Un libro~976番の話~ 1823字/30分
図書室には私しかいない。こうしてカウンターで貸出業務などをし始めて――つまるところ図書委員になって――三年目になるが、うちの図書室はいつも閑散としている。まあ、そんなに大規模な図書室でもないし、うちはごく普通の公立高校なので、図書室に入り浸る生徒などいやしないのだ。
……こういう日は大体「あいつ」が来る。一度わざと無視し続けたら大変なことになったので、仕方が無いからこちらから迎えに行くことにした。
分類番号976。本棚の最下段、右端。その前に立った瞬間、つむじ風が巻き起こってスカートが捲れ上がりそうになる。慌てて押さえて、めいっぱい声を低くして「あいつ」を詰る。
「紳士なんじゃなかったの」
「やあ、失敬失敬、少し張り切ってしまってね」
軽薄そうな男の声は私の足下から。溜め息まじりにしゃがみ込んで本棚の中から一冊の本を取り出す。表書きは無い。この本を手に取るたび開こうと試みるのが癖のようになっているが、一度たりとて開いたことはない。にかわででも貼り付けられているみたいだ。
「乱暴に扱うのはやめておくれ、シニョリーナ」
本の中から聞こえる声。私は深々と溜め息を吐いた。
私があいつ……題名のわからない本――分類番号からするとイタリア文学、中でも記録や手記の類いのようだが――と出会ったのは一年生の頃である。図書委員になったばかりでまだ分類番号を暗記していなかった私があいつをうっかりドイツ文学の段に入れようとしてしまった時、「やめてくれたまえ! あんな奴らと一緒になんていられるか!」と悲鳴を上げたのがはじまりである。
それからというもの、あいつは私以外の生徒がいないときを見計らって私にちょっかいをかけてくるようになった。件の「わざと無視し続けた」時は本棚から勝手に出てきて私の周囲をぐるぐると飛び回ったため自立運動は可能なようだが、こちらから相手をしてやれば基本的にはおとなしくしている。
とにかく彼は軽薄で、なにかにつけ私を口説くような真似をしてくる。Twitterやらネットやらで見かけるイタリア男あるあるなんて嘘だと思っていたが、まさか本物――いや、これをイタリア男と呼んでいいものかはわかりかねるが――もそんな感じだったとは。
「どうしたんだいシニョリーナ、僕といるのによそ事を考えているのかい。つれないなあ」
過去へと巡らせていた思考を引き戻され、再び手元に視線を落とす。なにも書かれていない無地の表紙。あいつが喋るたびにわずかな振動が手に伝わってくる。
「あなたとも長い付き合いだなと考えてただけ」
「僕のことを考えていたの? 嬉しいな」
「結局あなたが何者かはわからないままになりそうね」
「うん?」
不思議そうな声がする。本に表情は無いが、あったならきっと怪訝そうな顔をしているだろうことがたやすく想像出来るくらい彼は感情豊かな声をしている。
「もうすぐ図書委員も引退なのよ、受験だしね。あなたとこうしていられるのもあと数ヶ月ってところ」
「え!」
今度は狼狽するような声がした。手の上で少し本が震えたような気がする。
「じゃあもう来ないのかい? 卒業したら……もう、ここへは」
「そうね」
「僕をまた一人にする気かい!? ここにいるのはむさ苦しい男どもばかりじゃないか!」
「女性作家の本もたくさんあると思うけど」
「作家の性別と本の性別は別だよ!」
ぴぃぴぃと騒ぐ彼を見ているとなんだか子供でも見ているような気持ちになった。あいつは軽薄で女好きではた迷惑な男?だけれど、かわいいところもあるのだ。とはいえあいつはあくまでこの図書室の蔵書、貸し出しは出来ても贈与は出来ない。いくら嫌がったところで別れは来るのだ。
「私じゃなくても他の図書委員に声をかければいいでしょ、新入生だって入ってくるし」
「君じゃなきゃいやだよシニョリーナ……」
消沈しきった様子の声に、不覚にも胸が痛んだ。彼は彼なりに私を好いているのだろう。
「ねえ、お願いだよ、僕を置いていかないで」
泣きつく声にずきずきと痛みが増した。私もすっかり彼に情が移ってしまっていたようだ。
「……廃棄処分扱いで持ち出せないか考えてみる」
「!」
私がそう絞り出すと、ぴょん、と手の中であいつが跳ねた。
「やったあ! 愛してるよシニョリーナ!」
……ああ、もしかしたらこれは早まったのかもしれない。
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