二 追憶と現実

 一人の少女と、その母親を助けた。

 それは少年が中学生になった夏の出来事だった。

 その年は酷い猛暑で、暑さに頭がやられたのか赤へと変わった信号、そして歩行者を気にも留めず、運送トラックがT字路を曲がった。

 横断歩道を渡っていた母子を目がけ、巨大な質量が襲いかかるのだ。母子の後ろを歩いていた少年は、すぐに制鞄を手放して妙に冷静な頭で前へと走り出した。

 助けが必要だったかは分からない。あるいはその親子が自らの足で走るだけで危機を避けられたのかもしれない。それでも少年は走りだした。

 それは「人命救助」の理念から来る使命に駆られたわけでも、自らの命を捨てようとしたわけでもない。


「――――ッ!? ッ――――ッ!?」


 強いていうならば……そこに『非日常』があった。

 これまでの人生で聞いたことのない悲鳴も、人が大型車に轢かれる間近な未来の可能性も。

 少年の目には、得がたい『非日常』として映っていた。その場に傍観者として居合わせることを、ただの平和な日常を嫌う彼の心が許さなかった。

 あとは……『生』に執着しない彼にとって、『死』への、あるいは痛みへの恐怖で絶望を宿す目の前の若い母親とその子供が死ぬことを、僅かに勿体ないと思った。それだけだ。

 そして。



(あー……生きてたか。意外となんとかなったなぁ)


 地面を蹴り、母子の体を突き飛ばし、危地から追い出したのち更に地面を蹴った。

 そして運の良いことに自身も生き残ったのだ。自らの運動神経に期待していなかった少年には驚きを隠せなかった。

 熱いアスファルトの上に投げ出した体を起こしながら、微かな失望を織り交ぜた息を吐く。


「あっ」


 トラックが既に通り過ぎた道路を見ると、放り出した制鞄が轢き潰され、無惨な姿になっていた。に「あっちゃぁ……」と嘆息しながら髪をかく。


「あ、あの……ありがとうございました!」


 未だ現実を受け止めきれていない様子で、若い母親が腰を折って礼を述べた。

 かけられた言葉に笑顔を浮かべながら、少年は「とりあえず歩道に行きましょう」と提案し、女性はハッとして頷く。

 まだ幼い少女の手を掴み、歩道に向かう女性の後ろを歩きながら少年は振り向いた。


(あの鞄どうしよう……というか、学校どうしよ)


 げんなりとした空気を漂わせながら悩み、なんとか鞄を回収してその日は家に帰ることを決めた。学校に行かないだけの理由ができたことに僅かな喜びを覚えながら。

 周囲にいた人々は、遠巻きに眺めるばかり。大型トラックに轢かれた鞄をスマートフォンを掲げて撮影している者すらいる。


「あの……ありがとう、ございます?」


 冷たく周囲を見やっていた少年は、幼い声に振り向いた。

 母親に促された少女が、よく分かっていないままに礼を言ったのだ。優しげな表情を浮かべた少年は、側から見れば好人物に映っただろう。


「どういたしまして。無理に押しちゃったけど、怪我はなかったかな?」

「少し擦りむいたけど……大丈夫!」


 正直な少女に微笑を浮かべる裏で、少年は微かに、しかし確かに失望していた。


(なんか……思ったより……何というか、つまんなかったなぁ)


 その『非日常』は、予想以上に『日常』だった。

 少年の心を震わせるものではなかった。

 人の命が失われずに済む。それはさぞ尊く素晴らしいことだったのだろう。

 尊く素晴らしいのだから、さぞかし心が震える体験になるだろう。そう思っていた少年の予想は、あっさりと裏切られた。

 少年の心は…………凪いでいた。どうしようもなく、静かだった。


 二人の母娘といくつか言葉を交わし、そそくさと離れた少年は、注目を避けてもはや使えなくなった制鞄を拾った。破れたところから中にある教科書が落ちそうになるのを、抱えて何とか運びながら帰路につく。


 二人の人間を助けたその日、少年の中で自身の社会不適合性は確固たるものになった。

 喜ばしくなく、美しくない、つまらない思い出。

 少年の消えゆく意識が見せた、走馬灯であった。



 ◇◇◇



 「やぁ、気分はどうかな?」


 絶えたはずの『生』は少年を手放さなかった。

 否、引き戻した存在がいたのだ。少年を、死の淵から。

 未だ朦朧とする意識の中、何も分からずに目を開ける。かけられた声は少年の耳が確かなら、女性のものだった。強い響きをもつ、力を感じる声だ。それでいて愉快さも含んでいる。

 開いた視界が映したのは、平たい天井に埋め込まれた照明。どこか青い色味をもつ、少年の記憶にない光だった。そのことに奇妙さを感じながら、声の持ち主を探す。

 その人物はすぐに見つかった。すぐそばで少年を見下ろしていたのだから、当然ではあるが。


「……なん、で?」


 体にぴったりと合う形の寝台に寝転んでいた。そう気づいた少年は、体を起こした。

 そして女性に目を向けると同時、口から出たのは怨嗟すら含む疑問の声だった。

 状況の異常性に対する疑問ではなかった。それを上回るものが、少年の心中で荒れ狂う竜巻の如く渦巻いていた。

 そこにいた女性はドレッドの黒い髪を背後で一つに束ね、異国の雰囲気を漂わせている。肌の色はやや薄い褐色で、奇妙なことに左右で色の違う目をしていた。オッドアイと呼ばれる特殊な状態。

 大きな瞳の右は青、左は赤。その奇妙な事実を少年の頭は意識することなく、感情のままに声を張り上げる。


「なんでっ、生きてうッ!? なん、で……なんでおくは死んでない!?」


 錯乱する少年を女性は興味深く眺めるのみ。面白そうに微笑み、見つめていた。

 なぜか呂律が回らず、それが少年を更に苛立たせ、混乱を加速させる。


「死んだじゃないか! 死んだはずだ!」

「なるほど……少々奇妙な傷だと思ったが、自ら飛び降りたのか」


 片手を白衣のポケットにいれたまま、顎に指をそえ女性は呟く。

 未だ混乱している少年はしかし、気づいた。

 自らを死から連れ戻したのは目の前の女性だと。


「なんえ助けた! 死ねたはずだったのに!」


 激昂し、詰め寄る。生まれて初めて少年は、他者の胸ぐらを掴もうとしたのだ。


「なんで? 何故かって?」

「――――ッ!?」

「助けられたと、そう思うのかい?」


 黒いシャツの上に白衣を纏う、医者や科学者のような女性はその実、非力な存在ではなかった。

 伸ばした少年の手を三本の指でつまみ、されどその手は微塵も動かない。

 全力で手を引き戻す少年は、まるで固定されたように微動だにしないことに驚愕し、まじまじとその女性を見つめた。

 眼前の女性は一切揺らがない。それはどれほどの力があろうと、女性の体重ではありえないことだ。特別大柄な訳でもなく、それほどの質量は外見から見て取ることなどできない。


「じゃあ……何のために?」


 疑い深い少年だ。人を信じることのできない少年だ。女性に問いに対し、”利用するために助けた”のだと理解するのは早かった。


「君は"素材"だ」

「――――」

「この世で最も強い生物を、私が創りたいのさ。君をその糧とする。そのために治したんだ」


 少年の時が止まる。予想を超えた言葉に、思考が停止する。

 どこか人を小馬鹿にするような雰囲気のあった女性の口が、明確に弧を描く。その時少年は、確かに恐怖を感じた。

 既に目の前の女性は、少年にとって抗えない存在となった。得体が知れない、どうすることもできない。そう理解してしまった。

 どこか恍惚とし、興奮を感じさせる様子も相まって目の前にいる存在がまるで化け物か何かに見えた。


「安心しろ、とは言わないがね。素材といっても君という存在が消えるわけじゃない。君をベースに私の技術を詰め込み、『この世の頂点に届きうる生物』を創る。まぁ人でなくなることには違いないが……拾いものの命だ、さしたる問題ではないだろう?」


 一度投げ捨てたのだ、気にする必要はないだろう、と。彼女は言外にそう述べたのだ。

 少年の体表を悪寒が走り回り、駆け巡る。心の底から震え上がるような経験もまた初めてだった。

 咄嗟に己の体を見回し、熱心に確かめた。一見して、己の体に変わったところはない。


「おや? 気づいたのかな?」


 その様子を見ていた存在は、愉快そうに弧を描いた口で問いかける。

 二度目の悪寒が少年を襲った。自分の体が、自分の知らないものに変わっている。それは『生』を捨てた少年にとっても酷くおぞましいもので。

 ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる者を睨みつけ。


「――――なんてね」

「……はぁ?」


 その言葉に意表を突かれた。


「安心したまえ、君はまだ変わっていないよ。メインの手術はこれからさ」

「何なんだ、ほんと……に……………………今、なんて?」


 少年は安堵しようとしーー出来なかった。

 メインの、と。メインの手術と、今目の前の女はそう言った。

 その手術は怪我をした自分を助けるための手術なのか、あるいは。

 少年の疑問の答えを表すように、きひっ、という妙な声で女は笑った。心底愉快そうに。とても喜ばしいというように。


「ここ」

「……?」

「ほら、ここだよここ」


 己のうなじをトントンと指で叩く。

 女の動作に釣られ、少年もまた己のうなじに手を伸ばした。


 指先に触れる、硬質な感触。触覚はそれが人間の一部としてはあまりに相応しくないことを伝え、同時にそれの形がダイヤのようなひし形の底面を持つ、ピラミッドのような五角形であることを伝える。

 そしてそれはーー少年の首と繋がっていた。埋め込まれていた。

 今度こそ少年の脳は、全ての冷静さを投げ捨てた。


「う、あああああああああああああああああああああああああああっ!? これ、はっ!? なんだよこれっ!?」

「おやおや、それくらいで騒いで……全くこれからが心配になるねぇ」


 やれやれ、と肩をすくめる様子は場違いなもので。

 混乱から立ち直った少年は、かつてない憎悪をこめて睨みつけた。


「それはねぇ、【記憶水晶】という私の発明品でね。記憶の空き領域を作り、別の記憶を詰め込めるのさ。凄いだろう?」


 硬質なダイヤ形の何かを、その女は得意げに説明する。

 聞いた少年が考えるのは、詰め込まれた「別の記憶」とは何か、だ。


(……いや、待って。今、記憶の空き領域を作る、って……まさか……いや、でも……ありうる)


 意識の全てを思考に費やし、それを確かめる。考え、考えに考えて……額から汗が流れ始めた時、気づいた。気づいてしまった。

 少年の記憶の中、思い出せないものがある。


「……飛び降りる前の憶……いあ、違う…………名前、固有名詞!?」

「惜しい」


 口端を吊り上げ、女は笑った。

 消えていた。少年自身の名前も含め、万物の名前の記憶が。しかしそれだけではないのだと女は言う。

 自分が立っている足場が脆く崩れていくような感覚を覚えながら、少年は自分の記憶を精査する。そしてついに、気づいた。動転する状況に流され、意識の外に追いやられていたことに。

 不思議なほど、異様なほど自らの舌や顎、口周りに疲労を感じていることに。


「……言葉、言語?」


 答えは出た。


「正解正解、大正解だ。よく自力で気づいたねぇ」


 女は微笑み、拍手する。

 普段は感じない口周辺の筋肉の疲労は、少年に違和感をもたらした。消えている記憶と重ね、導き出した答えが”言語”。

 つまり少年は……【記憶水晶】などという代物で埋め込まれた、「別の言語を話していた」。

 自分が知らないはずの言葉を、だ。それに気づけば、他にも気づく。

 幾度目かの悪寒。体の震え。思い出してみれば、不思議なほど今までの自分の言葉は辿々しかった。いくら混乱していたとはいえ、まだ言葉を上手く話せない赤子のようにだ。


(当たり前のように、無意識に……知らない言葉を話していた。だから慣れない言葉を発した口周りの筋肉が、疲労していた……何なんだ、【記憶水晶】って。自分の発明だって言ってたけど……何なんだよこいつは)


「……お前は、誰だ? いや……何者なんだ?」

「初対面の相手にお前とは、礼儀がなってないねぇ……まぁせっかくだ、覚えておくといい。私はネルニス・イルザリース。この世で最も優れた研究者さ」

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