グロリアス

@asarose617

第1話

富士山の白い頭が2人の吐く白いもやの先に遠く霞んでいる。

14歳の冬。

2人で高尾山に登った。平日なのに沢山の老人達が楽しそうに登っていく。僕らもその後をついてゆっくりと何グループにも抜かれながら一号路を歩いていく。取り留めのない話をしながら。彼女はもうすぐ引っ越してしまう。おばあちゃんのいる母の田舎に。

これは恋心なのか男女の友情なのかハッキリと分からないまま、僕は彼女と別れる事になった。彼女はいつでもキラキラ輝いていた。小学生の頃から人前に立ってはみんなを引っ張っていた。いつだったか「将来何になりたい?」というキラキラ輝く君の瞳に、将来の事なんて何一つ考えていなかった僕は漠然と「世界を感じたい」と答えた。

君は真っ直ぐ前を向いて「先生になりたい」と答えた。あの横顔を僕は今もはっきりと覚えている。


彼女が僕の前からいなくなったその日、彼女の輝きは無くなっていた。悲しそうな彼女の顔。キラキラ輝いていない瞳。小さく丸まった背中。僕はその理由を聞くことが出来なかった。

ただ一言僕が言えた言葉は「手紙を送るから」という約束だった。

それから僕は毎月彼女に葉書を送った。彼女からの返信は無かった。


高校生になり進学を考えないといけない僕が思い出した言葉「世界を感じたい」、僕は外語大に進学した。彼女はどうしているだろうと思いながらも、長い間返信が来ない事が若い僕には自信を失わせるのに十分だった。会いには行けなかった。


外語大での生活は何一つ僕の生活を輝かせてはくれなかった。勉強は出来たが、何の授業にも面白みを感じないのだ。

そんな僕に父は車を買い与えた。祖母は祖父の形見だと言って古い一眼レフカメラをくれた。青春を持て余した扱いづらい子どもにはお金と物を買い与えておけばいいという家の家族のおかげで、不自由を感じた事は無い。ただこれが僕の何事にもやる気を持てない性格を作っているとも思う。恨んでいないが、それ程依存もしていない形だけの家族だ。


大学最初の夏休み。車に必要な物とカメラを詰め込んで僕は旅に出た。

相棒は小学生の頃からの悪友。口は悪いが、馬鹿がつくほどのお人好しだ。

家は商店街にある寿司屋。学生時代は「おれは父ちゃんの後ついで板さんになる」と言っていたが、今は調理師の学校に行きながら三つ星シェフになるとのたまっている。

2人に目的はない。とにかく自分が感じた物を見て、フイルムにおさめて行った。見た事がない景色、会ったことが無い人。感じた事のない気持ち。それが大切だ。

ずっと話しかけてくる売店のおばあちゃん。売り物を次から次へと食べさせてくれる。仕舞いには夕飯まで。その日はその店の駐車場で寝た。朝は朝食のデリバリーまで。お返しは洗面所の電球を変えただけだ。それでもおばあちゃんは僕の手を小さくてしわしわの手で包み込んで「ありがとう」と言ってくれた。生まれて初めてこんなに感謝をされた。いや人と繋がった瞬間だった。

昔も何処かで感じたと思うが、果たしてどこだったか、覚えていない。

ふらっと入った薄汚れた食堂のカウンターの隅で平日の昼間から日本酒を飲むおじさん。僕らを見るなり人生について話し出した。「僕は社長だ。何十人の社員を動かしてきた。お金もね。でも社長の座を娘婿に譲ってからは名ばかりの会長職をやっているんだ。新入社員よりも仕事の出来ないね。でもお給料は良いんだよ。余計な事言われない為にね。悠々自適な老後だよ」と笑うその目に輝きは無かった。僕らにご飯を奢る事で、おじさんは久しぶりに人の役に立ったと喜んでいた。

ある戦国武将で有名な城の前で輝きに満ちた目をした小学生。彼は自分と武将との共通点を高々と話し、自分がいかに総理大臣にふさわしいかを熱弁していた。あんな幼少期を過ごした子が将来どんな子になるのか今の僕には分からない。でもあんな幼少期を送れる彼の事を僕は少し羨ましかった。

そして僕らと同じように旅をしている学生達。そんな彼らに僕らは少し煙たがられた。お金に困らず車で寝泊り出来るその姿を見て、僕らの向上心の無さが裕福さの賜物だとすぐに気づくのだ。バイトで貯めた少ないお金をやりくりしながら、バック一つで歩き周るギラギラした彼らの目は僕には刺さって痛かった。

その旅の中で僕は彼女の引っ越し先に立ち寄った。迎え入れてくれた母が話してくれた、引っ越しまでの日々。彼女の僕に対する気持ち。そして今の生活と恋。ショックだった。


北海道では牛を眺め、竹富島では水牛に乗り、自由気ままに生きる猫に話しかけ、人間以外にも色々な生き物に関わった。カメラのフイルムと僕の心が満タンになったのは言うまでもない。「世界を感じたい」大学2年にあがる時には僕は大学を休学し、バック一つを持って世界に出て行った。僕にもあのギラギラした目があるのだろうか?


2年後僕の心がフル充電され目標が出来た頃、日本に戻ってもう一度学生を始めた。あの悪友は銀座の寿司屋で板前修行をやっていた。今の夢は実家の寿司屋でミシュランを取る事。相変わらずの馬鹿だが、あいつなら出来るんじゃ無いかと思ってしまう、そんなあいつの目は輝いてた。でも今の僕はそれにも負けない輝やきがあるはずだ。バックパッカーだった2年間を留学として捉えてくれる外語大のおかげで学生時間は残り少なかった。この時間で僕は未来を作るんだ。沢山撮りためた写真をあらゆるコンテストに出して実績を作った。もちろん外国語の勉強も怠らない。僕はカメラマンとして通訳として会社に就職し、世界を飛び回る事になった。何処でも良い。何処にでも行くんだ。輝きの為に。







父は小さな工場を経営していた。俺はロケットの部品を作っていると何時も自慢していた。そんな父を私は愛していた。父の様子が変だった事は子どもながらに感じていた。日に日にやつれていく父。いなくなっていく従業員。自分の人生が変わる予感を私は感じていた。


14歳の冬。彼と高尾山に登った。私は彼が好きだった。彼が私を好きかどうかは分からない。でも高尾山に登りたいという私の言葉を快く受けてくれた。デートには程遠いその日の2人を私は忘れられない。あの日かすかに見えた富士山に向かって「綺麗だな」と呟いた彼の優しい言葉に私はもう一度恋をした。

彼の実家は裕福で市立の中学校に来たのに驚いたが、彼が笑って言った「中学受験とかめんどくさいじゃん」という言葉の裏に家族への反抗心が垣間見えた。勉強もスポーツも程よく出来るのに、それをひけらかさないその態度にファンは多かった。でも彼のそのやる気の無さは、人生に対する諦めだと思っていた私は、彼に「将来の夢は?」と聞いた事がある。2回。小学生の時には「世界を感じたい」と言ったその顔に戸惑いを感じたが、富士山を見ながら答えたその時は怒りを感じた。思春期独特の反抗心だったのかもしれないし、同じ事を聞いた私への苛立ちだったかもしれない。自分の将来への不安と、彼自身の不安がシンクロして見えた。


それからの2ヶ月は怒涛の日々だった。父が工場で血を吐いて倒れた。そのまま入院したが、目を覚ます事なく父はこの世を去った。お通夜に葬式。納骨に四十九日。全てが終わった頃、母はすっかりやつれていた。工場の借金は父の保険金で賄えたらしい。父方の祖母が申し訳なさそうに話してくれた。そんな祖母に別れを告げて私は母の田舎に行く事になった。私の人生が目まぐるしく動く。

彼の目が見れなくなっていたのはその頃だ。彼は何不自由無く暮しているのに、人生に不満を感じている。彼は好きだが、同じくらい苛立ちを感じているのだ。

引っ越しの日彼は私の顔を一生懸命覗き込みながら「手紙書くから」と言った。

毎月送られてくるそのハガキに返事をしない事が、私のちょっとした復讐だった。

会いたければ来れば良い!

そんな私の気持ちを踏みにじるように彼は来なかった。


毎月送られてくるハガキの様子が変わったのは、実家を出て保育の専門学校に通っていた頃。バイトに明け暮れていた夏休みを終えて直ぐに来たのが、自分で撮っただろう少し下手くそな景色の写真だった。そこは私の実家。母が送ってくれた食材と共に入っていたそのハガキと母からの手紙には、彼が訪ねて来た事が書かれていた。やっと来たか。でももう遅い。わたしには次の恋がある。それを知らせない事も私の復讐。



保育の学校を卒業し私は保育士になった。学生時代に付き合っていた彼は、浮気が発覚して別れた。本当に男というのは信じてはいけない。甘い言葉を吐く男は特に!

あの人からのハガキは今も続いている。私の田舎のちょっと下手くそな写真から、彼が訪ねれただろう田舎や外国の写真が送られてくる様になった。私は毎日の生活に追われているのに、本当に良い身分だ。怒りを感じながらも自分の知らない世界を感じさせる彼の目が毎月楽しみになっていたのだ。私の心の支えである。今も昔も。

心を重ねたわけじゃない、体を重ねたわけじゃない。それでも彼は私にとって特別な存在だ。

会いたい。あの目に見つめられたい。

私はもう他の男に心を許す事は無いだろう。

早く迎えに来て欲しい。そう大きな声で叫べば彼は来て来れるだろうか?



24歳。保育士になって3年。仕事は辛いけど楽しい。

子ども達が可愛いから。どんな事も頑張れるのだ。

プライベートは充実しない。

遊び回る同僚に誘われる事もあるが、どうしても新しい恋に踏み出す事が出来ないでいる。

私は輝いているだろうか?彼に会って誇れるぐらい。

夢は叶えた。でも誇れるものは何もない。

彼の名前を見つけるたびに、私は寂しさを感じている。

彼の写真はとて美しかった。彼の目も同じように美しいのだろう。

会えない。会えない。会えるはずがない。

私の復讐は失敗に終わった。



初めての年長児の担任のプレッシャーに押しつぶされそうになっていた頃、彼からのハガキにジブリの映画に出て来そうな建物の写真が送られて来た。私はその写真に不思議と惹かれたのだ。私にはインターネットという強い見方がいる。彼の目で見た物を、私にも少しばかり感じられるのだ。

ミーソン遺跡という名の場所だった。彼と毎日の様に会っていた頃、良くジブリの映画について討論をしたのを思い出す。あんなに冷めた目をしていた彼が一番好きな映画は「となりのトトロ」だったのを思い出す。私はそれを可愛いと感じ、私しか知らない彼の秘密だと思っていた。そんな私の大好きな映画は「雲の上のラピュタ」だ。あのラピュタの中に行ってみたいと夢物語の様に語ったのを覚えている。そんな私の為にこの写真を送って来たのではないか。彼の私への想いを感じるには十分な物だった。



小学校時代に活発だった私は何の物怖じもせず人の前に立っていた。そんな私に担任の先生は率先して学級委員長を任せてくれた。持ち前の明るさと愛嬌で私は、上手くやっていたと思う。そんな私の様子が気に入らなかった一部の女子によって、陰険ないじめが始まったのは冬の頃だった。靴を隠されて寒い中を下履きで校庭を歩いていた時、彼が薄汚れた靴を手にして校門で待っていた。女の子達が学校の裏にある焼却炉に靴を隠している所に遭遇し、その中から探してくれたそうだ。彼も全身が薄汚れていた。顔についたススに吹き出してしまうと、片眉を上げて少し困った顔をした。彼のそのクセが大好きだと思った。靴を受け取ろうとして彼の大きな手に触れると、本当に冷たかった。その冷たい手を両手で包んで小さな声で「ありがとう」と呟いた。彼に恋をしたのはこの時だと思う。この事があった後はどんなにいじめがあろうとも私は屈しなかった。苛めていた子も相手にされないと悟ったのか、私に関わるのをやめた。私は彼との会話を楽しんだ。彼の好きなもの、嫌いなもの全て知りたいと、とにかく質問攻めにした。そんな時にはいつも決まって彼の癖がでる。その困った顔も私の小さな楽しみだったのだ。



彼との思い出を心の奥にしまっていたのに、あのハガキから波のように押し寄せてくる。それが切なくて、でも嬉しかった。彼の夢を見た朝はとても幸せだった。



それは年長児の担任にも慣れてきた秋の事。いつも明るく笑ってクラスの中心にいた男の子の元気がなくなった。運動会が近づくにつれて。

お母さんに最近の彼の様子を話すと、申し訳なさそうに話し始めた。お父さんの仕事の都合でベトナムへの移住が決まった事。そこに至るまでの夫婦喧嘩の数々。その子の様子が変わってしまうには十分な理由だった。お母さん自身も悩んでいたので、園への報告が遅くなった事を話してくれた。子どもに説明するには難しいと感じ「運動会が終わったら外国に行く。皆んなに会えなくなる」と伝えた様だ。とうとう彼は運動会に出たくないと言い出した。

どうやってその子の気持ちを盛り上げて行こうか迷っていた時、彼の写真を思い出した。数日前に金曜ロードショーで流れたラピュタにその子が心酔した事を思い出したのだ。

ラピュタの写真をその子に見せて「先生はこんな所に行ってみたい。英治君が行くベトナムにあるんだって。先生よりも先に行っちゃうの良いな」と。英治君はじっとその写真を見つめていた。その次の日、英治君は運動会に出たいと言い、練習にも積極的に参加し始めたのだ。あれで彼の不安が全て取り除かれた訳ではないが、子どもながらに前向きになったのだろう。冬が深まる頃、彼は異国に旅だって行った。あのラピュタのハガキを持って。旅立つまで毎日彼の様々なハガキを英治君に見せていた。「僕も世界を感じたい」といたづらに笑う彼の笑顔に私は少しだけほっとして、離れていても私を助けてくれる彼の存在が改めて大きく感じたのだ。

英治君とのお別れの前に子ども達と一緒に彼への手紙を書いた。ノートにまとめてクラスの集合写真も貼った。そしてあのラピュタの写真も挟んだ。英治君が私にこのラピュタの写真が欲しいと言った。彼への想いを確認したこの大事な写真を。手放すのは辛いが英治君の為に、このハガキを渡そう。



今日も私は彼の夢を見るのだろう。

私の方が彼を追い求めているのだ。

彼は何年も私にハガキを送り続ける。

どうして?私が好きなの?じゃあ迎えに来てよ!



ベトナムに来てこの国の景色や人、食べ物や空気に恋をした。この国での仕事は率先して引き受けた。観光ガイドの通訳をした時に訪れたミーソン遺跡。ここに来て彼女との会話を思い出していた。「ジブリ映画の中で何が好き?」と君は聞く。当時体が弱くて入退院を繰り返していた母に、メイやサツキの母の姿を重ねていた。でも僕には自転車を力一杯漕いでくれる優しい父はいない。その憧れからトトロが好きだった。そんな僕の気持ちを知らない彼女は可愛い子どもを見る様な目で僕を見ていた。

そんな彼女もラピュタに行きたいと空に浮かぶ雲を指差しながら答えていた。その横顔もキラキラ輝いていた。

この遺跡の写真を彼女に送りたいと思った時、僕は何年も蓋をしてきた彼女への想いが湧き上がってきた。

僕は彼女が好きだ。あの輝いた瞳をもう一度感じたい。

彼女にこの気持ちが通じるだろうか。

僕の気持ちよ届いてくれ。



何度目かのベトナム。新しくこの地に赴任する建設業者の社員の方の通訳件ガイド役の仕事だった。最初の数日は挨拶周りやら生活の準備やらで忙しい家族のサポート役だ。この家族には小学生になる子どもがいた。6歳とは思えない大人びた物言いに、当時の自分の姿を重ねていた。彼はいつも大事そうにノートを持っていた。そのノートは通っていた保育園の友達からもらった選別の品だそうだ。中々見せてくれないそのノートの中身が気になってきた頃、彼に一枚のハガキを見せられた。見覚えのあるあのラピュタだ。「ここに行きたい」言葉少なに話す子どもの手の中にある、僕のラブレター。誰に貰ったのか聞いてみると大事そうに抱えていたノートの一番後ろにあった保育園のクラスの集合写真を見せてくれた。その中彼女の面影を持った綺麗な女性が笑っていた。そうだあの最後の日から僕は彼女の顔を見ていなかったのだ。愛おしい彼女。何も変わらない。彼女は輝いている。会いたい。

でも会えない。


その子と過ごした数日。彼女の事を少しずつ話した。嬉しそうに聞く彼の笑顔が、全てを物語っている。彼女は僕がいない所で生きている。輝いているんだ。

またベトナムに来た時に遺跡に行こうと約束し、彼と別れた。




一か月後ベトナムに行く事が決まり、彼の家族に連絡を入れた。遺跡にいく約束を守りたいとお願いし、日程を決めた。電話口で話す英治の声は何処か楽しそうで、いたずら坊主の香りがしたのは僕の勘違いではなかった。そう理解した時に、僕の人生は再び動き出すだろう。




仲が良かったママとパパが喧嘩をする様になった。僕の前でも喧嘩をする様になった頃にはママの顔はいつものママと違っていた。常に目の間にシワが寄って、怖い顔をしている。またママとパパが喧嘩を始めた。今日は金曜日、明日はお休み。2人は話しに夢中で僕の事は目に入ってない。そんな時テレビに雲の上にあるというラピュタの話が流れてきた。「あそこに行ってみたい」と心から思った。此処ではない何処かに。

しばらくしてママの顔が怖い顔から、悲しい顔に変わった。そして僕に理由を話してくれた。遠い所に行かないと行けないらしい。運動会が終わったら。


僕は先生が好きだ。いつもキラキラした笑顔で僕を見てくれる。きっと先生も僕が好きに違いない。先生と離れたくない。僕はここにいたい。

「運動会に出たくない」と言った僕に先生は不思議な写真を見せてくれた。ラピュタみたいな建物が映った綺麗な写真。「私も行ってみたい」と話す先生の顔は少し寂しそうだった。僕が行く所にはラピュタがある。なら行っても良いかなと思えた。

だって先生には僕じゃない誰かがいる。

それから僕がベトナムに行くまで先生は沢山のハガキを見せてくれた。その写真を送ってくるという友達の話も。先生の愛おしい人。離れていてもずっと側にいる人だ。

そんな先生に僕は最後に我儘を行った。このラピュタの写真が欲しいと。先生は困った顔をしていたが、断る事は出来ないだろう。僕の物にならない先生にちょっとした嫌がせだ。

先生は僕にノートをくれた。クラスの子達の絵や言葉が書かれたページと、クラスの集合写真があった。そしてそのノートにはあの写真も挟まっていた。先生ありがとう。



ベトナムに行ってからはパパもママも毎日忙しそうだった。色々な所に行き、色々な人に会う日常。僕の側にいたのは背の高いお兄さん。パパやママが会っている人のよく分からない言葉を、聞き慣れた言葉になおす通訳と言う仕事をしているらしい。このベトナムという国にも詳しいとか。忙しいパパやママの代わりに僕の相手もしてくれる。この人は信じられるひとだと分かった時に、僕はあの写真を見せた。お兄さんはその写真を見てとても驚いていた。「これを何処で?」と聞くので、ノートの最後のページに貼ってある写真を見せた。先生の顔を指さすと、お兄さんは片眉を上げて困った顔をした。そうかこのお兄さんが先生の大事な人かと思うまで時間はかからなかった。この人も先生を想っている。僕の初恋はとうに終わっていたが、決定打を打たれたのだ。悔しい。


それからお兄さんも先生が僕にした様に、先生の昔の話をゆっくりとしてくれた。先生は子どもの頃も可愛い子だったんだろうな。そう思うには十分な話しだった。先生に会いたい。

お兄さんが日本に帰る日、僕に「また来るから」と言った。僕はあの写真の所に連れて行ってとお願いし、お兄さんも約束をしてくれた。


ベトナムでの生活は日本とは違う事も多かった。我が家には知らないおばちゃんが出入りしていた。メイドさんというらしい。この人のお陰で、ママは日本にいた時の様にお仕事や家事に忙しそうな事は無くなった。僕との時間を沢山作ってくれる。学校は日本人の子どもばかりで、言葉に困る事は無かった。自分でも僕は上手くやっていると思っている。


そんな時お兄さんから電話が来た。ベトナムに来る事が決まったから、お休みの日に僕をあの写真の所に連れて行ってくれるらしい。さあ1ヶ月考えた僕の作戦を始めよう。

僕は先生に手紙を書いた。ありったけの先生への想い、この生活が辛いと思っている事、最後に「助けて」と。先生、僕が先生のキューピットになってあげるね。



年長児を送り出した忙しい年度末が終わった頃、私の気持ちは燃え尽きていた。仕事を始めて3年経った。そんな私の様子を見てか園長は私を担任から外しフリーの保育士にした。これもモチベーションが上がらない要因だろう。仕事に追われていた方が楽なのだと改めて感じた。

これからの事を考えると、一番最初にあの人が浮かんでくる。彼に会いに行こう。なんで今までそうしなかったのか?彼が自分を好きか分からなかったから?いや自分から求めに行くのが恥ずかしいからだ。私の小さなプライドが10年も経たせてしまった。


そんな頃英治君から手紙が届いた。そこにはベトナムでの生活が辛いと書かれていた。助けてと。私はいてもたってもいられなくなりベトナムに行きたいと園に話をした。彼の手紙を見せて。でも園長は良しとしてくれなかった。「やり過ぎだ」と言われた。私は園を辞める事を決めた。手紙が届いてからベトナム行きの飛行機に乗るまでに10日かかってしまった。彼には会いに行くと手紙を書いたが、返事は無かった。英治君に会うまでの時間が本当に長く感じた。飛行機の時間は英治君の両親に電話で知らせていた。英治君から手紙が届いた事は話していない。私に手紙を送ってきたという事は、両親にも話せずに悩んでいるからだろうと感じたからだ。ご両親は私の訪問の申し出を驚いていたが、快く受け入れてくれた。

ベトナムの空港に迎えにきてくれた英治君は、保育園での姿とあまり変わらない明るい様子だった。背が少し伸びていた。私は安心したが、あの手紙の言葉をより切なく感じた。両親には感じさせない様にしているのだろう。頭の良い子だから。

両親と一緒に食事をし、彼の家に行き2人で話しをした。でも彼からは悩んでいる様子は見られなかった。彼からあの遺跡に明日行こうと誘われた。私は驚いたが「うん」と頷き

、ホテルに戻った。


お父さんはお仕事だからお母さんと行くと聞いていたが、もう1人観光ガイドの人も行くと言われた。その話をしている英治君の顔は、イタズラを考えている男の子特有の楽しそうな顔だった。私が英治君が先に行くなんてズルいと言ったからだろうか。英治君の気持ちが分からず悩んでいたその夜。また彼の夢を見た。

彼の写真がコンテストで賞を取り始めた頃、彼の写真と共に大人になった彼の顔が載っていた。少年の頃の面影を少しだけ残した、優しい目の青年。

幼い彼ではない大人になった彼と2人並んであの遺跡を見ている夢を。

彼への想いが募ると共に、夢に出てくる彼が大人になっていった。

そんな彼の手を取って、私の気持ちを伝えたい。



寝不足の重たい頭に大きな音で鳴る知らない電話のベルの音は、とても響く。

フロントからの電話だった。そうだ英治君が言っていた観光ガイドさんが迎えに来ると。

急いで準備をしてフロントに向かうと、そこには背の高い青年が立っていた。私を見つけるなり目を見開いて驚いて。でも直ぐに私が大好きだったあの癖をしながら、優しい顔で笑い始めた。「英治め。そういう事か。」あの高尾山山頂で聞いた優しい呟き声だった。

何から話せば良い?何を言うべきか?

「あの頃から私は貴方が好きだった。小さなプライドが貴方に会いに行くのを止めていた。でも貴方が送ってくれるハガキが私の支えだった。離れていても貴方が私に寄り添ってくれていると感じられたから。」

ありったけの想いを拙い言葉で伝えると、安堵の涙が頬に流れた。私の10年はこんな言葉では伝えきれないけれど、今はそれで良い。これからゆっくり伝えられるから。

彼に手を差し出すと、さらに大きくなった手で私の手を握って自分の方に引き寄せた。彼の温もりを感じる。彼の胸の中は広かった。あの時失った父の温もりと同じ様に感じる。


そこから英治君の家に行く間に、彼と英治君の話を聞いた。本当に奇跡の様な巡り合わせだ。彼の写真が無かったらこうはならなかっただろう。あの時手放した事が奇跡を生んだのだ。

やっぱり彼は私の所に帰って来る運命だったのだと、嬉しく思った。


2人を見た英治君の顔は少し悔しそうだったが、あのイタズラをしでかした子どもがする顔をしていた。「僕は2人のキューピットだよ」と話す言葉を聞いて、お母さんが不思議そうに首を傾げていた。遺跡に向かう車の中で今日に至るまでの英治君のイタズラの種明かしをしてくれた。あの手紙は本当では無かったと分かって安心したが、私が保育園を辞めて来てしまった事を、お母さんにとても謝られた。「自分の問題なのだと。これはきっかけに過ぎないのだと」話すと、幾分か安心した様子を見せてくれた。


あの遺跡が目の前にある。私達をつないでくれた場所。

遺跡を見ながらもう一度彼に聞いた。「将来何になりたい?」。

「君と一緒に人生を育んでいきたい」真っ直ぐな目で私を見つめて彼は言った。

キラキラ輝いた目で。

「はい」私は答えた。私の人生がもう一度動き出す。

また私は輝ける。彼の側で。



英治から遺跡に行く前に友達をホテルまで迎えに行って欲しいという電話が来た。朝早くホテルに行くのはガイドの仕事で慣れているが、迎える相手が分からないのは少ない。英治はただ笑うだけで教えてはくれない。「直ぐに分かるよ」と言って。

ホテルに着くとめぼしい人は見つからなかった。フロントに聞くと英治のお母さんから伝言を受けていたボーイが部屋に電話をしてくれた。

しばらくして英治に見せてもらった、あの先生の姿がフロントに現れた。

「そういう事か」呟いた僕の声を聞いて、彼女は少しだけ口元を緩めた。

少しの沈黙の後、彼女から告白の言葉を聞いた。

嬉しかった。でも自分から言いたかった。男として少しだけ恥ずかしかった。

次は絶対に決めてやると、心に決めたのは言うまでもない。

英治の家に着くまでの時間は、何処かこそばゆいものだった。2人だけの世界。

あの高尾山での時間を思い出す。

気の利いた言葉が出てこない。本当に僕は駄目な男だ。


車中では英治が良く喋った。こんなに良く喋る奴だったとは驚きだ。年相応の子どもに見えるのはきっと彼女に絶大な信頼を置いているからだろう。甘えているのだ。一連の英治の仕業を思うと、あいつは俺のライバルなのだと理解した。絶対に彼女は渡さない。


遺跡を目の前した彼女と英治の反応は可愛いかった。「ラピュタがあった!」子どもの様にはしゃいでいた彼女が少し落ち着いた頃。あの質問がやって来た。一度目は自分の将来なんて分からないと戸惑い、二度目は何の成長も無い僕に彼女が失望するんじゃないかと不安と自分への怒りで答えた質問だ。

ここだ。僕が決めるのはここなんだ。彼女の目を真っ直ぐ見つめて僕の気持ちを率直な言葉で伝えた。嬉しそうに恥ずかしそうに答えた彼女の返事は「はい」だった。

僕らの10年はすれ違いながらも何処かで繋がっていた時間だった。

この10年を大切に埋めて行くのがこれからの僕らの仕事だ。


その日初めて僕らは身体を重ねた。お互いに経験はあったが、初めての様に緊張しながらお互いの一つ一つを確かめる様に。幸せだった。彼女が腕の中にいる。


翌朝くすぐったいと感じて目を覚ました。僕の腕の中で既に目覚めていた彼女が僕の手を触っていたから。「この手が好き。この手に恋したの。あの日。」と話していた。

僕の中ではその思い出はうっすらとしていた。確かにそんな事があった気がするが、鮮明には覚えてないのだ。その事で僕らは恋人になって初めての喧嘩をした。一方的に怒る彼女に、直ぐに謝ってしまった僕は、これからの日々が目に見えると少し切なくでも嬉しく思った。


僕の仕事が終わるまで彼女は僕と共に、時には英治との時間をこのベトナムで過ごした。帰国する前の日、英治にそっと彼女が囁くのが聞こえた。「私も世界を感じたい。彼と一緒に。本当にありがとう」と。僕は2度目の恋をした。

僕が君に世界を感じさせてあげるよ。ハガキじゃなく、一緒にね。


日本に帰ってすぐに彼女が僕のマンションにやって来た。

女の子にしては少ない量の荷物と共に。

少ない荷物の中から彼女が出して来たのは今まで僕が送ったハガキの全てだった。

改めてみると本当に恥ずかしい。

10年分の僕の想い。

これを信じていなかった彼女の鈍感力は凄まじいと思った。

今でも聞く。「私の事好き?」その時の彼女のイタズラな顔がとてつもなく可愛いのだ。

この顔は絶対に英治には見せてないだろう。ちょっとした僕の優越感だ。



僕の人生が動き出す。彼女と共に。

近い将来2人の子どもが生まれるだろう。

僕らが感じていた将来への不安を少しでも感じさせないように、大切な人を守れる子に育てていこうと。彼女と話し合った。

英治の様な僕に似た男の子かもしれないと笑う僕に、君は嬉しそうに頷いた。

僕は君に似た天真爛漫な女の子が良いと思う。

恥ずかしそうに笑う君が本当に愛おしい。

少し手を伸ばせば君を抱きしめる事が出来る。

僕は幸せ者だ。
















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

グロリアス @asarose617

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ