【落語台本】熱山(あたやま)

紀瀬川 沙

第1話

▼熱海の湯 古屋


【ここは、つい先日、温泉地熱海に開業した温泉宿であります。もとから人気のある温泉地熱海で、かつ、開業前から眺望絶佳の触れ込みで盛んに喧伝されたものですから、今日も温泉を目当てに来た大勢の人で賑わっております。眺望絶佳の触れ込み通り、秋深まった季節に人々が温まる湯殿からは真っ赤に色づいた紅葉をはじめとする錦秋の山、秋晴れの青を映した大海が目の前に広がります】


湯治客・イ  「いやぁ、極楽極楽。お湯につかって、疲れも憂いも吹き飛ぶとはこのことですな」

湯治客・ロ  「おやおや、憂いとは、大きく出ましたな。いやなに、極楽にいる心地とは同感同感」

湯治客・ハ  「ふひぃーーー」

湯治客・イ  「はは、言葉にならないように見える。くつろいだ吐息をまた盛大に」

湯治客・ロ  「はは、私も真似して。ふひぃーーー。これは良い」

湯治客・ハ  「いい湯にはどんな美辞麗句も不要。名湯につかり、ただ天を仰ぎ見る」

湯治客・イ  「美辞麗句、名湯、天を仰ぎ見る、とは、矛盾した言葉のあやもまた面白い」

湯治客・ロ  「ふひぃーーー」

湯治客・ハ  「山の端はおしなべて錦秋の装い。耳には海へ流るる川のせせらぎ。鼻には海風が運ぶ潮の香り。しゃべりだすと褒める言葉が止まりませぬ」

湯治客・イ  「言葉の海には驚いてしまいますな」

湯治客・ロ  「もう何も言わずに湯につかって時を過ごしましょうぞ」

湯治客・ハ  「ふひぃーーー」

湯治客・イ  「ふひぃーーー」


【この三人、どこから来た湯治客でしょうか。三人仲良く熱海の湯を楽しんでおります。涼しさが寒さに変わり始めた秋の一日。やや強く吹く秋風に遠くの梢がさらさらと心地よい風情。天下泰平をどこかの浮世絵作者が描いたよう。ししおどしの音が小庭から響いてきたその時、あたかもその音を合図にしたかのように、一人が小さくつぶやきます】


湯治客・ハ  「ま、熱海の湯も良いですがね。あたしはね、まぁこれに勝るとも劣らないのは上州草津の湯かと思いますね」

湯治客・ロ  「へぇ、草津?」

湯治客・イ  「行ったことがあるのですかい?」

湯治客・ハ  「ええ、三年前ですかな。ちょうど今と同じような秋の頃でしたか。ちょいと糸の商いで」

湯治客・ロ  「見識が広くていらっしゃる」

湯治客・イ  「でもね、よく温泉番付なんてものを見ますけどね、熱海が別格、草津が何でしたっけ?」

湯治客・ハ  「大関、大関」

湯治客・ロ  「へぇ。ふひぃーーー」

湯治客・イ  「効能やら何やらも違うんでしょうねぇ」

湯治客・ハ  「草津は硫黄の酸が溶けていて、昔から肌に良いと言われてますな」

湯治客・ロ  「へぇ、じゃあ、こちらは?」

湯治客・イ  「少し海の潮が混じっているようにも」

湯治客・ハ  「ははは、なめても分からぬかもしれませんよ。江戸じゃ草津のほうが、なんて言われておりますけどね」


【三人がとりとめもなく、そのくつろぎきった心地でだらだら話していると、湯船の湯気の向こうから何やら威勢のいい声と酒の臭いが届きます】


湯治客・ニ  「やいやい、さっきから何を知ったようなことを言いやがる。熱海より草津のほうが上かのような口ぶりじゃねぇか」

湯治客・ハ  「ふ、ふひぃーーー」

湯治客・ロ  「・・・・」

湯治客・イ  「ちょっとちょっと、お二方、お待ちを」

湯治客・ニ  「黙って聞いてりゃ好き放題に」

湯治客・イ  「いや、その、そんな、上とは言っていませんし、どちらも素晴らしいと」

湯治客・ニ  「おう?まだ褒めるか。それだけで喧嘩を売ってるね」

湯治客・イ  「まぁまぁ、落ち着いて」

湯治客・ニ  「俺は生まれ育ちは来宮神社の鳥居横。なりわいは網代の漁師だ。ここ熱海の湯は産湯から今までずっと使ってんだ。それを馬鹿にするならいつでも相手になってやる」

湯治客・イ  「いいや、滅相もない。とんだ勘違いで。あの二人もまったく同じ。誤解でも招いてしまったなら、この通り、本当に申し訳ありません」

湯治客・ニ  「こちとら腹の虫はおさまらねぇが、そう謝るならもういい、やめだ。文句があるならさっさと上がりな」


【一人がこうして平身低頭、謝っているなか、他の二人は湯船から首を出したまま、そおっとそおっと出口のほうへ。そうして、男の一喝と同時にすぐさま、がばっと湯から出て、しぶきも拭かず浴衣も取りあえず一目散。最後の一人もすぐ後に続きます。三人にとってはとんだ湯浴みになってしまったようで。続くお話は次回にて】

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