第2話
▼草津の湯 一井
【前のお話とちょうど頃合いを同じくして、今度は上州草津の湯でのことでございます。ここにも気心知れた仲の三人連れが、湯につかりながら何やら。もとから人気のある温泉地草津で、ここ一井も大きな賑わいを見せております。また眺望絶佳の誉れ高く、ゆうべは早くも初雪がちらついたそのあくる日、人々が温まる湯殿からは冠雪の山の頂、空の青、そしてそれさえも映さない緑の湯畑が目の前に広がります】
湯治客・イ 「いやぁ、極楽極楽。お湯につかって、疲れも憂いも吹き飛ぶとはこのことですな」
湯治客・ロ 「おやおや、憂いとは、大きく出ましたな。いやなに、極楽にいる心地とは同感同感」
湯治客・ハ 「ふひぃーーー」
湯治客・イ 「はは、言葉にならないように見える。くつろいだ吐息をまた盛大に」
湯治客・ロ 「はは、私も真似して。ふひぃーーー。これは良い」
湯治客・ハ 「いい湯にはどんな美辞麗句も不要。名湯につかり、ただ天を仰ぎ見る」
湯治客・イ 「美辞麗句、名湯、天を仰ぎ見る、とは、矛盾した言葉のあやもまた面白い」
湯治客・ロ 「ふひぃーーー」
湯治客・ハ 「山の端はおしなべて初雪の装い。耳には湯畑から流るる水の音。鼻には山風が運ぶ硫黄のにおい。しゃべりだすと褒める言葉が止まりませぬ」
湯治客・イ 「言葉の山には驚いてしまいますな」
湯治客・ロ 「もう何も言わずに湯につかって時を過ごしましょうぞ」
湯治客・ハ 「ふひぃーーー」
湯治客・イ 「ふひぃーーー」
【この三人、どこから来た湯治客でしょうか。三人仲良く草津の湯を楽しんでおります。寒さがいっそう強まってきた一日。やや強く吹く山風が熱いお湯につかる身にちょうど心地よい風情。天下泰平をどこかの浮世絵作者が描いたよう。ししおどしの音が小庭から響いてきたその時、あたかもその音を合図にしたかのように、一人が小さくつぶやきます】
湯治客・ハ 「ま、草津の湯も良いですがね。あたしはね、まぁこれに勝るとも劣らないのは豆州熱海の湯かと思いますね」
湯治客・ロ 「へぇ、熱海?」
湯治客・イ 「行ったことがあるのですかい?」
湯治客・ハ 「ええ、三年前ですかな。季節は秋の頃でしたか。ちょいと呉服の商いで」
湯治客・ロ 「見識が広くていらっしゃる」
湯治客・イ 「でもね、よく温泉番付なんてものを見ますけどね、草津が大関、熱海が何でしたっけ?」
湯治客・ハ 「別格、別格」
湯治客・ロ 「へぇ。ふひぃーーー」
湯治客・イ 「効能やら何やらも違うんでしょうねぇ」
湯治客・ハ 「熱海は海の潮が溶けていて、昔から血のめぐりに良いと言われてますな」
湯治客・ロ 「へぇ、じゃあ、こちらは?」
湯治客・イ 「硫黄はもちろんのこと、少し赤がねが混じっているようにも」
湯治客・ハ 「ははは、見た目には分からぬかもしれませんよ。江戸じゃ熱海のほうが、なんて言われておりますけどね」
【三人がとりとめもなく、そのくつろぎきった心地でだらだら話していると、湯船の湯気の向こうから何やら威勢のいい声と酒の臭いが届きます】
湯治客・ニ 「やいやい、さっきから何を知ったようなことを言いやがる。草津より熱海のほうが上かのような口ぶりじゃねぇか」
湯治客・ハ 「ふ、ふひぃーーー」
湯治客・ロ 「・・・・」
湯治客・イ 「ちょっとちょっと、お二方、お待ちを」
湯治客・ニ 「黙って聞いてりゃ好き放題に」
湯治客・イ 「いや、その、そんな、上とは言っていませんし、どちらも素晴らしいと」
湯治客・ニ 「おう?まだ褒めるか。それだけで喧嘩を売ってるね」
湯治客・イ 「まぁまぁ、落ち着いて」
湯治客・ニ 「俺は生まれ育ちは白根神社の鳥居横。なりわいは横手山の猟師だ。ここ草津の湯には、生まれてこのかた、ずっとつかってんだ。それを馬鹿にするならいつでも相手になってやる」
湯治客・イ 「いいや、滅相もない。とんだ勘違いで。あの二人もまったく同じ。誤解でも招いてしまったなら、この通り、本当に申し訳ありません」
湯治客・ニ 「こちとら腹の虫はおさまらねぇが、そう謝るならもういい、やめだ。文句があるならさっさと上がりな」
【一人がこうして平身低頭、謝っているなか、他の二人は湯船から首を出したまま、そおっとそおっと出口のほうへ。そうして、男の一喝と同時にすぐさま、がばっと湯から出て、しぶきも拭かず浴衣も取りあえず一目散。最後の一人もすぐ後に続きます。三人にとってはとんだ湯浴みになってしまったようで。え?これじゃあ前のお話とそっくりですって?地名と海・山を変えただけ?これはいったいどうしたことで。仔細は次回のお話にて】
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