19

 宝物の残る最後の一つ、『月のしずく』は下弦の月の時に妖精の森に現れる光の粒なのだと言う。西にある妖精の森は、サン・ジェルマンにほど近く、下弦の月まで一週間ほどの時間があった。


 その間、二人はサン・ジェルマンの街で骨を休めることにした。

 ある日、二人が中心街を散策していると、真昼間だと言うのに、酒屋の戸が開いていた。中で飲むのが嫌いな人間が、正路の脇に並べられた店のハイテーブルで酒盛りをしている。内からは、何やら騒々しい音がしていた。


「おじさま方、なにかあったの?」


 マリアが声をかけると、すでに顔を赤らめた中年男が陽気にジョッキを掲げてみせる。


「この街に移動式の音楽隊がやってきたのさ! いま、中で演奏してるよ!」


 マリアはその言葉に心が躍った。街に出かけても、お母さまは、こういう、ちょっと危なそうなところには立ち入らせてくれなかったのだ。ちら、ちら、とエスを見上げる。


「ね、ねえ。ちょっと入ってみるのも、いいんじゃないかしら。ど、どう、思う?」


 伺うような視線に、エスはマリアがまるでこういう所に来たことがないのだと読みとった。


「いいんじゃないでしょうか。この店にタチの悪い連中はいないはずです。ただ、興味ない人に絡まれないように注意して」

「わ、わかったわ」


 マリアは頷いて、一歩踏み出した。


「さあ、行きましょう」


 エスは面食らったようで、うろたえた。


「おれも?」

「そうよ、一人で行ったってなにも楽しくないじゃない!」


 そう言って、ぐいぐいとエスの腕を引っ張る。一人で入るのが不安だから、離そうとしない。


「しかし、街の住人はおれの顔を知っています。そっちの方が楽しくないと思うし、…それにそれだと、男が寄ってきませんよ」


 酒屋というのはそういう遊びをする場所では、という疑問を発する前にエスが口をつぐんだのは賢明だった。エスの腕を掴んだまま、その間にぽすりと収まったマリアが不思議そうにエスを見上げたからだ。


「音楽を聴くのに、男性は必要ないわ。それに、エスも男性じゃない」

「…そうですね」


 エスは不承不承頷く。

 あいにくマリアの中に『一夜遊び』の概念はなかった。彼女の夢は小さい時から変わらず『お嫁さんになること』だったので、そんな過程は必要なかったのだ。


 マリアに腕を引っ張られる形で、二人は、薄暗い店内に足を踏み入れる。まばらに人が入った、そこまで広くない店内の一番奥は一際明るく照らされており、そこで音楽団と思わしき面々が、ヴァイオリンやヴィオラ、トランペットの調弦をしている。


「暗いわ…」


 マリアは不安の呟きを漏らし、ぎゅっとエスの手を握った。エスが少し手に力を込めて握り返してくれたので、少しだけ不安が薄れた気がした。


「なにか、飲み物をとってきましょうか?」

「じゃあ、なにか果汁が飲みたいわ。もちろん、あなたの分も」

「…すぐに戻ってきます」


 エスがマリアの側を離れた。マリアはキョロキョロ辺りを見回す。


「お、この間のべっぴんの嬢ちゃんじゃねえか。こんな怪しい所に来ていいのかい?」


 テーブルで飲んでいるひょろりと長ネギのように細い男がマリアに声をかける。


「だって友人もここにいるもの」


 マリアは朗らかに返す。そして、相手とどこで会ったのか思い出せず、


「お会いするのは、初めてじゃなかったかしら」


 と尋ねた。男は頬をぽりぽりと掻くと、ティエリーと名乗り、


「この前、広場で君を見ていた一人さ。お嬢ちゃんみたいな綺麗な人があんな風に啖呵切るんだから、驚いたぜ」


 と笑う。


「まあ、その悪魔を俺に近づけないで欲しいもんだが、お嬢さんとはぜひとも仲良くなりたいね」

「わたくし、エスにひどい態度とる人とは仲良くしないわ」

「へえ、随分奴隷となかよくなったもんだ」

「イヤな人!」


 マリアはティエリーを睨みつけると、ティエリーは両手を上げてみせた。


「おやおや。町役人の俺と仲良くなっておいて損はないと思うけどなあ」

「あなたがその態度を改めるなら、いくらでも仲良くするわ」


 マリアは冷淡に返して、そっぽを向き、エスを探しに行くことにした。カウンターのところで、エスがボーイと話をしているのを見て近寄ろうとするが、剣呑な様子に足を止める。


「だから、飲み物は売れねえって言ってるだろ」


 グラスを磨きながらぞんざいに言うボーイに、エスはあくまでも淡々と言葉を返す。


「どうしてだ。金は払う」

「金さえ払えばなんでも手に入ると思ってんのか。これだから悪しき者は!」

「…主人が待っているんだ。どうか、売ってくれないか」

「お前、アイボリーの旦那の元を離れて、調子に乗っているんじゃないか? 何かが欲しいなら、奴隷らしく頭を下げろ」


 マリアがエスの元に駆け寄ろうとした時、細い腕がマリアの肩にかかる。


「どうだ。あれが悪魔だよ、お嬢さん。あんなのやめて、俺にしたら?」

「あなたなんて、なんど死んでもありえない」


 マリアはその手を振り払い、今まさに頭を下げようとするエスの元に踏み出す。

 マリアはわがままな少女だった。頭を下げればそれがいつか輪に認められることに繋がるのかもしれないが、彼女の友人がそんな屈辱的なことをさせられる姿を見たくなかった。


 そっと、彼の腕をとると、腕を絡ませた。元の世界で淑女が紳士にそうしたように。


「エス。喉が渇いちゃったわ」

「マリア。申し訳ありません」

「いいのよ。他の場所に行きましょうよ。だって、ここ、ジュースすら置いていないのだもの」


 そうして、カウンターに身を乗り出した。


「ねえ、ボーイさん。いつかここでジュースを売ることになったら、招待してちょうだい」

「来ないでくれ」


 マリアは決意を込めて返事をする。


「いいえ、来るわ。だって、わたくし、ジュースが飲みたいもの」


 音楽を聴くこともなく外に出た二人は、街の中心を通る川に突き当たり、その川に沿って、無言で歩いた。いくつかの橋の下を通り抜け、街路樹の下に腰を落ち着ける。そのとき、初めてエスは口をきいた。


「申し訳ありません」

「どうして謝るの? エスはなにも悪いことをしていないわ」


 疲れたようにぼんやりとしたエスの目が、ゆっくりと川の流れに向けられる。


「おれは、あなたと出会って、なんだか許された気がしていたんです。この世界に」

「世界は、あなたにあまりにも辛辣だわ」


 頬を手で包んでつまらなそうに川を見つめるマリアの言葉に、ぽつりとエスが呟いた。


「あんたには家族がいたんだろう。愛されてさえいた。いつだって人気者のあんたに、俺の気持ちなんて分かるはずがない」


 あまりにも静かな口調が、却って傷の深さを浮き彫りにしていた。マリアは、静かな口調で、


「そうかもね」


 と返し、肩を竦める。

 マリアはよく痛みに泣いていた体の弱い弟を思い出して、エスをぎゅっと抱きしめた。硬い赤毛がマリアの頬に触れる。それから、


「世界があなたを祝福しないなら、わたくしがあなたに祝福を贈るわ。だって、祝福を受けなくていい人間なんて、この世に一人もいていいはずがないもの」


 弟をそうして宥めたように、瞼や頬や鼻先にキスの雨を降らせたのだった。

 エスは最初訳がわからないというように呆然とキスを受け止めると、すぐに真っ赤になった。


「前から思っていたが、人との距離が近すぎます」

「そうかしら?」

「そうですよ! この世界の人間は、そんな風に引っ付いたりしないんです」

「そうなの?」


 マリアは微笑んでみせたが、心の中は、少し、不満だった。文句を言うくせに、エスはちっとも避けないではないか、と思ったからだった。

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