雪娘 1323字/30分
そういえば今冬は雪が降っていないな、とその農夫が思ったのは一月も半ばを過ぎたある夜だった。サラマンダーの動きが活発だという話を聞いた覚えはないが、まあ、こんなこともあるだろう。雪が遅れると畑の眠りも遅れるのであまり好ましくはないが、どうしようもない。精霊社に頼みに行くか、などと考えながら農夫は眠りについた。
それから十日ほどが経ったが、やはり雪は降らなかった。農夫は起きたままの畑を前に途方にくれ、精霊社を訪ねることに決めた。年に一度の挨拶くらいでしか訪ねないためなんとなく腰が重くなってしまい、農夫がようやく精霊社を訪ねたのはそれから更に三日ほどが経ってからだった。
精霊社を管理しているのは一人の宮司で、つい数年ほど前に代替わりをしたばかりだった。あまり人付き合いが良くはなく、美しくはあったが近寄りがたい雰囲気のその宮司のひととなりを知っている者は少なかった。農夫もまた、宮司と話すのはそれこそ年に一度程度であったため、改めて顔を合わせるとなんだかどぎまぎとしてしまっていた。
今冬の降雪が遅れている件について宮司に相談すると、今年はサラマンダーが活発なのではなくスネグーラチカが大人しいのだと説明された。雪娘、雪の精霊の孫娘とされる彼女――精霊に性別はないが便宜上――は本来勤勉に雪の精霊を助ける存在だが、今年はスネグーラチカが代替わりしたばかりで宮司との交感がうまくいっていないのだという。
しかし、雪が降らなければ畑が眠らない。畑が眠らなければ次の春の芽生えはない。農夫がどうしたものかと途方にくれていると、宮司は懐紙を取り出しなにやら一筆書き付けて折り畳むと農夫へと渡した。これを持って山へゆきなさい。
それ以上の説明はされないまま戸惑いながらも山へと入った農夫は、その瞬間強い北風に吹かれて思わず目を閉じた。次に目を開くと、そこは雪が積もった山の中であった。まだ雪は降っていないというのにどういったことだろうとおろおろと迷い歩く農夫の前に、不意に一人の娘が現れた。雪のように白い肌と銀色の髪、色の見えないくらい透き通った瞳。
スネグーラチカだ。
そう確信した農夫は、娘の足元へ跪くと訴えた。雪が降らねば畑が眠らず、畑が眠らねば芽生えは訪れず、芽生えが訪れなければわれわれは飢えて死ぬしかない。娘はじっと農夫を見下ろしていたが、その冷たい手が農夫の懐から例の懐紙を抜き取った。中を改めると頷き、農夫をまた見下ろす。
安心なさい、と言うスネグーラチカの唇は動いていない。おまえたちの宮司に伝えなさい、これから三日間寝所の窓を開けておきなさいと。
そうしてふうっとつむじ風が起こって目を閉じさせられた農夫がまた目を開けるとスネグーラチカの姿はなく、いつの間にか山の入り口に立っていた。雪も消えている。首を捻りながら戻った農夫は宮司へとスネグーラチカの言葉を伝えたが、宮司はただそうですか、と言っただけで、農夫はまったくなにがなにやらわからないまま家へと戻ることになった。
それから三日後、雪が降った。畑も眠りについた。農夫はしんと静まり返っている畑を見ながら、スネグーラチカのすらりとした白い手を思い出していた。
即興小説集 新矢晋 @sin_niya
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