世界はそれを何と呼ぶ 1454字/30分
その草は考える草だった。葦ではない。
様々な動物(獣や鳥や人間や)がその草の前を通り過ぎ、あるいは足を止め、何かをしたりしなかったりした。草は考えることはしたが喋ることや自発的に動くことはしなかった為、人々は草を気に留めもしなかったし草が何かを考えているとも思っていなかった。
ある時草はとても美しいものを見た。
それは人間が見るとただの薄汚れた浮浪児であったが、草にはとても美しく見えた。草は老成した賢者のごとくには思考能力に長けていたし自己認識能力も高かったが、なぜそれが美しく見えるのかについては見当がつかなかった。
見当はつかなかったが美しいものは美しかったので草はその幼い娘(まだ初潮も迎えていないだろう)について考えることに思索の大半を費やすことにした。それはとても気持ちのよいことだった。
娘は草の前を通り過ぎるばかりで足を止めることはなく、それにしたって決まった時間ではないため草はただ娘のことを考えながら彼女が現れるのを待っていた。
自分の意志でもって待つということは草にとって新鮮で、今までしたことのないことだった。娘が現れると世界が輝いて見え、現れないと息が苦しかった。
――それが一般的に何と名付けられている感情か、草は知らなかったが、ほとんどの人間は知っているものだった。
しかしそのうち娘は姿を見せなくなり、草はその思考能力でもって様々な可能性を検討した。しかしそれは可能性の域を出ず、草はただ考えることしかしなかった。出来なかった。
だが草はその可能性のうち最も高いものについて何度も何度も反復した。いつの時代からか、人が人を買うことは当たり前になっている。それは草の知る限りもっとも手軽かつ確実に自らの欲を満たす行為だ。恋をして、口説き落として、それから寝るだなんてまだるっこしいことを好まない人間は大勢いる。
娘は幼く見えたが、そういったものを好む人間がいることもまた草は知っている。その人間が良心的なものを(良心もなにもあったものではない行為に手を染めているわけではあるが、僅かなりとも)持ち合わせているのならば、浮浪児として路上で死ぬよりはまっとうな生を送れるかもしれない。
だが草は、良心なんてものは、儚く貴くきわめて珍しいものであることも知っていた。
考える草はただ考えていた。誰もそれを知らなかった。草が考えるだなんて、感じるだなんて、誰も思いもしなかった。
草は知っている、次の青の月にとても大きな馬車が、小麦を積んで街を出ることを。その「小麦」は中を改められることもなく馬車は静かに街を後にするだろうことを、草は知っている。
そして、草の前にいる人間の話がひとつずつ可能性を事実に変えてゆく。
「女が二、男が六か。まあまあだな」
可能性が事実に変わってゆく。
「一人小奇麗なガキがいる、あれは旦那に回そう」
可能性が事実に変わってゆく。
「……ああん? ……ってああお前か、どうした出立はまだ」
草は初めて自分の意志でもって、自分の考えでもって、外套の下に隠し持っていたダガーを使った。殺すのは簡単だった。いつもしている事だった。
草は並ぶ子供たちの縄だけ解いてまわったが、あの娘の前で一度足を止めた。
命乞いを繰り返す娘の縄を解いたあと、その細く痩せた太腿に痣がいくつも浮いていることや、妙に鼻を突く不快なにおいに、草はもう考えることをやめることにした。ひどく心臓が痛むのと、視界が歪む理由を、考えないように。
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