第2話『出勤』


 ミリテは流しで手早く歯を磨き、髪をブラシで梳いた。

 そして、部屋の半分のスペースを埋め尽くす物干しスペースから黒の巻きスカート引っ張り出し、寝間着代わりに着ているだぶだぶズボンと履き替えた。次に司書の制服である緑のチュニックを手に取り着替え、その上からお腹に太い革ベルトを巻いて押さえつけた。最後に司書の証である金属装飾の付いたワンドをベルトのホルダーへ差した。


「よし!」


 大きな肩掛けバッグを抱え今日、返却分の本を詰めていく。そして、部屋を出て中庭を突っ切り外への扉を開けた。

 昇ったばかりの暖かい朝日が差し込んでくる。思わずミリテは目を細めた……。


 ミリテは扉の脇の隙間から自分の自転車を引っ張り出して跨った。自転車と言ってもそれは全て木製で出来ており、自転車を漕ぐ為のペダルも付いていない。勿論チェーンとペダルも付いた自転車は存在しているが、それは金属で出来ており高価な代物なのだ。とても今の給料で買うことは出来ない。なのでミリテは跨ったまま地面を蹴った。タイミングよく地面を蹴る事でその自転車はドンドン加速していく。軽快なスピードで石畳の上を走り始めた。


 朝のきりりとした風を頬に受けミリテは卸市場のある北へと進んだ。南の方へ目を向ければ工場区に立ち並ぶ煙突が見えている。夜明け直後だというのにすでにそのいくつかの煙突からは白い煙が立ち上っている。夜勤明けだろうか? ご苦労様です……。


 すぐに卸市場のある大通りが見えてきた。

 通りのお店が元気よく開店準備をしている。八百屋が大声で話しているのが聞こえてくる。競りを終えたばかりの新鮮なお魚に新鮮なお野菜。パン屋は既に窯焚きを始めている様だ。辺りに焼き立てパンの美味しそうな香りが漂っている。その香りを存分に楽しみながらミリテは通りを走り抜けた。


 通りを途中で左に曲がり図書館のある北西を目指す。少し進むと水路を渡る橋へと辿り着いた。橋は船が下を通れるように高い位置に設置されている。ミリテは自転車を降り、手で押してスロープを上った。


 丁度、橋の下を激しくシューシューと音を立てて積み荷を満載した蒸気船が通り過ぎていく。液体燃料を使用するエンジンも最近では増えてきたが安価な固形燃料を使用できる蒸気機関はまだまだこのウルテミナにも多い。特に利益率を優先する商船の場合、帆走と蒸気機関とを備えた船が多いのだ。

 一瞬、蒸気の湯気で視界が白んだ。


「もう……」髪を抑えミリテは思わず愚痴をこぼした。


 その時、丘の上に立つ風の神殿から朝を告げる鐘が鳴り響き始めた。いつものミリテであればこの鐘の音で目を覚まし慌てて家を飛び出すのだが、今日は十分に余裕があるようだ。歩きながら荘厳に響き渡る鐘の音に耳を澄ませアンニュイな表情を作った。


「爽やかな朝です」その口が呟いた……。


 時間に余裕のあるミリテは、いつもならブレーキも掛けずに一直線で下るスロープを、今日は手で自転車を押しながらおしとやかを装って下っていった。


 水路を渡り小さな商店街を抜けるとアパートの立ち並ぶ住宅街へと差し掛かる。

 レンガ造りの建物と木造白壁造りの建物が半々くらいの比率で並んでいる。この辺りはあまり高い建物は無く精々が三階建てである。実を言えば価格的にも平均的な住宅が多く、図書館で働く職員や周辺に建つの学校へ通う学生たちも多く住んでいる地域である。


 大通りには蒸気バスと市場で荷を積み込んだ馬車が走り、学校へ向かう学生たちが歩いている。中にはミリテと同じ様なキック式の自転車に乗っている者もいる。寒くなってきた所為で学校指定の黒のローブを着ている学生も多い。ミリテも学生たちに混じり先を急いだ。


 大通りを北へと曲がりもう一度水路を渡る。長いスロープの大きな橋を渡る。

 この周辺は学校区になっている。様々な教育機関や研究機関が集まっている区画である。公園の様な広い敷地に大きな石造りの建物が見渡せる。学生たちは自分たちの学舎へ向かい散り始めた。


 道の先に大きな円形の建物が見えてきた。

 ミリテの仕事場であるウルテミナ大図書館・大樹の塔である。

 その巨大な円形球戯場の様な建物の屋上には様々植物が植えられ、遠目に見るとそれがあたかも一本の木に見える事から大樹の塔と呼ばれるようになったそうである。今は冬に向かってそれらの葉が色付き始めている。


 ミリテはいつもであれば汗だくになって駆け上がる最後の坂道を、今日は自転車を押してゆっくりと上って行った。


「おはよう、ミリテ。今日はやけに早いんだね」


 背後から先輩司書のトーワが声を掛けて来た。三十台前半の彼は既婚者で一つの部署を任される班長をやっている。


「お早うございますトーワ先輩。今日の私は早いのです」無い胸を張った。

「どうしたの、借りて帰った本が面白くなかった?」

「いえ、そんな事はありません。ただ今はお金が無くてあまり本が借りられないのです……」

「あれ、今日って五十五週木の日だよね。給料日まで後五週もあるよ。大丈夫」


 ちなみにこのレグドラド大陸では一年の始まりは最も日の短い冬至の日に定められており、五日(木の日・火の日・土の日・金の日・水の日)を一週とし、七十三週で一年となっている。そして給与の支払いは大体の職場で十週(五十日)ごとに支払われる事になっている。


「ぜ、ぜんぜんよゆーです……。だ、だいじょうぶです……」青い顔をしたミリテが答える。

「そっか。気を付けるんだよ」

「はい……」


 そう声を掛けたトーワは気落ちしているミリテを尻目に元気よく坂道を上って行った。その後を暗い表情をしたミリテが自転車を押して付いて行く。

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