第10話
街に戻ってきたときには朝九時を回っていた。
夜の外連味に満ちたネオンは消え、昼から始まる店はまだ開いていない。いつよりも冷めた虚しい時間だ。
できるだけ速度を落として運転したが、ついに施設の斜向かいまで辿り着いてしまった。眠っても眠らなくても、朝が結局来るのと同じだ。
「下りるのか」
「そうだね」
男は淡々とシートベルトを外す。
窓の外で濡れたアスファルトが陽光を乱反射して、街がけぶったように見えた。
「君は車を降りて帰るといい。施設に来るならほとぼりが冷めてからだ。今はきっと厄介だから……」
男の手が止まった。
後に続く言葉を待っても聞こえない。
隣を見ると男は窓から身を乗り出すようにして、何かに目を奪われていた。
同じ方を見たが、特に目立ったものはない。男の方に身を乗り出して上を見ると、ダンス教室の看板がある。さらに視線をずらすと、雑居ビルの階段を駆け上がる足首が見えた。急いでいるが微かにおぼつかない足取りが老女だと思った。
「青井くん。悪いけれど、もう少し付き合ってほしい」
俺の返事を待たずに、男は車外へ飛び出した。
***
雑居ビルの仄暗いリノリウムの階段を登る。
階上からはラジカセで流しているのかくぐもった音楽と、足音が何重にも重なって聞こえた。
「ワルツだな」
俺には雑音にしか聞こえない音を聞き分けて、男が言う。
「ムーンリバー、シャレード、エデンの東……」
男が呟いたのは曲名だろうか。
階段の上の吹き抜けから光が差して、その中で細かい埃が踊るのを見ていると気が遠くなる。男の後ろ姿が光に呑まれて消えそうだと思った。
足音の振動が響いている。
四階に辿り着くと、入り口の前にボードに書かれた『ダンス教室 デモ公演&秋の社交パーティ』の文字がある。男は躊躇いもなくドアを開けた。
中は着飾った老人たちと数人の講師らしき若い人間であふれていた。
化粧品やヘアワックス、そして男の言っていた樟脳だろうか、防腐剤のような香りでむせ返りそうになる。
今は演技ではなくパーティの時間のようで、ひとの体温で蒸す熱気に満ちた会場を笑い声が掻き混ぜていた。
その奥に数組、毒々しい蝶のような衣装で抱き合って踊る老人たちがいる。
男は真剣な眼差しで何かを探すように、会場を隅まで見渡している。
何人かが俺たちに気づいて視線を投げた。
男が息を呑んだ。
視線の先を見ると、ふたりの燕尾服姿の老人の間で紙コップを片手に困ったように笑うワインカラーのドレスの老婆がいた。雫型のイヤリングが重たげに揺れて、笑うたび耳朶ごと落ちないかと不安になる。
「樟子……」
老婆が顔を上げてこちらを見た。
男の視線と、老婆の金箔のようなシャドウを塗った目の視線が重なる。
講師らしき人物が近づいてきた。
「どなたのご家族でしょうか。今の時間は……」
男はするりと抜けて、ひとだかりの中、深海を行く魚のように誰にもぶつからず進んでいった。
咎めようとする講師の方を掴んで止める。
「一曲だけ、放っておいてやってください」
怪訝な声を出す講師を引き止めている間にも、生徒の老人たちの視線を集めながら男は進む。
ふたりの老人を自然な動作で押し退けて、男はドレスと同じワインカラーの手袋に包まれた手を取った。
老婆が男を見上げる。
一瞬、光景が色を失ったように思えた。
無彩色とは違う。セピアカラーだ。
古い写真の中の悪魔と娘が手を取り合って、会場の中央へ進んだ。
音楽が止まり、次の曲が始まる前の張り詰めた空気。
男が樟子という老婆の背中を支え、樟子もそれに身を預ける。
「外で待ってる」
俺が言うと、男はしっかりと頷いた。
曲が始また瞬間、男はもう樟子の手を取って一歩ステップを踏み出している。
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