第26話 右の頬を叩かれた小悪魔は、左の頬を差し出すか選択を迫られる
······私はユリアの非の打ち所の無い可愛らしい笑顔を見て悪寒がした。そして気付くと、協力者と決めた筈の南先生を置き去りにして駆け出していた。
南先生の呼び掛けを無視し、私はユリアの手を引き、人気の無い芝生公園の裏手に連れ込んだ。
細い木々に囲まれた茶色い土の上に、私とユリアは向かい合った。私はこの性急な行動を自分でも分かり兼ねていた。
······違う。私は分かってしまったんだ。ユリアに南先生の優しさは届かない。その南先生が居ては逆効果だと私は無意識の内に判断したのだ。
私にそう思わせる程、ユリアのあの笑顔は普通では無かった。普通の人が見れば見惚れる美少女の笑顔。
だが私には、背筋に冷たい汗が流れる笑顔だった。この娘は。ユリアは半ば壊れかけている。
ユリアに突然の告白をされて以降、私はこの可憐な美少女を観察者の視点で見てきた。そして分かった事がある。
ユリアは誰にも心を許していない。クラスでは男子に大人気であり、その天然の性格からか女子受けも悪くなかった。
いつもユリアの周囲にはクラスメイトが居た。ユリアも楽しそうにクラスに溶け込んでいる。
だが、それは表面上の事だけだった。それはユリアとのラインのやり取りでも明らかになっている。
ユリアはクラスメイト達の事を「カボチャや人参。野菜みたいな物よ」と冗談とも悪意とも取れる表現をしていた。
私とは異なる理由でユリアは孤独の道を歩んで来たのだった。
「······ユリア。何故鶴間君にあんな事をしたの?」
私は走った後の乱れる呼吸を整えながら、同じく息を切らせていたユリアに問い正す。
「あんな事? ああ。やだゆりえちゃん。見ていたの? 私と鶴間君がキスしている所」
ユリアの笑顔に更に妖しさが増した。私は見えないその圧に屈しないように自分を強く持つ。
「物事は正しく。そして正確に表現して。ユリア。あなたから鶴間君に無理やりキスしたんでしょう?」
「そうよ。ゆりえちゃん。南先生にした様に、鶴間君にもキスをしてスマホで写真を撮ったの。でもね。残念ながら写真はぶれてしまったわ」
ユリアはそれはとても悔しそうな顔を私に見せた。この娘は南先生だけでは無く、鶴間君をも写真で脅そうとした。
······鶴間君を脅迫する。一体何の為に?
「勿論。ゆりえちゃんをクラスで孤立させる為よ。今クラスでゆりえちゃんと仲良くしている鶴間君にお願いするの。ゆりえちゃんを無視してねって」
ユリアは口の両端をつり上げ微笑む。その形相に、私は恐怖に近い感情が沸き起こって来た。
「でもね。鶴間君は拒否したわ。無理矢理キスされたと口外すると脅してもね。仕方無いからもう一人の方を狙ったんだけど」
······もう一人? クラスで私に話しかけてくれる人はあと一人しかいない。ま、まさか失恋したはかりの北海君も毒牙にかけたの!?
「でもね。やっと見つけた北海君は、ベンチに座ってなんか落ち込んでいたの。鶴間君が隣に座って邪魔だったからキス出来なかったわ」
······道理で鶴間君と一緒にいたユリアが一人で私の前に現れた訳だ。ユリアは。この娘はそこまでして私をクラスで孤立させたいの?
「そうよ。ゆりえちゃん。貴方は寂しく一人ぼっちでいなければ駄目なの。でも安心して。ゆりえちゃんの傍には私がいるから」
一歩ずつ。人間の皮を被った小悪魔は、妖艶な笑みを輝かせ私に近付く。私は当初、南先生と共に二人でユリアを説得しようと考えていた。
誠心誠意言葉を尽くせば、ユリアはきっと改心してくれると甘い皮算用を用意していた。
だが、それは私の間違いだった。ユリアに。この小悪魔に私の言葉は決して届かない。ユリアは、もうそんな段階を通り過ぎた場所に立っていたのだ。
ユリアのその美しい顔が私の眼前に迫る。
······どうしたらいい? 私はどうすればいいの?
パンッ。
弱い風が緑の葉を生茂らせる木々を揺らした。乾いた音が風に混じるように殺風景な芝生公園の裏に響いた。
無意識の内に動いた私の左手は、ユリアの柔らかそうな右の頬を叩いていた。
「······え? 何をするの? ゆりえちゃ······」
パンッ。
両目を見開くユリアが言い終える前に、私は再び左手でユリアの頬を叩いた。痛みからか、ユリアの目に涙が滲んだ。
······私は失念していた。幼少の頃より周囲から孤立していた私は、破滅的に人とのコミュニケーション不足だった。
そんな私に、小悪魔を説得出来るような。人の気持ちを変えられる様な金言を口に出来る筈が無かった。
でも。そんな私にも一つだけ誇れる物があった。どんなに辛くても。痛くても。ブスと蔑まれても。ずっと続けた空手だ。
今ユリアに必要なのは千の言葉では無い。私は本能的にそう感じていた。
パンッ。三発目
「······痛いよ。ゆりえちゃん。何でこんな事をするの?」
ユリアの右頬は既に赤く腫れていた。私は息を吐いた口を閉じて笑って見せる。
「ユリア。一つだけ忠告してあげるわ。私はあんたを叩くこの手に少しずつ力を入れていく。歯を食い縛らないと辛いわよ」
パンッ。四発目。
「······ユリア。知っている? 「怒る」と「叱る」って言葉は、似ているようで意味が違うの」
パンッ。五発目。
「怒るは感情のままに怒りを露わにする事。一方で叱るは相手の為を思って嗜める事よ」
パンッ。六発目。
「私が通っていた空手道場はね。昔気質の先生がいてね。それはもう、指導と言う名の暴力が道場内で吹き荒れていたの」
パンッ。七発目。
クラス中の男子が見惚れるユリアのその唇が切れ血が流れる。そしてその大きな瞳からは大量の涙が流れていた。
「でもね。長い事通っていると、その先生が怒っているのか。叱っているのか分かるようになるの。ユリア。あんたは親に叱られた事がある? 今私がしているように、頬を叩かれた事はある? きっと一度も無いでしよう。私のこの平手打ちが「怒る」か「叱る」か。あんたにどちらかだと分かる?」
パンッ。八発目。
「皮肉ね。ユリア。不細工な私と器量良しのあんたが、孤独と言う同じ共通点を持っていた。分かる?ユリア? 今こうして、クラスメイトに頬を叩かれ続けた時の対処法? 孤独と言う名の鎧で全身を固めて、他人と真剣に向き合った事の無いあんたにその方法が分かる?」
パンッ。九発目。
「私も分からないわ。ユリア。小さい頃からずっと独りぼっちだったから、誰かを殴った後の対処法なんてまるで見当もつかないの」
ユリアの右頬は一発目より比べようもない位に腫れ上がっていた。ユリアは怯えるように泣いていたが、瞳はまだ力を失っていなかった。
『おい小田坂ゆりえ! もう止めるんだ。最初の計画と余りにも違うぞ!!』
六郎が必死に静止の声を上げるが、私は心の中で返答はしなかった。私はユリアの両頬を掴む。
「ユリア。昔の聖人はこう言ったそうよ。右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せと。あんたはどっちになる? 聖人? それとも良心を悪魔に売り渡した小悪魔? どっち? ユリア。あんたはどっちになるの!? 答えて!!」
私の頭の中は真っ白だった。私は今、本能だけで行動している。私は気づいた。ユリアの孤独と言う名の鎧を木っ端微塵に破壊しないと、私の言葉は何も彼女に響かない。
私は暴力と言う手段でユリアの鎧を壊す事を試みた。一瞬でいい。ほんの少しの間でいいからユリアの感情を揺さぶり、鎧を脱がす時間を得る必要があった。
「······分かんないよ。ゆりえちゃん。ただ痛いだけで何も考えられないよ」
艷やかや茶色い波打つ髪を乱しながら、ユリアは子供の様に泣きじゃくった。私は両手に力を入れユリアの両頬を再び掴む。
「······ユリア。孤独なんて物はね。誰でも持っている物なの。誰かとそれを共有する事なんて出来ないの。誰かと傷を舐め合っても決して無くならないの。人は一生それを抱え続けて生きていかなかくてはならないの!!」
ユリアの大きな瞳の焦点が私に向いた。それは、私の待ち望んだ千載一遇の機会が到来した瞬間だった。
「だからユリア。孤独から逃げないで! それはあんた自身の孤独だからよ。誰も変わりに背負ってくれないの! 孤独から目を背けないで! 真正面から立ち向かって! そうしないと、あんたはこの先一生救われない! 自分を救えるのは自分自身だけなの! あんたを救えるのはあんた自身だけなのよ!!」
私は全身全霊。魂を込めてその言葉をユリアにぶつけた。可憐な美少女の瞳は僅かに揺れ、一点に私の目を見つめていた。
その時、私の背後から枝が折れる音がした。私が振り向くと、そこには地面に落ちていた小枝を踏みしめる南先生の姿が在った。
ずっと走っていたのか、激しく息を切らす南先生は、ゆっくりと私達の前に近づき、ユリアの前に立った。
「······国岩頭。友達と喧嘩した時、何て言って仲直りすればいいか知っているか?」
南先生はユリアの頭の上に手のひらを乗せ、優しく。そして諭すようにユリアの目を見つめる。
「······分かんないよ。先生。私は今まで、友達なんかいた事がなかった。喧嘩した事なんて一度も無かった」
ユリアがすがるような目で南先生を見上げる。それはまるで、迷子になって不安げに親を探す子供の目だった。
「······簡単だ。国岩頭。ただ一言「ごめんね」って言えばいいんだ。相手が友達なら、きっと許してくれる」
南先生は優しくユリアに微笑む。ユリアは一瞬身体が固まった様に立ち尽くした。そして肩から全身が震え始める。
「······めんね」
それは最初、聞き取れない程の小さなか細い声だった。
「······ごめんね。ゆりえちゃん。ごめんなさい。南先生。ごめんなさい。ごめんなさい」
······ユリアの両目から再び涙が溢れる。それは痛みからの涙では無かった。ユリアの冷え切った心に温かい熱が宿った副産物だった。
気づいたとき、私はユリアを抱きしめていた。
〘······もし、この生を全うし息を引き取る時に思い返す事があるのなら。もし自分の人生で誇れる事があるのなら。
私はあの男の子の事を思い出すかもしれない。
あれは秋の午後だった。休日散歩していた私は、まだニ、三歳に見える幼児と道ですれ違った。
私は即座に男の子に声をかけた「僕迷子なの? お母さんは?」すると男の子は喋る機関車のキャラ鞄を背負いながら、穏やかな笑顔で「おばあちゃんのお家に行くの」と言った。
その男の子のしっかりとした受け答えから、私はこの子が普段から一人で祖母の家に行っているのだろうと判断した。
まだ小さいのになんてしっかりとした子なんだろう。男の子と別れた私は、感心しながら歩いていた。
そして程なくして、髪を振り乱し走りながら周囲を見回す女性が視界に映った。三十歳前後に見えるその女性は、私と目が合った途端に絶叫する「小さい男の子を見ませんでしたか!?」と。
私は直ぐに先刻遭遇した男の子の特徴を女性に話す。あの男の子が背負っていた喋る機関車のキャラ鞄が決め手になった「その子です!! うちの子供なんです!!」
私は女性に男の子が歩いて行った方向を指差し、一足先に全力疾走して男の子に追いついた。
半泣き状態で後からやって来た母親は、笑顔の我が子に抱きついた。何故一人で家から出て行った理由を母親は男の子に問い正す。
野暮を承知で私は口を挟んだ。男の子は祖母の家に行こうとしたのだと。一時的とは言え、迷子の子供を探す事に協力出来た事は私にとって誇れる出来事だった。
でも時々思う。あのしっかりとした男の子は、きっと一人でも祖母の家に辿り着けただろうと 〙
ゆりえ 心のポエム
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