23

 マリアは走った。

 走って、走って、湖を目指す。


 足がもつれて何度も転びそうになった。

 怖かった、悲しかった。涙が止まらない。

 足はいつかのように血にまみれて、頬は枝で引っ掻いた。無我夢中で、痛みは感じない。


「ごめんよう、ごめんよう」


 着いてきてしまった妖精が、泣きながら謝る。

 マリアは返事をする余裕がない。

 ようやく森の終わりが見えた時、その向こう側に湖面が見えた。少し安堵した途端、木の根っこに足を取られて、盛大に転ぶ。


 マリアは立ち上がると、膝に手をついて、ぜえぜえと切れた息を整えた。涙が止まらなかった。

 なんで、こんなことになってしまったんだろう。

 どんなに考えても、マリアには分からない。


「大事ないか、稀人の子」


 顔を上げると、湖面の真ん中にメルキオールがいた。その両脇にはバルタザールとジャスパーもいる。

 水面をすいすいと歩いて渡ってきて、マリアに手を差し伸べる。


「だから、あれほど言ったではないか。悪魔は悪運を招き寄せると」

「賢者さま。賢者さま。お願い、お願い! エスを助けて」


 マリアはその衣の裾に取りすがった。


「そんなことするでない。悪魔なら大丈夫だ」


 賢者がマリアを助け起こす。


「ほ、ほんとに?」

「ああ、約束しよう。あいつらが滅びることはない」

「で、でも。わたくし、森に戻らなきゃ」

「それでは邪魔になるだけだろう。さあ、こっちにきなさい」


 とマリアの手を優しくとると、他の賢者が待つ湖の中心に案内した。

 マリアはまるでイエスのように水面を歩いていることに気がついたものの、エスのことが気がかりでたまらない。

 やってきた湖の中心は白っぽくなっていた。


「ここは…」

「魂を還す場だ」


 ジャスパーが答えた。


「この湖自体が異界へ通じる扉なのだ。どうやらここは座標が安定しないらしくてな、昔からちょくちょくどこか別の場所へと通じてしまう。サン・ジェルマン自体、元々この湖を守護するために作られた街なのだよ」

「でも、わたくし。全部の宝物を手に入れてないわ…」

「問題ない。夜明け前に悪魔がやってくればな」


 マリアは祈るように手を組み合わせたが、誰に祈ればいいのか分からなかった。マリアにとって祈るべき神は、だいぶ前にどこかに行ってしまったのだ。だから、エスに祈りを捧げる。

 ぼちゃんと音がして、


「マリア、大丈夫ですか?」


 続いて気遣わしげなその声が聞こえた時、バッと顔を跳ね上げるのと同時に、もう二度と会えないかもしれないと恐怖していた心の強張りが、解けるのを感じた。


「エス!」


 マリアは歓喜の声を上げて、エスに飛びつく。その拍子にエスの体が水面で尻餅をついた。


「無事ですね、よかった」


 マリアを腕の中に受け止めたエスが嬉しそうに微笑む。

 ところが、マリアはすぐに異変に気がついた。エスの服が真っ赤に染まっているのを見て、青ざめる。


「大丈夫ですよ。少し撃たれただけです」

「全然大丈夫じゃないわ! 一体何人の兵士がそうやって亡くなったと思ってるの!」


 マリアが綿の上着をエスの傷に押し当てるが、その生地がみるみる赤く染まっていく。


「おお。そなたついに力に目覚めたな」


 水中から頭だけ出したバルタザールが呑気にそんなことを言う。マリアは思わず怒鳴ってしまった。


「賢者さま! 今それどころじゃないの!」


 自分の家族が亡くなってしまった時のことを思い出して慌てふためくマリアに、ジャスパーが小瓶を差し出す。


「ほれ。賢者が作った『睡蓮の妙薬』じゃ。万能薬だし、凝固剤くらいにはなろう」

「本当に? 信じていい?」

「これ以上の薬は見つかるまいて」


 マリアは小瓶をエスに差し出す。


「はい、飲んで。今すぐ飲んで」


 栓を開けて、口に押し込もうとするマリアに、エスは目を白黒させながらも言いなりになった。押し込まれた瓶の中身がすっかり消えた時、マリアが瓶を抜き取る。


「大丈夫?」


 泣きそうになりながら詰問するマリアに、エスは苦笑する。


「体が、軽くなった気がします」

「ほんとに?」

「本当ですよ」


 エスが微笑んだ。

 それを見たマリアは、


「あなたのその笑顔、悪魔みたいよ」


 と鼻をグズグズさせて、ようやくなにかが変なことに気がついた。エスの背中に翼が生えていたのだ!

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