ウルテミナ

永遠こころ

大樹の塔

第1話『ミーリテリアン・ローアン』


 レグドラド大陸の南の端。大洋に突き出す半島に自由交易都市ウルテミナは存在する。

 人口約三十万人。この大陸で自治権を与えられている交易都市の中では最大の街である。

 南方洋から引かれた大運河を街の中心に持ち、そこから張り巡らされた無数の水路が物流を担っている。そのため、ここは水の都と呼ばれ観光地としても有名である。


 南端の岬にはこの街のシンボルである巨大な海洋神像が据えられ、海を行き交う船を見下ろしている。街の北の丘には旅の加護を祈る風の大神殿がある。その大神殿の西側にこの街のもう一つの名所が存在する。


 ウルテミナ大図書館・大樹の塔。


 古代の超技術を用いて建てられた巨大な地上五階層・地下五階層の円形の建物。金属の様に固められた継ぎ目のない石の壁に叩いても割れる事の無い硬質なガラスがはめ込まれている。このウルテミナが交易都市となるはるか以前からこの場所に建っていたとされる古代遺跡である。

 

 現在この建物は温度調整のため屋上に庭園を設け植物を植えられ、図書館として利用されている。

 その蔵書数は約百万冊。レグドラド大陸中のあらゆる書籍が網羅されていると言われている……。



「うんんー……。ふぁ~」


 風の大神殿の南側に広がる交易市場の端の一角に建つ安アパートのまだ薄暗い一室で、図書館の新人司書として働くミリテは目を覚ました。本名はミーリテリアン・ローアン。ローアンは家名で無く父の名である。


「うう、寒い……」


 一旦目を覚ましたミリテだが、余りの寒さに再度毛布にくるまった……。


 季節はもう晩秋と言っても良い。

 ここウルテミナの気候は大きく分けて寒期である冬と暖期である夏に分けられ、その狭間に十日程の春と秋がある。暖期が終わると北からの寒流が流れ込み一気に気温が下がり始めるのだ。秋に入り既に五日が経っている。


 窓のすぐ下からは水路を行くポンポン船の音が聞こえてくる。これからイワシ漁に向かう漁船だろう。この季節のイワシは冬に備えて体が大きく成長し脂がのっている。今が丁度漁の最盛期なのである。


 やっとの事で毛布がもぞもぞと動き出す。

 毛布にくるまったままのミリテがベッドを降りて部屋の隅にあるかまどへと向かった。竈の上に置いてある着火器を手に取り慣れた手つきで先端に油綿を詰めた。棒をシリンダーへとセットして上から一気に押し付ける。そして、素早く棒を抜き取り藁に押し当て息を吹きかけた。

 ポッという音を立てて火が熾きた。

 この道具は空気の圧縮熱を利用したファイヤーピストンと呼ばれる着火器である。このウルテミナの家庭においては一般的に使われている道具である。


 さらにその火を藁束に移し竈へくべた。適当に小枝を折って放り込む。その上におが屑を固めた固形燃料を火バサミでつまみ置いて行く。

 小枝に火が移り、その火が固形燃料を燃やし始める。炎は次第に大きくなっていく。



「ううう……寒いです」


 火に当たりながらようやくミリテは包まって居た毛布をベッドの上に置き姿を現した。

 十代前半に見える小柄で線の細い女性である。実年齢は二十歳。寝起きのその肩口で揃えられた濃い栗毛の髪はボサボサであまり手入れが行き届いているとは言い難い。ベッドのサイドテーブルに置いてある木製フレームの眼鏡を手に取りかけた。


 彼女はいつも自分があまり発育が良くないのは自分が孤児院の出身の所為だと言っている。しかし、それは本当の事ではない。彼女の預けられた商業組合の孤児院の経営は潤っており、三食昼寝付きで時にはおやつにもありつけるのだ。市井の貧困家庭よりも余程待遇は良い。完全に自分の偏食の所為なのである。



 ミリテは鍋に水を汲み、竈の上蓋を火バサミで開きその上に鍋を置いた。

 棚から一昨日買ってきた雑穀パンを引っ張り出してまな板の上に置きナイフで薄くスライスした。小瓶からハニーマーガリンを小ベラで掬いパンに塗りつけた。そのパンをマーガリンを下にしてフライパンに並べ竈のもう一つの上蓋の上に置いた。

 棚からコップを取り出し塩を一つまみ入れる。湧いたお湯を半分まで注ぎ、そこへ昨日買ってきた羊乳を注ぐ。

 以上でミリテのいつもの朝食の完成だ。パンを頬張り塩ミルクを飲む。


 たまにこのメニューに目玉焼きやチーズが加わる事もあるが普段はそれらを買ってくることはほとんど無い。実を言えば市場に暮らしているので小魚の類で有ればいくらでも安く手に入るのである。しかし当のミリテは魚料理を苦手としている。特に料理する事が駄目なのである。鱗を剥いだり内臓を抜くのが嫌なのである。旬の魚が食べたいときには近くの食堂に行って食べるのだ。


 朝食を終えたミリテは流しで簡単に食器を洗い、部屋を出てバケツを持って中庭にあるトイレへと向かった。

 この安アパートは女性専用でトイレと洗い場は共同となっている。


「あら、おはようミリテ。今日は早いのね」


 トイレの横の洗い場に隣の部屋に住み、市場で売り子をやっている三十代女性のオリスが顔を洗っていた。本名はオルテリス・オーカード。激しいほどの胸囲の格差だ。薄手のシャツの襟元から今にも零れ落ちて来そうなほど揺れている。


「おはようございます、オリスさん。別に早くはないです。本当はこの時間に起きないといけないのです」

「いつも遅くまで起きてるからそうなるのでしょ」

「だっていつもは本が楽しすぎて、つい読みふけってしまうのです」

「夜のランプ代も馬鹿にならないんだから早く寝なさい」

「でもーー……」少女の様に顔を膨らませミリテはそのままトイレに入っていった。


 トイレを済ませたミリテは洗い場で顔を洗いバケツに水を汲んだ。重くなったバケツを持って部屋へと帰る。踏み台の上に乗り蛇口の付いた水がめに水を注いだ。このアパートの水道は洗い場の一か所だけにしか無い。

 元々このアパートは市場で働く女性が共同生活をするために建てられたもので、不便のある分家賃は格安の一日銅貨一枚と言う価格である。ちなみに銅貨一枚は雑穀パン一つが買える値段である。


 何故ミリテが図書館から離れたこの安アパートで暮らしているかと言えば、それは本を借りる為である。この大陸において本はまだまだ貴重品で表紙の付いた重本を借りる場合は銀貨一枚を保険料として支払い、返却時に銅貨九枚を返してもらうシステムなのだ。本を一冊借りるのに銅貨一枚を支払うのである。勿論これは図書館で働く司書の為の賃貸料金で本来で有れば銅貨三枚が必要となる。


 そう言った訳でいつも本を大量に借りてくるミリテはつねに貧困に喘いでいる。そう、彼女は重度の活字中毒者なのである。

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