第11話
掠れた音楽と妙に均一を取れた打楽器のような足音が響く。
身体中に反響して、内臓が真空状態になったような気がした。
ワルツは知らないが、先ほどかかっていたのは昔聞いたことのある曲だ。古い映画のワンシーン。何だったか思い出せない。
静かにドアが開く音がして、振り返ると会場の熱気を纏ったままの男が立っている。
「終わったのか」
「あぁ、終わった。本当に全部ね」
男は長く長く息をついた。
「終わったから、今度こそ、行こう」
狭い階段を下りながら、男は言った。
「ここまでしてもらったのに、結局君に何も返せてないな」
「別にいいよ……俺も逃げたかったんだ。仕事から」
男の表情はわからないが、苦笑したのだろう。
「さっきの曲、聞いたことがあったな。映画の曲だった」
何とはなしに呟くと、男の背中が答える。
「あぁ、あれは『エデンの東』だよ 」
「ジェームズ・ディーンの?」
「そう、ディーンの」
男は踊り場で足を止めて言った。
「踊るような映画じゃないような気がするけれどな……父親に愛されないのを悩む子どもの話だった」
男は俺と向かい合うと、顎に手をやって少し考えるような仕草をした。
「お礼代わりにダンスを教えようか」
「いいよ……踊る機会もない」
「何でもできないよりできた方がいい。簡単だ」
男は老婆にやったのと打って変わって無造作に俺の手を取った。
手の体温を感じて、これのせいで結局最後まで幻覚だと振り切れなかったのだと思う。
「まずはナチュラルターン。名前なんか覚えなくてもいい。六歩のステップだけど大事なのは前半だけだ」
全て幻覚だというのなら、今の時間は何だというのだろう。
俺は社交ダンスのステップの名前などひとつも知らない。恐竜のように隆起した男の肩甲骨の感触は、現実でしかない硬度だと思った。
「ウィスクは男性は右、女性は左に進むんだ。右に行って……今は同じくらいだけど、本当に踊るなら相手の歩幅を計算に入れるんだ」
歯科医の看板とプラナタスが埃を被る雑居ビルの階段の踊り場で、青白い光の中で踊る。
女を殺してここまで生きて、女を殺せなかったせいでもうじき死ぬであろう悪魔と。
俺が覚えたこのステップを使う日は、たぶん来ない。
ターンの後、男は急に手を離し、俺は階段に放り出されそうになる。
「おい!」
手すりに掴まって怒鳴る俺の横を笑いながらすり抜けて、男は階段を駆け下りる。
「さよならだ」
日が陰ったのか、吹き抜けの上の空が暗くなり、階段が湖の底の色に沈む。
「死なないだろ、また女の命を吸って生き延びる。女殺しの悪魔はそれで何年も何十年も生きてきたんだろ……」
男は濡れて水銀灯のように見える目を歪めて笑った。
「女殺しの悪魔なら、ね……」
男は残りの階段を下り、往来の光に呑まれて消えた。初めて見たときと何も変わらない笑いだけ残して。
手すりを放して、階段を下り、俺も通りに出た。
男の姿はもうない。
向かいの老人ホームはひっそりと佇み、車道を駆け抜けるタクシーや軽自動車の残像が掠めていく。
煙草を出そうとして、反対のポケットから携帯の方が出てきた。
父親のメッセージが一件、「昨日の電話は操作ミスだから気にしないでくれ」とあった。馬鹿馬鹿しさに苦笑が漏れる。父は昨夜、自分の息子が得体の知れない悪魔に母親を殺させようとしたなど、夢にも思わないだろう。
急に肌寒く感じて、施設の薄い制服にジャケット一枚羽織っただけだったことに気づいた。
路上に停めたミニバンの中を覗くと、カートンで買ってひと箱抜いただけのゴールデンバットが助手席に横たわっている。
俺は窓から手を入れてもうひと箱取り出し、代わりにキーを助手席に投げ込んで、立ち去った。
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