火が消えるとき 1768字/30分

 地下牢に囚われている男は痩せ細り、静かに目を閉じ座っていた。牢番が差し入れる食事にも口をつけようとしない。だが不思議と男のまとう空気は清廉なままで、懺悔を聞きに訪れる神父ですらその前では背筋を伸ばすほどであった。

「……あんた一体なにをやらかしたんだい」

 あるとき牢番のなかでいっとう若いマシューがそう尋ねると、男は静かに凪いだ海のような目で彼を見て、落ち着いた声で答えた。

「私の信じるものを信じ続けただけです」

 そして十字を切った所作の滑らかさを見て、マシューはすべてを察した。

 ……深教以外の信仰が禁じられて数年が経つ。取り締まりは年々厳しくなり、棄教しなければ投獄の末獄死や処刑が待っていた。大半の人間は信じるものを捨てた。

 マシューは若く、罪人に同情してしまうたちの人間だった。まだ経験が浅く、彼らと距離を保つすべを知らなかった。同僚たちは口を酸っぱくしてマシューに彼らに入れ込みすぎないよう忠告したが、若さ故の情深さと好奇心が消えることは無かった。

 男とマシューが語り合うようになるまでそう時間はいらなかった。

 男は投獄されてなお聡明で、マシューに様々なことを教えた。それはマシューにとって新鮮で興味深く魅力的だった。マシューとの対話を男は楽しんでいるように見えたし、地下牢での生活の苦痛を多少なりとやわらげているようにも見えた。二人の間には確かに友情があった。

 しかしそれは長くは続かない、瞬きのような数日間でしかなかった。

 もし男が命乞いをするなら、牢獄から逃れることを望むなら、マシューは手助けをするのも辞さないつもりでいたが、男はけしてそんなことを口にはしなかった。ただ静かにその日を待っていた。


 そして、男の処刑の日がやってきた。空は高く晴れていた。


 火炙りの台へ向かう男の首元でロザリオが揺れたのを目敏く発見した牢番の一人が、引きちぎるようにしてそれを奪い取り投げ捨てた。男はそこではじめて感情の揺れらしきものを見せ――それでも小さく息を飲んだだけである――けれど黙って台へと引かれていった。

 柱へと男が縛り付けられていく。男は目を伏せている。その背後、男の手を縛り上げていたマシューは誰にも見えないように拾い上げたロザリオを男の手の中へ押し込んだ。男の手は一瞬戸惑うように震え、それからしっかりとロザリオを握り込んだ。

「……ありがとう」

 そう囁いて、男は微笑んだ。今まさに理不尽な死を迎えようとしている状況で、虚勢でも諦めでもなく、心の底からマシューに感謝して微笑んだ。マシューは心臓を鷲掴みにされたような心地で立ち尽くし、他の牢番にせっつかれて台から降りた。

 着火役がやってくる。聖なる炎による浄化が異教徒の罪を焼きその魂を救うのだということになっている。実際のところどうなのかは誰も知らない、死から帰ってきた人間はいないのだ。

 火がつけられた。見る間に炎は燃え上がり、男の足元からじりじりと這い上がっていく。皮膚がぷつぷつと音をたて、焼き魚のように膨れては破れる。全身を炎が覆うまで男はなにも言わなかったが、完全に炎に巻かれてしばらくした頃合いに奇妙な悲鳴のような音が響き始める。木のうろを風が通り抜けるような、貝の笛を鳴らすような、低く高く響く音。

 マシューは目を見開き息すらせずにそれを見ていた。その音すらしなくなり、のたうつように動いていた男の体が動かなくなるまで見届けた。

 そして炎は燃え尽き、その死体を台から降ろそうとした時、空からにわかに強い光が降り注いだ。人々が頭上を見上げ、そして、現れた「なにか」に驚愕の声をあげる。

 それは光の塊であった。聖なる力そのものであった。なぜか人々はそれが尊く、清らかで、よきものだと確信していた。

 その光は男の死体を抱き、また空へと帰っていった。人々はなすすべなくそれを見送っていた。……そしてその衝撃から立ち直ると、ざわめきが周囲に満ち始める。

 あれはなんだ。救いか。炎によって罪を焼かれ許された罪人を迎えに来たのか。それとも今焼かれた男は、彼は、我々が触れてはならない尊いなにかだったのか。

 マシューは空を見上げ続けていた。その足元へ、空から落ちてきたのは、黒焦げになったロザリオだった。

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