第4話 天童唯花視点
朝。目覚ましが鳴っているのは聞こえるけど、動きたくなくて布団の中で丸くなって目を瞑っている。ずっとこれで良いなあってぼんやりと思っていると、階下から声が聞こえた。
「ちょっと唯花ー! そろそろ起きなさーい! 早く起きないと遅刻するわよ!」
「う、ん…ふぇっ? いま何時…? うそっ! もう七時!?」
お母さんの声で微睡から目が覚めた私は、枕元にあった時計を見てドキッと身体が一瞬冷たくなるような感覚とともに飛び起きる。
最近少し暑くなってきたから身体が少しベタつくような感じがするけれど、汗を流すためにシャワーを浴びている時間もない。
遅くても七時三十分頃には家を出ないと学校に遅れてしまう。
すぐにパジャマを脱いで制服に着替える。慌ててしまったせいでスカートのジッパーが布を噛んでしまって、さらに焦りを増長させる。急いでいる時に限ってこういうことが起こるんだ。
何度かスカートのジッパーを上げ下げして、ようやく閉めることができた。
ほっと息を吐く間もなくすぐに洗面所に向かって行き、顔を軽く洗って歯を磨く。ついでに顔色を確認するけどいつも通り。昨日は夜遅くまで起きてたけど、隈とかなくてよかった。
朝ごはんは食べられそうにないなあと思いながら玄関に行くとお母さんが車の鍵を片手に待っていてくれていた。
「唯花、はいこれ車で食べて! 送っていくのは駅までだからね!」
「ありがとうお母さん!」
お母さんがくれたおにぎりを持って、それと忘れずに鞄を持ってすぐに車に乗り込む。
寝癖とかついていないか気になるけど今はそんな贅沢は言っていられない。兎にも角にもまずは学校に行ってからだ。
アルミホイルに包まれたおにぎりはまだ温かくて、朝で時間もないお母さんが急いで握ってくれたからか、ちょっと偏った三角形だった。でも、お母さんが私のために作ってくれたものだから感謝こそすれそんなことで文句を言うはずもない。
「いたただきます」
ぱくりとお握りを一口。白米が口の中でほろほろと崩れつつ、ほんのりと塩の味。それでいてしっかりと出汁が聞いた昆布の味がたまらない。
「美味しい、お母さんありがとう!」
「そんなのでも喜んでもらえてよかった。珍しく今日は寝坊助さんだったわね? 夜更かしでもしてたの?」
お母さんに痛いところを突かれて、苦笑いしか出てこない。
「あはは、ちょっと遅くまで勉強してたから…」
「あんまり無理しないでね。あとアラームはしっかりかけること! 私がいなくてもちゃんと起きないと困るから! 結弦はほんとに酷かったんだから…」
結弦というのは、今は大学生になって家を出ている私のお兄ちゃん。お兄ちゃんがいた頃はお母さん、ほとんど毎朝部屋に怒鳴り込んでいたっけ。
「ごめんなさい、今日は早く寝るね?」
「早くなくてもいいけど、しっかりと起きられる時間に寝なさいな。はい、着いた! 遅刻ギリギリかもしれないけど、急いで行っておいで!」
「ありがとうお母さん! 行ってきます!」
時間がない朝でも私のことを考えてくれるお母さんが私は大好きだ。
お父さんはいつも私より早く家を出てしまうから、朝はよっぽどじゃないと会わないんだよね。
学校の最寄り駅までの電車を確認すると、ちょうど良い時間に来るのがあったので早足で駅のホームに向かう。
「うわあ…」
ホームに着いた私を待っていたのは人の海だった。スーツ姿のサラリーマンやOL、私と同じようにどこかの制服に身を包んだ人もいる。
人の多さにげんなりとしてしまう。
「これ、電車に乗れるかな…」
この時間に駅を使うことがないから、こんなに混んでいるだなんて知らなかった。いつもはもっと早い時間に来ているからなあ。
『二番線に電車が参ります。黄色い線までお下がりください』
アナウンスが響くと、並んでいた人がほとんど一斉に電車に乗る準備を始め、人の波がうねるように動く。
「うわっ…」
私はその人の波に巻き込まれてしまい、電車に向かって流されていく。私が乗る電車だから良いんだけど、こうももみくちゃにされると少し気分が悪くなってくる。
キィーっとブレーキ音を響かせて電車が止まる。運良く私の目の前で電車のドアが開いた。すると、目の前にいた私を押し除けるようにして電車に乗っていた人が降りてくる。
急いでいるのかもしれないけど、そんな物を退かすように押し退けなくたっていいのにな。
「お、押さないでください…」
電車を降りる人たちから押し退けられたかと思ったら電車に乗ろうとする人たちに押し込まれるようにして電車に乗り込むことに成功する。良かったけど、あんまりいい気持ちにはなれそうもない。
ぎゅうぎゅうですし詰め状態の電車の中は、人が密集していて嫌な熱気に包まれていて、なんだか…あまりいいにおいはしない。
ちょっとつらいけど耐えるしかないか…と思ったところで、目の前に見慣れた制服が飛び込んでくる。私が通ってる高校と同じ制服だ、と少し顔を上げて制服の主を確かめる。
そこにいたのは、満員電車なのに涼しい顔でゲームをしている男の子。
顔立ちは整っていて、その男の子の周りはなんだか安心するような匂いで満たされていた。これならなんとか耐えられるかもしれない。
他人のにおいを嗅いでいるようなはしたない子と思われないように少し下を向いて、意識はその男の子に集中する。うん、なんとかなりそう。
そう思っていたら、なんだか少しずつ男の子が私から距離を取っているような気がする。寝起きだからちょっとくさいとか!? もしそうだったとしたら、女の子として自信無くしちゃうな…。
でも、満員電車のにおいには耐えきれないからほんの少し男の子に近づこうとしたところで、電車が急に揺れる。まずいと思ったその瞬間には既に私はその遠心力に逆らうことが出来ず男の子に身体を押し付けるようにくっついてしまった。
わざとじゃないんです…と思ったら、男の子は私の身体をゲーム機でガードしていた。
私と身体がくっつかないように配慮しているのか、触られたくないのかはわからないけど、なんだか微妙な気分。
この男の子は一体何を考えているんだろうとじっと見つめる。高校に入ってもう
もしかしたら先輩なのかと思って、ネクタイの色を確認するけど、同じ一年生を表す赤色だった。
じゃあ私が知らない他のクラスの人なんだ…と思ったところで、ぞわりとした感覚が私の身体を襲う。
一体何!? と思ったけど、その正体はすぐにわかった。私の背後にいるサラリーマンの人が、私のお尻を触っていた。
(ち、痴漢だ…!? ど、どうしたら? こ、声をあげる? でも迷惑になっちゃうのかな? 怖いし、気持ち悪いよ…)
不快感が極まって思わず目の前にあった制服の裾を引っ張る。
それは助けてほしいという気持ちからではなくって、本当に思わず握ってしまったもの。
安心するような香りの名前も知らない同じ学校の男の子。助けてくれるだとかそんな都合の良いことは思っていなかったけど、私の身体が勝手に動いた。
男の子は私の顔色を伺って、少し首を傾げる。それから少しずつ視線を下げていき、お尻らへんで眉をひそめた。なんだろう、そんなお尻を見ている視線に気づいたことがないから恥ずかしくなってきた。
男の子が徐に手を私のお尻に伸ばす。まさかあなたも私を触るの…!?って思ったけど、そんな馬鹿なことはなかった。
クキッと、もしくはグキッとすこし不気味な音が聞こえたと同時に、お尻を触っていた手が離れて男の人のうめき声が聞こえてくる。
何が起こったのかよくわからなかったけど、手からあの音がしたってことは、今この男の子全然知らない人の指を折ったの!? いや、まさかそんなことはしないよね…?
びっくりして恐る恐る男の子を見ると、彼はにこりと笑ってこれ以上後ろの人に触られないように私を少しだけ引き寄せた。引き寄せつつ身体が触れないように鞄を挟むあたり、多分知らない人に触られたくない人なのかもしれないなあ。
「ああ、すみません。イモムシかと思って潰してしまいました。大丈夫ですか?」
高くもなく低くもない聞きやすい声。
その言葉をかけている時の彼の目は私の少し後ろに向かっていて、顔は笑っているようなのに目は全然笑っていなかった。
さっき私に笑いかけたときは、その…なんというか、人を安心させるような笑顔だったのに、今は凍えるような笑顔と言ったらいいのかな。
誰の返事も得られなかった彼はその後すぐにため息をついてゲームを再開した。
なんのゲームをやっているのかなんとなく気になって画面を少しだけ覗いてみるけど、ゲームをやったことがあまりない私にはさっぱりだった。
私はそんな彼をぼーっと見つめてしまう。痴漢されたのは確かに怖かったけど、今はそれよりもこの男の子のことが知りたいという気持ちが大きかった。
『あみば〜あみば〜。お出口は右側です』
アナウンスが聞こえてはっとする。
男の子は一旦ゲームをやめて鞄にしまおうと手を伸ばした。
未だ私と彼との壁を作るために使われていた鞄にゲームを入れるとき、偶然彼の手が私の胸に当たった。
私はびっくりして恥ずかしくなったけど、それがわざとじゃないっていうのがわかっていたから何も言わないで彼を見ていた。
男の子は顔を真っ白にしてぎゅっと目をつむっていたけれど、おそるおそる私の顔を見て、私が怒っていないとわかったのか安心していた。
電車がゆるゆると速度を落としていく。
私はいつ彼にお礼を言おうかと思っていたけど、後になって思えば偶然だけど胸を触られて気が動転していたんだと思う。
電車が止まったと同時に、私は男の子の耳に顔を寄せて小さく言葉を紡いだ。
「ありがとう」
告げた瞬間急に恥ずかしくなって、男の子から逃げるように開いた電車のドアから飛び出した。
駅員さんが危ないので飛び出さないでくださいと言っているような気がしたけど、沸騰しそうな私の頭ではそれを処理できず、何も耳に入ってこなかった。
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