A2 箱庭

じっと見つめる。

箱はもちろん無機的で悠々としている。小さな変化さえも、この途方に暮れた時間軸の内では肉眼に収めることも出来やしない。小さな粒子の蒸発や、ミクロな生物の増殖には気づくことが出来ない。

しかしその箱から目が離せない。

修学旅行の退屈な車窓や、哲学の講義中に覗くスマートフォンの光線に似た、意味を持たない正の指向性をもつ。タバコの煙はすっとその熱奪われ、箱をぐるりと一周するように吸い込まれて行った。


「開けようか」


恐怖などない。焦りや嫉妬や、希望ももちろんない。その衝動の制御は容易であるし、箱を開けずにしばらく放っておいたり、月曜日の可燃ごみにそっと混ぜ込んでしまっても、いかなる誰であれ損得を語ることは無いし、僕の記憶だって文句は言いようがない。

その筆跡は、丁寧に書かれている。しかし、肝心とも思えるバランス感覚や、筆圧の安定が丸々と欠如した懐かし気な筆跡。技を持たない子が的を得ない努力で書き連ねたような……。しかし、その縁打ちの主張は目を奪い語りかける。認めて欲しいのだろうか?賞賛を待ち望んでいるのだろうか?しかし誰がそんな事をするのだろう。この文字を眺めた経験があるのは、僕と郵便局員に限られると言うのに。


狭いベランダからは阿佐ヶ谷の街の飲み屋街を眺められる。サニーラインの窓を開け、右半身を外へ繰り出す。窓のサッシに腰掛けた。道を通る人々は必ずこちらをちらりと見て、驚いたり、その視線を取り消したり。怪しいことは何も無いのに、理不尽だった。


箱はどこから見ても姿を変えたりはしない。

当たり前だろうか?箱が小さい存在であれば答えはイエス。その箱にどこか感じる大きい意志に揺れる感情に驚く。


立ち上がりサッシを背に向ける。

ローテーブルの周りを何周か歩き、背の低いソファーに腰掛けた。箱は唐突に思ったかもしれないが、私にとっては最適なタイミングで、箱の上蓋を開けた。

そこには小さな森が大きく広がっていた。

森の一角が立体に描かれているような、精巧に作られた箱庭。生い茂る木々に囲まれて中心には倒木が設置されている。森には雨が降った気配があり、土が箱を湿らせていた。土の香りが鼻を刺し、生々しく記憶を刺激する。訪れたことの無い森に、記憶の引き出しを開け散らかされ、落ち着きを失った。異常な脈打ちと非効率な呼吸。素早く目を閉じ、膝を抱える。この森との出会いは"さいご"の眠りを思わせる、心的負担をグッと引き上げた。しかし、腹の底にウズウズを這い動く興味関心がその上蓋を閉じさせない。


じっくりとパスタの消化が進み、黒く静かな塊となる頃まで。

その森を眺めるなり、抱え込んだ膝を撫でてみたりと、長い長い沈黙の時間を過ごした。

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