16

 エスとマリアは一際光っている方に向かってふわりふわりと水中を進む。


「ぜったいに、認めてもらいましょう。エス」

「…はい」


 エスが自分よりやる気のマリアに、苦笑まじりに返事をする。

 先を行くマリアはくるりと振り向いて、エスに向き直った。髪の毛が水に持ち上げられてふわりと舞い上がる。


「…なにか?」


 戸惑うエスに、マリアは彼の顔をまじまじと見つめると、にこと笑った。


「あなた、そういうふうに笑うと悪魔みたいでミステリアスで、とっても素敵よ」


 ぽかんとする悪魔をよそに、踵を返してまたスタスタと歩き始める。


「わたくし、魔僧と呼ばれる人とお友達だったけれど、とってもいい人だったわ。あなたもいい人だっていうのもちゃんと知っているんだから」


 そうして歩きながらぶつぶつと文句を言うのだった。


 やがて二人は砂でできた背の高い塔に到着した。強く光っているのはこの塔の壁面に埋め込まれた珊瑚が一斉に光を発しているからだ。気がつけば、辺りに人がいなくなっている。

 塔には円形の扉が一つ、ついている。扉には桜色の貝殻の取っ手がついていた。


 ここに何かあるのかしら、とマリアが塔の扉に手をかけようとしたその瞬間、エスがマリアのもう片方の手を強く引いて、マリアを扉からひき剥がした。


「エス…?」

「なにか嫌な予感がします」


 エスは近くに落ちている拳大の貝を拾うと、先ほどマリアが掴もうとした扉に向かって投げつける。その途端、扉だと思っていたものが大きく開き、その貝を噛み砕いた。


「これは、…大きな貝だ」

「え…?」

「この城を根城にしているんだと思います」


 扉部分がムシャムシャと貝を咀嚼する。


『なにをする?』


 それから低く重々しい声が、二人を詰問した。

 エスが答える。


「ここに『人魚の歌声』を探しに来た。なにか知らないか?」


 大きな口が不快そうに聞き返した。


『魂の安穏を奪うつもりか?』

「どういう意味だ?」

『分かっていないのか…。食事の邪魔をするお前になど教えるものか』


 それきり、口は開かなくなってしまった。

 どうやら不興を買ってしまったらしい。エスは近くから石を拾うと、立て続けに投げかけた。貝は三発目まで耐え、四発目でとうとう海底を揺らすような大声を上げる。


『しつこいな! 人魚に聞け! 人魚たちなら、この近くの海藻の森にいるはずだ』


 しょうがないからエスとマリアは、周囲を探すことにした。貝の示唆した方へ移動すれば、程なくして、いつもマリアを見下ろしているエスの身長を優に越す海藻がたくさん生えている場所へたどり着いた。


「人魚さん」


 揺蕩う森の前で、マリアが声を上げると、ひょいと出てきた者がある。海藻のように長い緑の髪をした、下半身が魚の女性的な顔をした人だ。マリアは昔絵本で見た人魚にそっくりだと、その美しさに見とれた。


「陸のお客人。何か御用?」


 くるくるとマリアとエスの周りを回る。

 ひらひらと動くヒレを見て、やっぱり魚のようにぬるぬるしているのかしら、とマリアは興味を持った。


「『人魚の歌声』を分けてもらいたい」


 エスの言葉に、人魚の動きがピタリと止まる。


「どうして?」

「必要なんだ」


 人魚はしばらく考え込んだ後、「いいよ」とあっさり言った。


「ほんとうに?」


 目を見開いたマリアに「ちょっと待ってて」と言うと、森に引き返し、しばらくしたら手に剥き出しのナイフを掴んで戻ってきた。マリアは人魚が無造作に刃の部分を掴んでいるのを見て、自分のことのようにハラハラする。


「ほら、これ」


 それは、真珠層でできた細身の小型剣だった。

 人魚から受け取ってマリアはホッと息をつく。


「でも、頼みごとを聞いてくれない?」

「なにをすればいいの?」


 人魚は長いまつ毛を瞬かせると言った。


「こっちについてきて」


 長い尻尾をはためかせて、森の中へと進んでいく。マリアとエスは顔を見合わせ、ついていくことにした。海藻をかき分け、前へ進む。


 やがて、ぽっかりとなにも生えていない砂地の場所に出た。

 そこには難破船が転がっており、そこのマストの部分に一人の人間が縛り付けられていた。人魚がその人影を指し示して言う。


「この亡霊をその剣で刺して」

「人殺しなんてできないわ!」


 マリアが抗議すると、人魚は不満そうにくるくると回る。


「人殺しじゃないよ。生きてないもん。だいたい、こいつ、外から来たんだよ。君たちが連れ込んだんだろ」

「だからって、刺すわけがないでしょう!」

「刺したって死なないよ、亡霊は。ただ、この場所に入ってこれなくなるだけ」

「もう、聞いてられない。解放するわ!」


 マリアは難破船を駆け上る。水の中だからこそ、簡単に体が跳躍する。この哀れな囚人を解放しようと思ったのだ。ところが、マストに縛り付けられ気絶した男の顔を見て、戦慄した。手の中からナイフが滑り落ちる。


「ヤコフ…!」


 思わず後ろに退こうとして滑り落ちたマリアを、追いついたエスが受け止める。


「大丈夫ですか?」


 覗き込んでくる顔に安心して、マリアはエスにしがみついた。


「わたくし…、どうしたら」

「マリア、マリア? どうしたんですか?」


 エスがマリアの肩を軽く揺さぶるが、マリアの唇は真っ青になり、声は形にならない。下に俯くと、段差の途中でナイフが引っかかっているのが見えた。マリアはエスを振り払うと、そのナイフを拾い、戻ってくる。


「マリア?」


 マリアは両手でそのナイフを握りしめながら、ジリジリと気を失っている男に近づいた。


「ダメよ」

「え?」

「あ…、あ…この人は、生きていてはいけないの」


 両手を頭上に持ち上げて振りかざしたマリアを止めたのは、エスだった。彼は片手でマリアの動きを止めると、もう片方の手でナイフを抜き取る。

 それから優しく、


「だめですよ」


 と諭した。


「で、でも。このひとを殺さないと、み、みんなが…」


 震えるマリアをそっと押しとどめる。


「そのために、おれがいるんです」


 さらりと言い、放心するマリアを放し、捕らわれた男の首すじを掻き切った。水の中に濃い赤がぼやけて混ざり合い、広がっていく。その一端がマリアの鼻先に触れそうになり、マリアは慄いた。


「い、いやあああ」


 それからパタリと気絶したのだった。

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