補遺と断章《カッリル・アス・ヤシュツワイ》ⰍⰡⰓⰓⰋⰎ ⰀⰔ ⰆⰀⰔⰂⰈⰂⰀⰦ

1268年 アンデルバリ伯爵のお料理教室

一 ゼロ以下からスタートです

「イオ、これをあなたに」


 向かい合って座るカズスムクは、ベルベットの小箱を差し出した。指輪が収められているだろうそれを前に、僕は困惑して固まってしまう。視界の隅で、一人用ソファにかけたハーシュサクが笑いを堪えるように、口元を覆うのが見えた。

 1268年、春のマルソイン別邸図書室でのことだ。


「どうされましたか? イオ」

「あのな、カズスムク。ガラテヤじゃそういうのは、プロポーズの定番なんだよ。そうだな、男同士で角環ココクー(※女性用アクセサリー)を贈るようなもんだ」


 カルチャーギャップに詳しい叔父の助け船に、眼帯の伯爵は怪訝な顔をする。一つ一つが危ういバランスを保って配置された目鼻立ちには、冷たい氷の玲瓏さと、少年のあどけなさが同居して、見る者の胸をざわつかせずにはいない。


「私にはソムスキッラという婚約者がいるのですが」

「分かっていても心臓に悪いんですよ!」


 僕はカズスムクの手から小箱を奪い取った。中身は金の指環で、輪廻チャーグラ十字デーキと柘榴石、そしてマルソイン家の紋章であるイチイの葉があしらわれている。


「それで、これは一体何の指輪なんですか?」

証しの指輪ゴーア・クー〔Ghoa khư〕と言って、贄となる契約を交わした者が身につける品です。これからザデュイラルで暮らされる上で、必要になるでしょう」


 ゴーアとは誓い、誓約、宣誓などを意味する古シター語である。ザドゥヤ人がしばしば口にする「神と祖先の血肉に誓って」という言い回しもこれだ。

 ハーシュサクが指輪について補足した。


「何の後ろだてもない人族ってのは大変だぞ。すぐ『うちで贄の契約を結ばんかね』と持ちかける奴はいるし、下手すりゃ誘拐されて切り刻まれちまう。そういう不届きな連中を、こいつがバシッと黙らせてくれるんだよ」

「なるほど」


 以前滞在していた時は、マルソイン家の屋敷に閉じこもっていた。あの状況なら特に指輪の必要もなかったのだろう。指にはめてみると、サイズぴったりだった。


「契約した贄は片角を赤く塗りますし、人族でも多くの場合は塗った付け角タギュクを被せたりしますが。本当に贄として屠る訳ではないので、形式上の指輪になります」

「角を塗った証は反故にできませんものね」


 この国で働いている人族は皆、何年何月に贄として死にます、という契約を交わしており、その身分は雇い主が保証している。そこを利用して、僕は以前の渡航でマルソイン家が購入した食用人、という経歴を作ってもらった。

 その書類を用意する時、身長体重および全身の色んなサイズを測られたので、指のサイズもそこから知られたのだろう。


 今や母国ガラテヤに僕の居場所はない。逃げるようにして、再びザデュイラルの地を踏んだ僕を雇い、生活基盤を整えてくれたのがハーシュサクだ。

 書類上は「マルソイン家当主カズスムクは、食用人イオを叔父ハーシュサクに売却した」ことになっている。役職は雑用係・兼・事務員・兼・売約済み食用人だ。

 ちなみにガラテヤに帰国していた間のことは「休暇」扱いらしい。


「それで、お前さん今後はどうするんだ? 自分の研究は続けるんだろ」


 ハーシュサク、もとい「社長」の問いに、僕はうなずいた。


「もちろんです! 僕の本分は何と言っても学問ですからね、ザデュイラルの大学に入れるよう、これから色々準備していくつもりです」

「それはいいですね。最近では、我が国もキリヤガン出身の人族留学生を受け容れていますから。学生や教員としての身分があれば、証しの指輪も必要がなくなります」


 カズスムクは朗らかに賛同を示してくれた。

 キリヤガン連邦――かの北の大国はザデュイラル同様に魔族国家だが、贄として確保するため多数の人族を国内に抱えている。近年、キリヤガンからの留学生の中にそうした人族が増えてきており、大学もあれこれ対応しているのだ。


「無事入学されたら、その指輪は適当に売ってしまってください。つぶせば何十万かにはなるので、少ないですが学費の足しになるでしょう」

「そんなことできるわけないでしょうが!」


 僕は思わず指輪を手で押さえた。カズスムクが大雑把に何十万と言った時、その正確な額面は百万をくだらない。どうやら、贄の命に対する値段として贈与される物のようだが、アジガロもそうだったのだろうか?

(※編註……イオは生涯この指輪を大事に持ち続けていた。指輪の慣習は1300年代から廃れ始め、現在では実用品としてはほとんど用いられない。編者がこの指輪を鑑定に出した所、歴史資料的価値と美術的価値から数百万という結果になった。現在もこの指輪は、ハンニバッラ家で大切に保管している)


「ともあれ、我が国にはアポリュダードでも名高い大学がそろっていますよ。リヤド〔Rijadǫ〕大学、ザデュイラル帝立工科大学、オプサロ大学、ユラドウォズナ〔Uradvosna〕工科大学、ギレウシェ大学。うち工科大は聞いての通り理系大学ですが、他の三つは総合大学です。叔父上はギレウシェ大の卒業生でしたね」

「そうそう、経済学部の。学部は違うが、ヴェットもな」


 ヴェットことヴェッタムギーリはカズスムクの叔父(ハーシュサクの弟)で医師だが、そこの医学部出身ということか。


「私は士官学校を目指す予定ですが。イオならどこの大学でも狙えるでしょう」


 僕の実家は学者の家系だった。大伯父のように商売へ目覚める人もたまにいるが、父も兄たちも全員学者、研究者、教師、医者といった職に就いている。僕も正規の学校に幼いころから通わされ、学問と共にあることを当然として過ごしてきた。

 自慢じゃないが、僕がガラテヤで在籍していたアドルファンクス〔Adorfanx〕大学は、最高学府ではないものの、国内トップの名門校だったものである。


「どこの大学も、基本的な入試内容はアース語のスピーチと小論文と面接、それに学部ごとの筆記試験だな。お前さんは外国人だから、ザドゥヤ語の試験もあるぞ」


 楽勝だろ? と言わんばかりのハーシュサクに、僕はふむふむと暢気にうなづいた。細かい所は大学ごとに違うだろうが、大した問題ではない。

 だがその時、ふとカズスムクは心配そうに表情を曇らせた。


「そういえばイオ、面接対策は万全ですか? 料理についても問われますから」

「料理?」


 なぜ大学入試の面接にそんなものが出てくるのだろう、と一瞬呆けてから、僕はここがザデュイラルであると思い出した。


「この国では、大学の面接でも料理の腕前が重要視されるんですか……?」

「ええ。実際の調理はもちろん、料理に対する意識や心構えを訊ねられます。もしかして、相変わらず料理はされないままですか」

「そうですね。特に必要な機会がなかったもので」


 カズスムクとハーシュサクは互いに顔を見合わせた。さっきまであったはずの気楽な雰囲気が急に冷え切って、事態がシリアスな何かへ推移するのを感じる。

 実家に居た時はもちろん、大学に通うため住んでいた下宿でも、食事はそこの大家さん(美しい未亡人だった)が用意してくれたものだ。何もなければ、レストランやカフェに入ったり、時には屋台売りの軽食を買ったものである。

 だが、ザデュイラルではそうもいかないらしい。


「イオ。それではどこの大学に行っても、あなたは確実に落とされます」

「料理をしないだけで!?」


 カズスムクの宣告に、僕は思わず立ち上がった。


「充分な学力があっても、ですか? いや、面接でよほど態度が悪くて落とされた人間がいなかったわけじゃないでしょうが! 料理ができない、というのはそんなに問題なんですかこの国は!?」

「そうです」


 眼帯の伯爵は、重たげに隻眼のまぶたを閉じる。これから始まる破滅的事態を、何も知らない哀れな犠牲者にどう説明しようか苦しんでいるような顔つきで。


「まあ座れよ、イオ。お前さん、料理ってのは〝できたほうがモテたりちやほやされたりする技術〟ぐらいにしか思ってなかったんだろうが、逆だ。料理しないやつはまともな男じゃない、ってぐらい大事なことなんだよ」


 ハーシュサクに促されて再度着席したものの、僕はそのまま椅子から滑り落ちそうになった。まともな男じゃない。では、料理しない人間は猿も同然だと?


「一人前の紳士は、自分が食べるものは自分で用意するものですからね」


 と言うカズスムクに反論しようとして、僕は思い留まった。

 なるほど、〝自分の食い扶持を稼ぐ〟ことは一人前の男として当然のことだ。しかし、直接料理を作る技術と、料理を他所からまかなう金を稼ぐ能力は、それぞれまったく別の話のはずである。だが腹立たしいことに、ザデュイラルはどうも意図的にこの二項を直結し、同一のものと扱う文化らしい。


「すると、僕が料理テム〔ⰕⰅⰏ〕のTの字も知らずに面接を受けたら、〝この者は当大学に入学する資格などない〟ということになるんですか」

「悪ければそのまま出入り禁止、二度と受験すら拒否されるでしょう」

こんちくしょうハー・ビー・ガムル! 分かりました、この国は料理できないものにかける慈悲はない、そういうことですね?」

「大丈夫ですよ、イオ」


 僕が思わず頭をかきむしると、それまでの難しい顔から一転、カズスムクはにこやかに慰めてきた。嵐の前触れのような、急激に嫌な予感がする微笑みだ。


「料理ができないのなら、覚えればいいのです。まずは私がお教えしましょう」


 予感が的中した。


「多忙な伯爵のお手を煩わせるまでもありません!!」

「声が裏返っていますよ」

「泣くこたないだろ、イオ。別にカズスムクだって殺しゃしないぞ。たぶんな」

「泣いてないです……」


 だがカズスムクの指導を受けるとなれば、泣くどころじゃ済まない目に合わされることは確実だ。昨年、彼から受けた典礼語手話のレッスンは思い出したくもない。

 眼帯の伯爵は優美な手付きで自分の顎をなでた。嫌な記憶がよみがえったせいで、その麗しいはずの仕草にさえ、びくついてしまう。


「しかし、あなたは料理については完全な初心者なのでしょう? 初歩的なことは家庭内で教わるものですから、どの教師もそれを前提に指導します。となれば、まったく何も知らないあなたに対し、適切に教えられる方は見つからないでしょう」

「いや……伯爵がごくごく純粋な親切心でおっしゃっていることは……分かるのですが……僕はきっと良い生徒にならないので」


 ソファにかけたまま、僕は無意識に逃げようと必死に体を後ろへ反らしていたことに気がついた。よほど過去のあれが心の傷になっているらしい。

 だが当の鬼教官はといえば、ぱっと朗らかな笑顔を見せる。


「何をおっしゃいますかイオ! あなたは大変いい生徒でしたよ。熱心で意欲的、物覚えも上達も早い。あの時の全身全霊をかけたあなたの努力には大変感動しました」

「そんなに評価されていたんですか!?」


 確かに終盤はだいぶ優しく教えてもらえるようになったが、どう控えめに言っても僕は地獄を見せられた。


「夏至祭礼まで時間がないため、急ぎの詰めこみ方式だったことは申し訳なく思っています。しかし、今度は一年や二年、のんびりと時間をかけられるでしょう? であれば、典礼語手話の時ほど無理をする必要もないのですよ」


 そう説明されると、少し気が落ち着いてしまうではないか。


「……考えてみれば、僕に選択の余地はないのですね」


 独学で調理技術を身につけるという選択肢も脳裏をよぎったが、どの程度までやれば大学の面接を通れるのか検討もつかない。ここはもう一度カズスムクを信じて、彼のありがたい指導を受けるしかないだろう。


「それではご教授賜りたいと思います」

「よろしい。では早速始めましょう」


 カズスムクはソファを立ち上がって、図書室の扉へ向かった。


「え? 今から? ですか?」

「あなたは幼少期から料理に親しんできたザドゥヤ人から見れば、二十年近くスタートが遅れているのですよ? やると決めた以上、一秒たりとも先送りにする理由はありません。さあ、厨房へお急ぎなさい! ゼロ以下からスタートです」


 何一つスパルタ性が変わっている気がしない! 僕がハーシュサクの方を見やると、彼は「達者でなあ」と手を振っていた。

 もう駄目だ。僕はきっと殺される。

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