第12話 村の神社の話

稽古場所になる広場は村外れにある。

神社とは反対側にあって、不便な場所だ。

稽古とはいえ本番さながらの胡弓の演奏に、村人達が本気で踊ることがある。準備不足のものを神様にみせてはならないということで、わざわざ作られた場所だ。そして、村人は何回か行われる稽古に、一度は参加しないといけない。一度も参加しなかった者は、祭りに参加してはいけないことになっている。


そして、全国的にも非常に珍しいのだが、祭りには服喪中の者も参加出来る。条件はあるが、穢れを嫌う神道においては稀有なことだ。

祭神が戦に御利益のある神様で、戦国時代にはかなりの人気があったそうだ。江戸時代に入って、元禄期を過ぎた頃。大名の屋敷にあった社が、将軍様の目につかぬよう耳に入らぬように、都市からも街道からも外れた辺境に、神社を守護するための百姓達と一緒に移されたらしい。

村の歴史は江戸中期前半からだが、神社には、斧か鉞があり、奈良時代には伝わっていたという話がある。縁起は残ってないのだが、中大兄皇子時代、百済国救援に鉞を賜った大伴氏の縁があるかもしれない。

なぜなら、幕末に維新軍の数人が神社を訪れて、境内で奇声を上げていたとの話が残っている。

維新軍の中心、薩摩藩の下級武士お留め流である薬丸じげん流は、元をただせば、野太刀流という応天門の変で薩摩に流された大伴氏の家伝であったからだ。薩摩に流され、知識や持ち物などを土豪や富農に与えて生活の面倒を見てもらっていたらしい。落ちぶれた我が身を思い、もう我らは大きくない。と伴氏を名乗った話が鹿児島にある。

ひょっとしたら、幕末までには神社の話が、残っていたのかもしれない。

全ては歴史に埋もれてしまった推測でしかないが……。

神奈川県民としては、鉞繋がりで、頼光四天王の坂田金時と関わりがあっても面白いとは思うのだが……。

とにかく、荒々しい古代の戦神の神社ということで、多少の穢れはお目こぼしなのか、そもそも、穢れと思ってない、穢れといわれるものを落とすための神社だったかもしれない。

荒々しいからか、それとも戦というのは手抜きを許さないからか、稽古不足を聴かせてはならないというのがあったらしい。荒々しい軽快な曲を中心に弾いていたとのことだが、それも戦場(いくさば)でのことを考えられたのではないだろうか。

鎮魂や、荒ぶる神を鎮めるという考えではなく、戦そのものへの肯定というのが、まるでギリシャ神話やTTRPG(テーブルトークロールプレイングゲーム。机上役割演技遊戯)によくある戦の神みたいで興味深い。

機会があれば、もっと深く調べ、考察したい。

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