

「ははあ、食べられれば……」


 僕は額をなでながら、自分がしくじった時のイメージをつい連想した。焼きすぎて炭になったものや、食べれば腹を壊しそうな生焼けのものなんかを。

 手のひらを開いて問う。


「では、どうしても食べられない代物を作ってしまった場合は?」

「貴様は生きて厨房から出られると思うなよ」


 地獄の底から響く低い声音がたおやかな唇から流れ、僕の背筋にどっと冷や汗が噴き出した。その手には、いつどんな早業で抜いたのか、黒光りする教鞭がある。

 さっき連想したような失敗料理を出そうものなら、殺されるに違いない。


「もちろん、失敗しないよう私が指導していきますから、ご心配なく」


 氷河期から太陽へ、処刑人の顔つきがまた朗らかな微笑に戻った。落差が激しすぎて余計に怖いが、僕は「はあ」と力なく返事することしかできない。


「何事も順序というものがあります。簡単な調理から始めて、一歩一歩きざはしを上っていきましょう。あなたはまだ、料理という奥深い宮殿の入り口に立とうとしている所なのですから。恐れないで」


 あなたならできる! という励ましと期待の光が肌に痛い。

 光が強ければ強いほど、影は濃くなるものだ……(※後からこのくだりを読み返したが、我ながら相当、気がくじけていたらしい)。僕は勇気を奮い立たせた。


「ご期待に添えるよう善処いたします」

「よろしい。では、ガラテヤで最もシンプルな料理はなんですか?」


 僕の脳裏に一瞬、塩コショウで味つけしたトーストだけのサンドイッチ・トーストサンドがよぎったが、それを挙げると叱責されるであろう予感を覚えた。


目玉焼きフライドエッグだと思います。フライパンに卵を落として焼き上げる」

「……ああ、聞いたことがあります。鶏卵の姿炒めガラテヤ風カスチルスチガ・ベス・セルタドフィラ・ギャリーチ〔Kastiru stggå bes Zeltad chgreu Gjalighti〕ですね。その材料は用意しかねますが」

「ザデュイラルで食用の卵なんて出てきたら、びっくりですよ」


 単なる目玉焼きが、仰々しい別の料理みたいだ。魔族でも食べられる唯一の卵は、古代から中世にかけて実在した伝説・有翼人が産んだものだけである。

 曲がりなりにも人類の一種だから、そのたんぱく質は彼らにも消化できる……のだが、その肉も卵も腹を壊しやすい代物だったそうだ。

 鳥よりは人に近いといえど、形がかけ離れていると問題があるらしい。


「卵ではありませんが、同じ程度にはシンプルな料理をやってみましょう」


 カズスムクは以下のレシピを指示した。


★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


『初めてのサラダ料理』

材料

 程よく熟したトマト 一個

 塩 小瓶ひとつ ※砂糖は認めません


作り方

①トマトを一口大に切ります。

・包丁を入れる前に、ヘタの葉を取りましょう。手でむしって大丈夫です。

・ヘタは内部にも残っています。トマトを縦半分に切ってから、左右に切り込みを入れ、取り除きましょう。いよいよ一口大に切っていきます。

・一口大とは口に入れても大きすぎず、小さすぎず、そのまま咀嚼して呑みこむのにちょうど良い大きさです。口の大きさには個人差があるので、自分の感覚で決めましょう。皮はつけたままで構いません。剥くような試みは時期尚早と心得なさい。


②塩を振って味つけします。

 切ったトマトを皿に盛ったら、小瓶から好きな量を振りかけて下さい。


③食べます。

 料理とは作り終えて完成ではありません。どんな料理も食べられずに放置されれば傷み、腐り、食べられないものになってしまう。それは失敗に他なりません。

 食べてこそ料理は完成です。フォークに刺して、さあどうぞ。


★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


ごちそうさまでしたスラクタ・コウ・テマル」〔Slackta kov temar食べ物よありがとう

「よろしい。以上で、あなたの初めての料理は完成です」


 僕の中でしばし悪感情と葛藤がうず巻き、その間にカズスムクは言葉を続けた。


「あなたも思う所はあると思いますが、これは間違いなく料理というものです」

「トマトを切って塩をかけただけじゃないですか!」


 我慢できず、僕は少し口を尖らせてしまう。これなら、僕が挙げようとしてやめたトーストサンドだって、大した違いはない。


「いいえ、料理です」カズスムクは不動の氷。「トマトを丸ごとかじって食べる、それは料理とは呼べないでしょう。かじりつつ塩を振る、これも料理と呼ぶには微妙な所です。しかしあなたは、きちんとトマトを切って、盛りつけて、塩を振るという手順を取りました。これは間違いなく料理です!」


 ものすごい詭弁で丸め込まれようとしている気がする。


「……つまり。伯爵はただ、〝食材と調味料といくつかの手間〟さえあれば、それが料理として成立する、と主張されるんですね?」

「事実、これが真髄ですよ、イオ。もう一度よく考えてごらんなさい、あなたが今作り上げたトマトのサラダは、料理の基本的な骨組みを備えていたはずです」

「それは、まあ。その通りですね」


 骨組みと言われると、腑に落ちるものがあった。


「オリーブ油を加えれば、より高度なサラダに近づきます。そこにスライスした生の玉ねぎ、ちぎったレタス、カットしたリンゴ、砕いたナッツ、どんな材料も加えてよろしい。オリーブ油と塩、そこへまた胡椒や酢を足していけば、それは立派なドレッシングです。基本中の基本をやり遂げた、ならば更に複雑な手順も取れるはずです」


 だから物怖じせず料理を学べば良い、と。

 カズスムクの激励は、今度は素直に響いた。そう思うと、味気なく思えたトマトが、急に鮮やかな味になって舌によみがえる。


「一つの骨組みを学べば、後はそれを応用していけばよろしい。レシピを暗記するのではなく、レシピを自ら創り出す、それが〝料理を身につける〟ということです」

「なるほど、大量のレシピを覚えて帰納法でコツを導き出すより、コツの方から先に学んでしまおう。伯爵が言うズルってそういうことなんですね!」


 カズスムクは我が意を得たり、と満足そうに顔をほころばせた。僕も釣られるように口角を上げ、厨房に一時うららかな空気が流れる。それも数秒のことだ。


「では、残り時間いっぱいまで、じゃがいもでも剥きましょうか」

「さっき、それはやらないっておっしゃいましたよね?」


 喉笛に噛みつかれた気分で僕は叫んだ。なんと手ひどい裏切りだろう!


「ええ、無闇に手技を磨く必要はない、とは。しかし、皮の剥き方ぐらいは習得する必要があるでしょう? もし剥けると言うなら、やって見せてください」

「無理です」

「ではやるしかありませんね。反復練習です」


 間もなく木箱いっぱいのじゃがいもが使用人の手で運びこまれ、僕はがっくりと肩を落としながら降参した。コツを覚えるのは効率化でしかなく、やはりズルなんてできないのだ。その日、僕はじゃがいも一個につき一回は指を切った。

 だが、この試練もきっと序の口に過ぎないのだ。

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