8

 エスの傷に関して厳格な判定を下していたマリアがようやく首を縦に動かしたとき、彼らは出発前に荷物を買い込む事にした。

 エスはもともと着ていた襤褸を捨て、質素で真新しい綿の服を着た。


「似合ってるわ」


 昔した着せ替え人形みたいだわ、と心の中で思いながら、マリアは笑顔で頷く。


「あの、スカーフで頭を隠してもいいですか?」


 おずおずと躊躇いがちに願うエスに、


「そのツノ、素敵なのに」


 そう考えなしに発言してから、先ほどの広場での様子を思い出し、いやな思い出があるのかもしれない、と思い至った。


「もちろん、好きにすればいいわ」


 それから彼らは街に出て、露商や商店で買い物をした。マリアは街に出るのが好きだった。古くさくて、理想的で、かわいらしい街。最初は人の奇抜さに注意を引かれて、あまり気をつけていなかったけれど、たくさんの女性がパンツ姿で出歩いている。鞭打ちなんてなければ、本当に夢の世界だと信じていたかもしれない。


「トカゲネコの尻尾ってなあに?」


 マリアはエスがなにに使うのか分からない鈍い色の石ころを一つ一つ確かめているのを眺めながら、尋ねた。

 エスは手を止めて、マリアに向く。


「南には大きな砂漠地帯があります。そこにトカゲネコという希少動物がいます。その尻尾のことじゃないでしょうか」

「トカゲネコ?」

「背中に大きなトゲを生やしたネコによく似た生物です。とても臆病な性質だと聞いたことがあります」

「ネコじゃないのかしら?」

「申し訳ありません。わかりません」


 エスの謝罪にマリアは少し唇を尖らせた。


「あなたは砂漠に行ったことはある?」

「はい、魔術師だった頃に」


 マリアは薄く微笑んだ。


「わたくし、砂漠を見たことないの。どんなところなのかしら」


 旅の準備を終えた二人が砂漠めがけて出発したのは、それからさらに二日後の事だった。すっかり男装にも慣れたマリアは、自分の五倍ほどもの大きさの鳥に乗って移動すると聞いて、心を躍らせた。

 街の郊外の牧場で借り受けた長距離移動用の旅行鳥を前に、マリアは両手を広げて芝の上で小躍りする。大人しく騎乗されるのを待つ鳥の手綱をエスが抑えている。


「ねえ、ねえ。エス、見て。すごいわ。大きな鳥よ」


 エスがあまりのはしゃぎように思わず微笑んだのを見て、ますますマリアは喜ぶ。


「エスも嬉しいのね。初めてあなたの笑顔を見たわ! すごい、今日はいい日ね」


 そんなマリアにエスは思わずからかいを口にしていた。


「そんなにちょこまか動いていると餌だと勘違いされますよ」


 その途端、ぴたりと動きを止めた少女に、エスはふふっと息を吐き出して笑った。その反応にウソだと気付いたマリアが少しむくれて、やっぱり笑った。


「ひどいわ」


 ゴーグルを装着して、荷物ともども二人が鳥の背に乗り込むと、鳥が翼を広げて、滑走を初め、それからふわっと空へ浮き上がった。上昇気流とともに、彼らは高く高く舞い上がる。

 やがて高度が安定し、それに伴い飛行も安定した。


「すごいわ!」


 その日、何度目か分からないほど繰り返された言葉。風を物ともせずに、マリアが笑う。


「マリア…さまは、空を飛ぶのは初めてですか?」

「そうなの! アメリカで十年前に航空機の飛行に成功したって聞いて夢のようだなって思っていたのよ」

「夢…ですか?」

「人はずっと空飛ぶことを夢見てきたのだもの。空をはばたける翼は自由を意味するのよ」


 ふいに、マリアは賢者の書物庫で見た悪魔の絵を思い出した。あの絵の悪魔にもたしか、羽が生えていた。


「エス、あなたに翼はないの?」


 マリアのはずんだ声に、エスは意表を突かれたようだった。


「おれ、ですか? ありません」

「あら、どうして?」

「どうしてと言われても…」


 心底困ったような様子は、本当に心当たりがないようだった。どうやら元からないらしい。

 マリアの歓声は、彼女が疲れて眠りに落ちるまで続いた。

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