第3話 何か事件というか、変な事件というか。なんなら僕が事件というか。


下駄箱で外靴を履き替えて、授業中特有の静まり返った廊下の真ん中を我が物顔で歩きながら職員室に向かう。


真ん中を歩くのはなんとなく。人がいない時にだけ気が大きくなる典型的な小心者の行動だ。


そんな風に歩いていると、前の方から女の人が歩いてくる。長い髪を上手に三つ編みにしてまとめている女性。これがどういう髪形なのか僕にはわからないけど、とても似合っている。


明るすぎないよう少しだけ茶色に染められた髪と、白いブラウスにスーツのスカートがよく似合う大人の女性。何を隠そうこの女性こそ僕の担任の先生である佐藤先生だ。


みんなからはサトちゃんと呼ばれていたような気がするようなしないような。


先生は授業で使う教科書と授業内容をメモしているであろうノート、そしてチョークの入った箱を手に持っていた。ひょっとしてもう授業終わったのかな?


佐藤先生は視界に僕の姿を収めると、やや早足になって近づいてきた。僕ったら女の人に駆け寄られるまでになったのか。やだなあそんなにモテなくてもいいのに…多分遅刻の理由を聞きたいだけだろうな。


「おはよう、時任くん」


「おはようございます佐藤先生」


なんてことないいたって普通の朝の挨拶。でも授業時間中に廊下で挨拶をしているというだけで僕の不良度がぐんと上昇する。

ホームルームの時間に挨拶をすると健全で正しい学生像だというのに不思議だよね。


「お姉さんから遅刻しそうだっていうのは聞いてたけど、今日はどうして遅刻したの? 何か問題でもあった?」


佐藤先生は僕の知る限り教師の模範のような先生だ。

生徒たちのことをよく見ていて、思いやりがあって尚且つ優しいし美人だ。今だって心配そうな顔で僕のことを見つめている。


後ろめたいことはないけど、余計なことは言わなくて良いと判断した僕は素直に白状することにする。嘘は言っていないからいいのだ。


「ゲームに夢中になっていたら満員電車のせいで電車に降り遅れてしまって」


満員電車のせいなのか、ゲームのせいなのかはさておき、まあありきたりな理由だから大して突っ込まれることもないだろう。


自慢じゃないけれど、僕は優等生で通ってるからたまの遅刻くらい大丈夫。しかも寝坊とかではないからそこまで印象も悪くないんじゃないかな。

…いや、ゲームで遅刻の方が印象悪いか? まあ、遅刻したのには変わりないからどっちでもいいか。


「電車に降り遅れたの? でもそれってゲームに夢中になってたせいじゃ…」


「満員電車のせいですみません。今後はこういうことがないようにしますから。あ、次の僕のクラスの時間、先生の国語の授業ですよね。荷物お持ちしましょうか?」


「え、ええ。ありがとう、助かるわ」


余計なことには気づかなくていいのだ。言及もしなくていい。僕は二度目をやろうとは思っていないのだから大丈夫、なんの問題ない。


自分を正当化しつつ、先生に気になったことを聞く。こういう時は自分から話しかけた方が余計なことを聞かれなくて済むからね。


「まだ授業中なのに、先生はどうしてこんなところにいるんですか?」


「時任くんのお姉さんから、時任くんが遅刻だって聞いて。でもあまり遅くならないだろうって言ってたから授業を早めに切り上げて待ち伏せしちゃったの」


うふふと笑う先生。今日も笑顔が素敵ですね。


流石僕の姉。まるで未来が見えているかのよう。

…というよりは、僕がわかりやすいんだろう。寄り道せずにまっすぐ学校に向かったら二時間目の授業が始まる前くらいに着くのは当たり前だ。


それより待ち伏せしちゃったの、だなんて二十歳も半ばを過ぎた大人が言ってこんなに似合うだなんて先生はすごいな。

待ち伏せ、と言う言葉のチョイスも流石です。背筋が震えます。


世の中のアイドルの高齢化が進んでいる理由もわかる気がする。

可愛らしい女性は一定の年齢までは同じ可愛さを保ったまま生き続けるというのは都市伝説だと思っていたけど…本当らしい。


その中の多くはある日突然自分の年齢に気がついて落ち着くらしいけどね。


「待ち伏せですか。僕は別に逃げるつもりはなかったんですけど…」


アンニュイな感じで俯くと佐藤先生が慌て出す。

もちろんポーズですけどね。心が痛んだりとかはない。生きるためだからね。たまに姉さんにもやるけど、効いた試しがない。人の心がないのかも。


「そ、そうよね! ごめんなさい! 時任くんは成績も良いし、生活態度も良いからなんだか心配しちゃって!」


「ありがとうございます。でもこの通りピンピンしてますから、大丈夫ですよ」


でも少し眠いので授業中に寝るかもしれません。夜中まで勇者がヒャッハーしてたせいなんです。僕のせいじゃない。


「うん。何か事件に巻き込まれたとかいうわけじゃなくて良かったわ」


「そんなわけないじゃないですか」


おっと、そろそろ一時間目の授業が終わるな。

何か事件というか、変な事件というか。なんなら僕が事件というか。


妙なところで鋭いな、佐藤先生。でもまあ、天童さんも自分から僕に寄ってきたりはしないだろうからバレる心配はないだろう。


–キーンコーン


授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。それと同時に静かだった学校は騒めきを取り戻した。よかった、ちゃんと学校に人いたんだね。広い学校に二人きりだったらどうしようかと。


「あ、先生。教室に着きましたね。じゃあこれ、教卓に置いておきますね」


「ええ、ありがとう時任くん」


僕はぺこりと頭を下げて、自分の席に荷物を置く。これがゲームや漫画の世界だったら僕の席は窓際の一番後ろなんだろうけど、あいにく僕に用意されたのは廊下側の後ろから二番目の席。いかにも中途半端な僕らしい。


でも周りにいる人が三人は少なくなっているというだけで僕の心労は大きく減っている。人の名前を覚えるのが苦手なんだ。天童さんを知っていたのは完全に偶然。以前に光輝が興奮しながら話していたからだ。


大人しく席について国語の授業の準備をしていると、ガヤガヤと高校生特有のざわめきとともに僕のクラスの人たちが体育から戻ってきた。みんな更衣室で着替え済みのようだった。


あっという間に制汗剤のなんともいえない無理矢理作り出した清涼な香りが教室を満たしていく。

天童さんの匂いと比べたら雲泥の差だな。もちろん天童さんが上だ。


教室の前から光輝が戻ってきて、僕を見つけて笑顔で寄ってくる。なんでもいいけど、どうして君からは汗も制汗剤の匂いもしないの? 汗をかかない人類なのかな? 果たしてそれは人類?


「さっきぶりだな、昴!」


「あ、光輝。お疲れ」


お疲れ、とは言うものの光輝には疲労という概念がそもそもないのか、非常に楽しげな顔をしている。こいつ体力化け物だから仕方ない。あれくらいの運動じゃ朝ごはんにも満たないレベルだろう。


「おう。佐藤先生はなんか言ってたか?」


「ううん、特には。ただ少し心配されてたみたい」


「まあいかにも優等生な昴がいきなり遅刻したら心配もするわな。ひょっとしていじめとか…みたいな?」


「縁起でもないこと言わないでよ。僕はいじめられてないし、今日はただ電車に降り遅れただけ」


「そりゃそうだ、いじめられてたら昴は黙ってないだろうしな! …それで、本当のところは?」


後半は小声になって僕に顔を近づけてくる光輝。近くで見れば見るほどこいつイケメンだな。とりあえず殴っておこうかな。


拳で光輝の顔をぐりぐりとやりながら答える。


「本当も何もそれが全てで全部だよ、はやく次の授業の準備しな。もう休み時間残り少ないよ」


「いへえなあ。わあったよ。今日昼はどうする? いつもと同じでいいか?」


「うん、そのつもり」


「おっけ。さーて、気を引き締めて学生らしく勉強に勤しみますかー」


ぐーっと伸びをしながら自分の席に向かっていった光輝。ちなみにあいつの席は何を隠そう窓際の一番後ろ。本当に主人公のようなやつだ。


さて、僕も勉強に勤しもうかな。個人的に国語は好きなんだよね。古文でも漢文でも現代文でもなんでも好きだ。


人が書いた物語には、その人自身の世界が溢れている。言葉一つとってもそれに意味があるのかないのか、結果その言葉があったからこそ受ける印象というものがある。


そういう人の世界を感じるというのが僕は好きだ。

説明文は答えがあるからテストは簡単だけど、読む分にはあまり面白いと思わない。ただ長々と興味のない話をつらつら話されているような気持ちになるから。


多分、物語風なものが僕は好きなんだろうな。かといって僕が文系かって言われたらそれはそれで首を捻ってしまう。僕は物理や数学も嫌いではないし、不得意ともしていないから。


–キーンコーン


「はい、席についてください。授業始めますよ!」


佐藤先生の元気な声が聞こえる。もう教師も…何年目なんだろう。年齢はよくわからないけど、そろそろ慣れてきた頃だろうに楽しそうに授業をしている姿を見ると新人のようだ。


と思いきや、授業の進め方には淀みがないから新人じゃないんだなっていうのはわかるんだけどね。


「それじゃあ今日は教科書の二十八ページから…」


今日も今日とて平和だ。ちょっとしたアクシデントはあったけれど、何にも問題のない日々。

そんな日々が変わらず続いていくと、この時の僕は思っていた。


けれど現実はそんなことはなくて、あの時の出会いがきっかけになって僕の日常を少しずつ変えていくことになるとは。


僕の日常を変える決定的な事件。それは、昼休みに起こったんだ。

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