20

 雲の合間に月が顔をのぞかせて、月の光が妖精の森に降りそそいだ。エスとマリアは森の奥へ奥へと進む。森の一番深遠には湖があり、下弦の月の時にはそこで妖精たちが集会をすると言われていることから、彼らがいる森は『妖精の森』と呼ばれていた。

 フクロウの低い囁き声や、虫たちの歌が静かな森に深深と響く。


 マリアはなにか話したくなった。他の人間でもなくエスにマリアのことを知ってもらいたい気分になった。


「わたくし、夢があったの。かっこいい兵士のお嫁さんになりたかった。でも、あんまり欲張りだったから、バチが当たっちゃった」


 先を進むエスがひっそりと返事をする。


「マリアは若い。夢を叶えるには、まだたくさんの時間があるでしょう」


 マリアは微笑んだ。

 月の光がマリアの中に眠る記憶を呼び覚ましていくようだ。


「到着するまで、わたくしの世界のおとぎ話をしてあげる」


 マリアは細い指先で、自分の唇を撫でた。自分の口が紡ぐのが、叫び声ではなく、物語であることを幸運に思いながら。


「むかし、むかし。あるところに、お姫さまがいました」

「…あなたのような?」

「そう。ところが、ある時、彼女の暮らす王国に暗雲が立ち込め、国からは食料がまるでなにもなくなってしまいました。民草は怒り、王様を許さず、革命を起こしました。館に閉じ込められたお姫さまの命もいよいよ危うくなった時、料理人見習いの少年が助けてくれましたが、彼女は両親とも、三人の姉と弟ともはぐれ、記憶もすべて失ってしまいます。そして国の端にある孤児院で迷子として育つことになりました」

「王女さまが孤児院に?」


 エスはおとぎ話らしい話に微笑んだ。

 かさかさと移動するたびに、草同士が擦れ合う音がする。


「そうよ。時間が経って、大人の女性になったこのお姫さまは、記憶の深いところに眠る家族というものに会いたいと、旅に出かけるのよ。そうして、一人、初めて見たはずなのに、懐かしい感じがある寂れた宮殿にたどり着くの」

「…そこには、なにがあるんです?」

「なにもないわ」


 マリアは遠くを見るような目で、笑う。


「そこは、ただの廃墟なのに、そのお姫さまには別の光景が見えるのよ。いつの日か、そこで開かれた豪華絢爛なパーティ。彼女の祖母と語り合ったこと、彼女の父親と踊りを踊ったこと。だから彼女は、誰もいなくなった館で一人、ワルツを踊るの」


 二人はやがて、湖にたどり着く。

 湖面は月の光を反射してキラキラ煌めき、草花の香りが辺りを満たしていた。まるで世界にはエスとマリアの二人しかいないと思わせるような場所だった。


「その、踊りは、どうやって、踊るんですか?」


 躊躇いがちなエスの言葉に、マリアは彼に向かって手を伸ばす。エスもその手を受け取り、マリアがリードする形で、芝の上をゆっくりと動き始める。ゆったりとした簡単なステップに、エスはマリアの顔を見つめ、マリアもエスの顔を見つめている。


 右、左、右。

 右、左、右。


「想像してみて。ここは廃墟の宮殿の中なの」


 マリアがそっと目を閉じる。

 くるり、と二人はターンする。


「崩れかけた壁。シャンデリア。赤い絨毯のひかれた大きな階段。お姫さまに着いてきたジョイとジミーっていう犬が心配そうに彼女を見つめている。踊る、この女の子を」


 それから、マリアは動けなくなった。


「ナースチャは生きてるの。彼女は、生き延びたの。彼女は、前へ進むわ。おばあちゃんになるまで。それは、幻想じゃないの…………それだけじゃない。みんな、みんな、生き延びるのよ」


 彼女の閉じた瞳から涙がこぼれ落ちる。


「ねえ、エス」


 マリアがエスの胸にもたれかかる。


「ナースチャは十七だったわ。弟はたった十四歳だった。あなたが悪魔というだけでこの世から憎まれるなら、わたくしたちは王族だったから殺されたのよ」

「マリア、…あなたは」


 マリアの頭が押し付けられたエスの服が、水分で湿る。

 エスが辛そうに言葉を呑み込む。


「………ごめんなさい」


 マリアは震える両手で、ぎゅっとエスを一回だけ抱きしめ、それから離れた。彼女は微笑んで、言う。


「『月のしずく』を探しましょう」

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