生命の確認 1307字/30分
昔は私も希望に満ちていた、のだ。
名を売り、いつか有名になって、誰にも脅かされない暮らしを手に入れようと思っていたのだ。
だがそれももう昔の話、今の私は――
物陰に蹲る。夜の帳は私を覆い隠すに十分で、艶消しを塗った短剣も闇に沈んでいた。
相手が何をしたのか私は知らない。ただ指示に従って、対象を殺すことが私の仕事だ。闇から闇へ、お互い死んでも誰も顧みない者同士の殺し合い。
仕事の前には聖句を呟く癖がついたのはいつからだろう。神を信じているわけではないが、あの寒々しい言葉を繰り返すと妙に落ち着くことに気が付いてからずっとそうしている。
「海よ、海よ、我が道の先にあるお前の大きいこと」
深教。海を信仰するという事以外はよく理解していないが、昔司教に貰った教典はベッドサイドに置いてある。寝る前にページを開いても、最後まで読破したことはない。
びり、と首筋が引き攣って鰓が痛む。絆創膏で覆ってあるそこが疼く時が、仕事の始まりだ。
物陰から駆け出して、相手が気付いて身構える前に切りかかる。
ぎん。
相手の抜いた警棒が私の攻撃を辛くも迎撃し、一度距離をとって対峙する。
「どこだ。マリアベルか、シュプリームか」
キリギルだ、と言ってはやらないが、どうやら今回の相手を狙っているのは私だけではないようだ。警棒を構える相手はそれなりに心得のある様子で、黒く鋭い目が私を油断なく見詰めている。
私は黙って肉薄し、剣の交差が始まった。
響く硬質な音を顧みる者はいない。ここはセキュリティランクの最も低い場所。警備員も警官もいるわけがない。ここを見守る者がいるとすればそれは、このコクーンの管理官くらいだろう。
しかし交差は長くは続かず、数分の後には私の前で相手は事切れていた。
「……キリギル。任務完了」
こめかみに手を当てて短く通信し、すぐに切る。私の身体に埋まっている電脳の網はそう高性能なものではなく、電波が漏れっぱなしで隠密能力が低い。
すぐにこの場を離れ、服を着替えて、食事にでも行こう。すぐに報酬が振り込まれる筈だから、今日は合成ではない本物の肉を食べよう。
馴染みの店を訪れ、馴染みの店員に肉を注文する。恐らくは仕事帰りだと気付いている、何も言われずにマッシュポテトがサービスでついてきた。これは合成だが。
少し待てば運ばれてきた本物のステーキにかぶりつき、肉汁を啜る。マッシュポテトがまた合う。一気に半分ほどたいらげてから、味も素っ気もない合成の水を喉に流し込んで一息つく。
仕事のあとにこうして本物の食事をすることは、生命の確認に似ている。「海に祈る時、お前は生命を確認することになるだろう」。教典の一説が頭に浮かんだ。
……久し振りに教会にでも行ってみようか。あの教典をくれた司教は――妙に無表情な司教は――まだ生きているだろうか。あの治安の悪い区画で。
ゆっくりと肉を切り分け、今度は味わって食べる。噛み締める度に血の味がする。生命を食べているのだと実感した。
生きている。
私は生きている。
先程転がした死体の濁った目を思い出した。
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