憤怒が故に
【●A✖S▲B■――!?】
腕は二本、足は二本。
基本的には人型だが、視力はほぼ皆無。代わりに、鋭敏な嗅覚と聴覚。
同じ盲目――だが、どうやら形が違うようだ。
偶然の産物か。地下を護らせるため、暗闇に適応させるためにそう造ったのか。敢えて目を退化させたのだとすれば、厄介だ。
怪物だろうと何だろうと、五感に対して唐突に大きな刺激を受ければ、それなりの反応を見せ、隙を生じさせるもの。
だが、音や臭いでは地上の聖母に気付かれる可能性があり、暗闇という場所も加味すれば、光こそ最大の隙を作り得る刺激になる――と思っていたのだが。
「さて、困ったな」
同じ盲目故に対処に困るとは、何とも皮肉めいた話だ。
相手は容赦もなければ考えもなしに突進し、鋼作りかと思うくらいに硬い皮膚を更に固めて握り締めた拳を振るだけなのだから、羨ましさすら感じる。
【EEEEEEEEE――!!!】
振り下ろされた拳を躱し、踏み込んだ脚を体を使って払う。
自重と勢いとに負けて前のめりに倒れた怪物の背に馬乗りになり、片腕を取って関節をキメてやろうかと力を籠めると、ぐにゃり、と粘土のように曲がった。
「お姉さん!」
「――?」
本来動かない方向へと折り曲げたはずの腕が、さながら鎌首をもたげた蛇の如く揺れて、アンへと爪を突き立てようと飛び掛かる。
高く跳び上がって躱したアンは天井に手を突き、押し退けるようにして怪物から距離を取るように飛ぶと、着地を狙って迫ってきた蛇の腕を締め上げ、掌打を喰らわせて一度、沈黙させた。
「フム、なるほど」
硬いと思えば柔らかい。
鉄から粘土へ、粘土から蛇へ。
人間を模した姿は表面的なもので、作りも中身もまるで違うらしい。
関節の数も、位置も、骨の数も常人とは異なるのだろう。ベンジャミンほどではないにしても、その大柄な体の中に、まだどれだけの秘密を内包している事か。
【●●✖✖――@##%!!!】
もはや伸縮自在。
両腕を鞭のように振り回し、蛇の牙が如く構えた指先が噛みつかんと迫る。
幾度も腕を弾き、懐に入ろうと試みるが、風を切る腕がそうさせない。
ならばこちらは風で斬ってやろうと魔法を繰り出すが、鞭のようにしなる柔らかさになった体に風の刃が通らず、受け流されてしまう。
「参ったな」
「お姉さん! お兄ちゃんは体の中に核があって、それを壊すと止まるって聞いたよ!」
「なるほど」
これまた、よくある設定をお持ちだ。
確かに魔力を生み出す炉心――彼にとっては心臓に相当するのだろう核と見られる部分が、“憤怒の魔眼”でわかる。
しかもこれが随時移動しているのだから、厄介だ。
無論、急所となる核が随時移動しているなど、核を保有しているとわかった時点で想定内。憤怒の魔眼で位置もわかるが、これを力技で破るとなると、威力と規模から聖母に気付かれる。
かといって小さな技では、変幻自在の体に傷一つ付けること能うことなく、
規模と威力に制限を設けないのであれば、核諸共滅却して終わるのだが――なるほど、聖母と言う人は、思っていた以上に
ベンジャミンの前で見せた弱々しい女の顔も、賊に対して怯えた素振りも、すべて演技だとすればなかなかの役者だ。
自分自身が敵にとってどれだけの脅威か、よくわかっている。
目の前の暴力装置を仕留めようとすれば聖母に気付かれ、聖母に気付かれまいとすれば暴力の前に殺される。
聖母アリア・マリアが英雄だからこそ通じる策。
彼女が誰よりも強いからこそ、採用された一手。
なんたる傲慢。なんたる自画自賛。そして――何と覆しがたい事実。
この策が通じてしまうことで、彼女の実力が裏打ちされる。
彼女は強いと、理解してしまっている己が内面を晒される。
故に、怒る。
聖母たる彼女の
怒りの炎で燃え上がる。
怒りの霹靂が
絶えず湧き上がり続ける怒りが力となって、光を失った双眸に携えられる眼光と代わって、鋭利に
【WWW! $$%! #@*~!!!】
「仮にも人なんだ。其方も人の言葉を話さないか」
伸ばしていた腕を引っ込め、限界まで縮める。
きりきりと骨を軋ませながら縮めた腕を一挙に伸ばして繰り出した正拳は、皮膚を鋼の如く硬化させている。
文字通りの間一髪で躱され、アンの髪の毛先を散らした一撃はそのまま一直線に向かい、真正面の壁を打ち抜いた。
「まるで大砲だな」
だが、大砲より悪質だ。
予備動作が大きいから辛うじて躱せるが、砲撃と違ってほぼ無音。
しかも弾を装填して撃ち出すわけではないため、制限がない。強いて言うなら体力という制限はあるだろうが、持久戦になれば体力が先に尽きるのは、確実にアンの方。
砲身の体も砲弾である拳も、腕も、今の力では弾くことさえ出来ない。
ただし――それは聖母の策略通りに動けばという条件下に限られるのだが。
「……
【??? %rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr――?!」
「騒ぐな、騒々しい」
風の魔法で追い風を作り、自身の背中を押して肉薄。
遅れて繰り出された拳の砲撃を躱し、伸びきった腕の下を掻い潜って懐へ。
このとき、この世界で、戦闘において初めて構えたアンの右拳と左肘とが、赤い魔力をまとって熱を帯びる。
「五体を焼き裂け――“
正拳と肘鉄とが、怪物の懐に熱を帯びた魔力を撃ち込む。
直後、怪物の体に亀裂が入ったように赤い魔力が刻まれ、四肢と脳に灼熱を走らせ、内側から弾けた。
だが弾けたと言っても、体が爆散したわけではない。体の内部に撃ち込まれた熱が、脳天と四肢の先から突き抜けたと言うべきか。
実際に炎が焼いているわけではないが、当人はそう誤認するだけの熱に襲われ、まともな思考回路など保てまい。
まぁ、元々まともと呼べるだけの思考回路があるのかどうか、人語を操れない時点で怪しい部分ではあるが。
「やはりいいな。必殺技を恥ずかしげもなく、大声で叫ぶのは。特に日本語表記に直訳ではなく、ほとんど当てはまらない外国語でルビを振るのがいい。どちらにせよ、私は盲目故、他の転生者と同じ理解を得られているかはわからないが」
情けない話だ。情けなさ過ぎて怒りが湧いてくる。
聖母が強いのはわかりきっていたはず。
世界を一つ救うなんて偉業を成した英雄一行が強いなど、言うまでもない事実とわかっていたはずなのに――臆していた。
彼らに喧嘩を売ると宣いながら、いざ前にしてみれば一番格下の相手にすら怯える始末。
何と滑稽。何と無様。何と言う、醜態。
ベンジャミンにもエリアスにも、このまま敗走などしようものなら顔向け出来ない。
七つの大罪を率いる者として、在るべき姿でなくてはなるまい。
【dddddddddddddddddddddddd――!!!】
怪物は、より怪物らしき姿へと変貌を遂げていく。
両腕の肘からもう一本の腕を生やし、元の腕がより太く膨張する。
すべての歯が抜け落ちた代わりに、ノコギリの刃が如き鋭い犬歯を生え揃えて、膨張した腕を含めた四肢をを突き立てて四足の獣が如く低く唸る。
先に撃ち込まれたアンの熱とは別の熱源を発し、己の核を燃やして唸る怪物は、怒っていた。
「フム。怒りで私に向かうか。その怒りが、わずかにでも妹のため燃えていれば、少しは加減したやもしれぬが……其方の性質上、加減は出来ぬ――許せ」
最後の一言は、人の言葉を操れない
この戦いを悲しき笑顔にて見る、嫉妬の罪を与えられた
彼女はおそらく、聖母からも口止めをされていただろう急所を教えてくれた。
しかし、だからと言って殺したいわけではない。彼女が教えてくれたのは、自分が外へ出るため、彼を止めるだけの時間を稼ぐだけのためだ。
が、加減はしないとアンが宣ったことで悟ったのだろう。
彼女が止めてと泣かないのは、殺さないでと叫ばないのは、先に死んで逝った、彼女にとっての父と母である、魔性の者達の願いを思えばこそ。
終わらせてあげたい。終わらせて欲しい。
少女は願いを紡ぎ、口を結ぶ。
人の願いを叶えるは大罪の役目でなかろうが、同じ大罪の願いならば、大罪が果たそう。
怒りのままに蹂躙し、破壊し、奪い、尊厳を否定するのが憤怒の罪なれば、憤怒に呑まれる怪物を終わらせるのも役目の一つ。
怪物の怒りに矛先はない。誰でもいいのだ。
元はおそらく、贄とされた魔性の者達から、血潮と共に受け継がれた聖母への憎悪だったのだろう。
しかし異形の怪物へと成るに当たって、聖母という明確な対象を見失うため、歪まされたが故に発現へと至った狂気は、もはや生物の破壊に留まらぬ一つの災害。
これを止めるのは、同じ憤怒を冠する大罪の務め。
そのためにも、全力で叩き潰す。
【B――■ス? スすす、ス!!!】
「其方は戯れ言すら、まともに言えぬだろうに。さっさと来い」
自分の中に構築された多くの記憶が見せる、自分自身が体験した事のない戦いという攻防が、繰り広げられる展開を。
熾烈を極める戦いの果て、雌雄を決する激闘になる事を予想していた。
だからそういう意味では、アンは彼女の期待を裏切った。
四足の獣が如く、両手両足を使って跳ね、飛び掛かった獣の首根を捕まえた手が、流れるような動きで怪物の顔面を床に叩き付け、大きな脳が入った頭蓋を叩き割ったのだから。
「何だ。
いや、絶対にアンは気付いていた。絶対に狙っていた。
怪物の核が脳に来たのと、飛び掛かってきた瞬間とが重なった瞬間に決めたはずだ。
この一撃で屠れるとわかっていたはずだ。
投げ飛ばす際に掛けた重力と風の魔法で投げる勢いを付け、叩き付ける威力を上げた事で、流れるように繰り出した一本背負いを、一撃で敵を屠れる武器にまで昇華していた時点で明白だ。
それでも本当に、今の一撃で終わるなど思っていなかったのか。
アンの反応はわざとらしくて、何とも言い難い。
だが、アドレーは期待を裏切られた喪失感に襲われる暇もなく、彼女自身言い表せない二つの感情に支配されていた。
仮ながら、兄に当たる異形の怪物を倒してくれた事に対する感謝と、兄を一撃で倒してしまうようなアンに付いて行く事で、どのような世界が見られるのかという期待。
大罪を冠し、大罪を称し、大罪を与える彼女の元で見られる世界がどんなものか、アドレーは強い興味を惹かれていた。
「ありがと……アンお姉ちゃん!」
「あぁ、そう言ってくれると助かる」
水の魔法でカプセルを斬り裂き、叩き割る。
アドレーを囲うように渦巻く水流が割れたガラスを弾き飛ばし、無傷で解放した。
「しかし、先ほどまでお姉さんだったはずだが」
「これから一緒に旅するんでしょ?! だからお姉ちゃんの方が、いい!」
「……そうか。うん、悪くない響きだな」
お兄ちゃんと呼ばれて、興奮の類を覚える男子はいるらしいとの事だったが、なるほどお姉ちゃんもなかなかのインパクトだ。
結局、前世では一度も呼ばれることのなかった俗称だったからか、妙な照れ恥ずかしさとくすぐったさを感じる。
改めて己の中で反芻してみても、やはり、悪くなかった。
「其方の兄が、果たして其方を妹として見ていたのか二号機として見ていたのかは知る術もないが、姉と呼ばれるからには、彼の代わりに其方を護ろう。その代わり、其方も力を貸してくれ。アドレー」
「うん! 任せてお姉ちゃん! 私、アドレー頑張る!」
「誰のために頑張ると言うのです? アドレー。あなたは私が造った
凄まじい
アドレーは咄嗟にアンの背後に隠れ、アンは魔眼を光らせる。
アドレーには悪いが、怪物たる兄など彼女の前では前戯のような物だ。
いや、もはや弄ぶにも足りない。彼女を相手にすると決まった時点で、彼の価値はそこまで貶められた。
人語を操れもしない
「まさか、私がいるにも関わらず、行動を起こす者が現れようとは……しかも、ベルガー様のような勇猛な方ならまだしも、あなたのような不随の方が、何故……」
「何故も何も。私が其方達の敵だからだよ、聖母殿。私は、七つの大罪が一角、憤怒の罪、アン・サタナエル。この世界に救世主を求めた見えざる手が選び取った最後の駒であり、英雄に牙を剥くため現れた、転生者なのだから」
「……そうですか」
明らかに、雰囲気が変わった。
聖母、聖職者としての顔は完全に消え失せ、英雄の一人として
先まで対峙していた怪物にはない、圧倒的な実戦経験値から生じる本物の気迫は二人の肌を撫で、聖母をよく知るアドレーは豹変ぶりに驚いて目尻に涙を溜め、アンは鳥肌を立てた腕を強く掴み、震えまいとさせた。
「アドレー、こちらへいらっしゃい。その方はあなたの同胞を、兄に当たる
「大罪人、か。否定はしない。だが一つ聞かせよ、アリア・マリア。其方は何故、アドレーらを造った。其方は、一体誰を愛している」
静寂。
怖いくらいに、物音一つしない静寂がしばらく続くと、聖母は
地面が砕け、割れて伸びる。先ほどの怪物の両腕の如く、しかし倍以上の数を誇る土と岩の鞭がしなり、二人目掛けて一直線に伸びて、アンの手刀に合わせて繰り出された上からの重圧に圧し潰される。
それらを囮にした背後からの奇襲もまた、風の魔力に微塵に切り刻まれてから薙ぎ払われた。
「私は、私の子供達を愛しています。孤児院の子供達も、そこにいるアドレーも、愛しき我が子です。私は聖母――主の代わりに皆を愛する母なれば、当然の結論」
「では今、何故背後から奇襲を仕掛けた。私が払わねば、アドレーまで巻き込んでいた。取り返すにしても、真に愛しているのならば、岩の鞭など危なすぎる。何が言いたいか、わかってくれるよな? 聖母よ」
聖母は勘付いていた。
アドレーもまた、何となくだが察していた。
アンがこれから発するは、挑発ではない。聖母の言動から、冷静さを奪うための煽りではない。今の一瞬の一挙手一投足に裏打ちされた、ただの事実。
だがそれが、聖母の怒りを買う――アン・サタナエルは、憤怒の罪を背負うが故に。
「其方は、真にこの者を愛してはおらぬ。愛玩としては愛していても、人間としては愛しておらぬ。故に――」
再び、岩の鞭が迫る。
だが再び、風の刃が叩き切り、今度は聖母へと吹き飛ばす。
光の障壁が聖母の前に
「其方は怒る。自身の愛する子を攫われる事にではなく、己がプライドを傷付けられたがために。私が何も知らぬまま、同情の余地すら抱かず真意を突き止めたことに、憤るが故に」
「主よ、この
英雄が一角たる聖母と、七つの大罪が一角たる憤怒の大罪が、衝突する。
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