憤怒の魔眼
怒。
アン・サタナエルとなった私の人生は、残念ながら恵まれたものではなかった。
光を宿した目を持たずして生まれた私は、色、形、世界を知らぬまま育ち、家族からは厄介者として扱われ、十五になると施設に預けられる形で半ば捨てられた。
一時期は親切な友にも恵まれていたが、向こうの都合に巻き込まれ、最後には多額の金銭を騙し取られ、借金苦に陥った。
最期には、混雑する駅のホームに誤って転落し、直後やって来た電車に撥ねられて生を終えた。
怒。
「■■■■■――其方に頼みがある」
神とはいるのだな。
初めてそれと対面した、私の抱いた感想だ。私は酷く落ち着いて――いや、酷薄なくらいに淡泊だった。
「其方に、世界を一つ救って欲しい。神の作りし粗悪品となりつつある世界の、救世主となって欲しいのだ」
何と身勝手な。誰も彼もが、異世界に転生したいなどと思うなよ。
私が次に抱き、実際に神へ訴えた感想だ。
同情される筋合いもないし、慈悲だと言うのなら私は鳥にでもなって、色彩に満ち満ちているらしい世界とやらを飛び回って見たかった。
世界創造の神とやらが、七日間かけて作り上げた別の世界の修繕など興味もなかったし、死んでも他人の都合に振り回されるのかと、私は酷く激昂した。
怒。怒。
「世界を救った暁には、如何なる願いも叶えよう。永遠を生きる不死鳥として世界を飛び回る事も、色彩と光に満ちた世界を見て回る事も、如何なる願いとて叶えよう」
そう言う事ではない。そう言う事ではないのだ、神様。
等価交換のつもりなら、酷い誤解をしているぞ。
私は世界を見たいのだ。
生きたいとは言っていない。
私は、私を捨てた家族が何気なく見ている景色を知らず死んだ。
私を裏切ったかつての友が、見て来た恐怖も絶望も見ぬままに死んだ。
私が落ちた駅のホームで、騒ぐ人々が伸ばしてくれたかもしれない慈悲の有無を知らぬまま死んでしまった。
怒。怒。
私は世界を見たいだけ。
生きたくなどない。歩みたくもない。
鳥のそれも比喩の表現でしかなく、私は一度でいいから、色彩と光を味わいたかっただけだ。
「其方しかいないのだ。其方しか、かの世界を救えない。我々にはもう、其方しか術がない」
怒。怒。怒。
「■の知らない世界の事など知った事か! ■は世界を見たことがない! おまえの姿も見えなければ、おまえ達が作り上げた人間が、■が、どのような姿形をしているのかすら見た事がない! そんな世界を救えと言うのか! ■はそんな物に興味はない! 地獄でも冥府でも落としたいなら落とせばいい! ■はもう……一歩たりとも生きたくない!!!」
憤怒。
「では……其方にまず、世界を与えよう。其方に世界を与え、色を与え、光を与え、人を与え、生きる意味を考える時間を与える。我々の要望に応えるか否か、その後で決めれば良い」
待てと、私はそもそも、転生さえも望んでいないのだと訴えようとした。
訴えようとして、気付いた。
――言葉が、紡げない。
いくら叫ぼうと、いくら声を張り上げようと、私の声は言葉に至らず、赤子のように泣く事しか出来ない事に気付いたとき、私の前世からの記憶は、意識は途絶した。
後はそれこそ、神の手の上という奴だ。
たった数年。たったの数年だけだったが、私には幸せが与えられた。
貧しいながらも、幸せな生活。私を大事にしてくれる両親。私と一緒に遊んでくれる友達。何より、私が求めた色彩と光の満ち満ちた世界が広がっていた。
そして、私の世界は神の言う災厄に奪われた。
平穏を奪われ、友を奪われ、両親を奪われ、光を奪われた――
憤怒。憤怒。
憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。憤怒。
怒。
「良いだろう。其方の言う救世主とやらに、なってやる」
我ながら、何と簡単な奴なのだろうと、呆れかえる事しか出来なかった。
* * * * *
「フム……其方達には内緒で、一人で対処して来ようと思ったのだがな」
一人宿を抜け出たアンだったが、歩いて暫くして、コッソリついて来たベンジャミンとエリアスの気配に気付き、路地裏にて合流した。
ベンジャミンは基本夜型の人間狼なので問題なさそうだったが、エリアスは寝ぼけまなこをこすっていた。
温かなベッドが恋しかったろうに、それでも出て来てくれた事は嬉しいような申し訳ないような、少し複雑な心境だ。
彼女にはせめて、この一晩だけでも温かなベッドで眠って欲しかったのだが。
「俺だけ出て来ても良かったんだが、一人だけにするのも不安だしよ。何より、本人が行くって聞かねぇんだ」
「か……仮にも、アン様の従者、ですから」
杖を握る手には、緊張からか力が籠っている。
自分がこれから相対する者の正体こそわかってないだろうが、本能的に脅威を感じ取っているらしい。スライムとしての生存本能か。奴隷としての経験則か。
「ありがたいが、肩に力が入り過ぎだ。落ち着いて、其方本来の実力を発揮出来れば、敵になるような相手ではないだろう」
「そう、なのですか……?」
「何だ、前以て調べてたのか?」
「いいや? ただ、そうだな……感じられる力の根源が、私達の敵ではないと、教えてくれるのさ」
公園を見つけたので、そこに入る。
街中はもちろん、戦闘となれば路地裏でも危ない。
その点入った公園はかなり広く、大きな遊具が少ないので多少暴れる程度ならば何とかその場だけで収められそうだった。
無論、相手によっては大規模の攻撃が来ることもあり得たし、こちらも使わなければいけなかったろうが、今回に限っては心配は要らなそうだった。
そう感じる根拠も、ただの勘なのだが。
「エリアス、人除けの結界を張れるな。頼んだ」
「はい、アン様」
その場に深々と、
先端の青白い宝玉より垂れた雫が杖を伝って落ち、公園の中央から四方に分かれて走った青い光が、数分と掛からずに公園を取り囲み、人を寄せ付けないための結界を張った。
「へぇ。結界魔法をこんな簡単に張る奴は初めて見たぜ」
「それだけの逸材、と言う事だ。私の見る目があったわけだな。まぁ、この目は盲目何だがな? 良し良しいい子だ、エリアス」
「お、お褒めに預かり光栄です……アン様」
人に褒められるなど、ほとんどなかったのだろう。
頭を撫でられるエリアスはどうしたらいいのか、表情の在り方さえわからず困惑している様子だった。
声音からして照れている様子だが、はにかんでくれているなら見たかったなと思う。
同時、結界の展開を感じ取って向かって来ているそれの存在が視界に入らない事にだけは、感謝の念さえ覚えた。
「姉御」
「あぁ、わかっている」
それは、土煙を上げて飛来して来た。
ベンジャミンにも負けず劣らぬ獣臭と、ベンジャミンが白昼まで着ていた囚人服より圧倒的に強い血液の鉄臭さとが入り混じった悪臭が鼻を突き、鼓膜を揺らしてくる低い唸り声は大型の肉食獣を思わせる。
そこから想像される姿と、実際の姿にそこまでの差異はなく、二足で直立する赤い肌の悪魔を模した獣らしき醜い怪物が、アン達を見下ろしていた。
【アン……アン・サタナエルぅぅぅっっっ!!!】
「ひぅっ……!」
「おいおい、何だぁこいつは」
「昼間の逆恨み肥満貴族だろう。どんな手段を用いたかは知らないが、私を怨む余り化け物に変わって来たか」
「何でそんな淡々と! 見かけからしてヤバいぞ、あいつ!」
「そうか。生憎と、私には見えぬのでな」
ベンジャミンは窓越しに姿を見ただけだったが、アンの言う昼間の貴族とはとても似つかぬ姿へと変貌を遂げているではないか。
盲目のアンに差異はないだろうが、感じられる雰囲気からしてまず違うはず。
だと言うのに、向こうの標的とされているにも関わらず落ち着き払った様子のアンの振る舞いは、違和感さえ感じさせた。
敵ではないと言っていたのも、エリアスを心配させないための鼓舞だと思っていたが、ここまで来ると別の意味合いを感じてならない。
何度も自分の名前を憎悪を籠めて連呼する怪物へと、アンは剣を抜きながらもやはり構えることなく歩み出た。
【アン・サタナエル……アン・サタナエル、アン・サタナエルぅぅぅっっっ!!!】
「そんなに連呼せずとも、聞こえているぞ元貴族。私への憤怒と怨念で怪物に変わって来たようだが、生憎と其方には伸びしろがない。怪物になったところで、ドボルロックにさえ劣る雑兵。オークの方がずっと強いわ」
いや、見た目だけなら豚の魔人などとうに超えている。
感じられる魔力だけでも、ドボルロック何かより遥かに上だ。
アンが語るようなモンスターなど、簡単に殺せてしまうだろう厖大な力を前に、何て無防備に立ち尽くしているのだ。
「姉御! そいつを甘く見ない方が良い!」
「フラグを踏んでくれたな、ベンジャミン。礼を言うぞ。これで私の勝利は揺るぎない物となった」
「何を根拠に――!」
【アン・サタナエルぅぅぅっっっ!!!】
握り締められた赤い拳が襲い掛かる。
反射的にエリアスがアンの前に構築した氷壁をも打ち砕き、アンを圧殺すべく振り下ろされた。
「アン様!」
今の間合い。
良かれと思って出した氷壁が、返ってアンの回避する隙を奪ったのではないだろうか。
最悪の事態すら想定したベンジャミンだったが、想定は杞憂に終わる。
晴れていく土煙の中、アンは振り下ろされた拳に片足を乗せて悠然と怪物を見上げていた。
怪物は、躱せるはずがないと自負していた一撃を躱されたことに驚いているのか、見開いた目でアンを凝視している。
「それだけの魔力があって、身体強化の魔法も使わず殴るか。貴族として生まれてこの方、魔法など碌に学んでこなかったとしか思えんな。『豚に真珠』とは、まさにこのこと!」
足蹴にしていた拳を、手首から斬り離す。
大量の赤黒い体液を撒き散らしながら、斬られた腕を持って背中から倒れてゴロゴロと転がって痛がる姿は、怪物の異形に似合わぬみっともなさ。
斬られた腕が再生して、四つん這いになった怪物は蔑む視線で見下ろすアンを見返し、即座に立ち上がって反撃しようとした。
「身体強化を使えと言ったはずだが?」
拳を躱し、肘を持ってより前へと押し出す。
腕を持って肘を逆方向に曲げる勢いで怪物をのけ反らせると、顔面を鷲掴んで勢いよく叩き付けた。
「貴様程度の速度で捉えきれるはずもなし。力任せに腕を振るったところで、怖くもないわ」
立ち上がり、アンの腕を封じようと伸ばして来た手の指先を掴む。
指を折らんとして曲げると、指を折らせまいとした怪物が痛がりながら立ち上がり、また別の方向に曲げられると重心が傾いて思い切り転ばされ、顔面から倒れ伏した。
その後も指を様々な方向へ折り曲げ、糸に繋がれた人形を操るが如く怪物を自在に操る姿を見たベンジャミンは、背中の体毛が逆立つような感覚と寒気に襲われて身震いした。
アンはいつから見抜いていたのだ。
相手が力だけの木偶の棒だと。相手が持っているのは力だけで、技術などまるでない戦いの素人である事を、いつからわかっていた。
――感じられる力の根源が、私達の敵ではないと、教えてくれるのさ
いや、もっと前だ。
肩の力を抜けとエリアスに促す際に、敵になるような相手ではないと言った時から、彼女は襲い来る敵の底を知っていた。
アン・サタナエルは本当に盲目なのか。
光を受け入れぬ目となった事で、別の目が開眼でもしているのではないだろうか。
「其方達には、答えを言っておこうか」
怪物を再び地面に叩き付けたアンは言う。
振り返った彼女の目は光を反射せず、光を宿してなどいなかったが、無色に近しい真白の虹彩は夕闇を作り出す紅の星の如き色に染まっていた。
「私をこの世に転生させた
「で、ですがアン様の目は……」
「そう。私の目が盲目である事に変わりない。私の目はあくまで触媒であり、この魔眼に光の有無は関係ない。この目はただ知るためだけの物だ。敵味方問わず、魔力から膂力から速力から、あらゆる
いや、普通に考えて強くないだろうか。
というか、不公平が生じている。
アンは魔法の詠唱を省略しても本来の威力を発現出来、尚且つ構えを必要としない。
これによって、対峙する敵はアンの初手から次の手から奥の手まで一切わからず予測さえも難しいと言うのに、アンには“憤怒の魔眼”によってすべての手の内が見透かされる。
情報の隠匿がまるで作用しない。敵の初手から次の手から奥の手まで、アンの魔眼は見透かしてしまうのだから。
最初から不公平だ。
敵の弱点も逆転の一手もすべてわかり切った上で勝負すると言うのだから。
「そこまで万能でもないさ。攻略法がわかっていようと弱点がわかっていようと、こちらの力が足りなければ当然に負ける。むしろ先に相手の力を知ってしまうため、絶望を抱くのも他よりずっと早い。皆が負けじと奮闘する中、自分だけ敗北する事を知った上で戦う羽目になるなど、これ以上の酷もそうはあるまい」
淡々と説明を続けるアンへと、怪物が再び拳を振り上げる。
アンが受け止める素振りを見せると、すかさずエリアスがアンに身体強化の魔法を施した。
それでも、上から鋼鉄をを落としたような一撃が、片腕一本で受け止められるとは怪物も思わなかったのだろう。
たった数分前までの威勢はどこへやら。大人に悪戯がバレた子供のように怯え、震え始めた。
「さて、其方は確か……て、て……ベネドール家の三男であることはさっき知ったのだが。この魔眼、対象の名前がわからないのは、やはり親切じゃないな」
受け止めていた拳を強く掴み、体ごと回って手首を捻って体勢を崩す。
崩れ落ちて来た首根を捕まえ、締めあげながら持ち上げたアンは、すかさず胸座に剣を突き立てた。
怪物の口から、赤黒い体液が漏れ出てアンを濡らす。
しかしアンは手を離さず、さらにキツく首を締め上げた。
「困った。何か証明するものがないと、ベネドール家から賠償金を取れないな。かといって、これを生かして持ち帰ったところで、意味もないだろうし……仕方あるまい」
【くぉっ、くぉっ……!】
「エリアス、耳を塞いで背中を向けていると良い。ベンジャミン、其方は壁となって見せないでやれ。三秒後にやる」
言われた通りに二人がした三秒後、月と星しか明かりの無い夜には眩し過ぎる赤い炎が、怪物の体を焼き始めた。
断末魔を上げる怪物の声を聞くまいと、エリアスは必死に耳を塞ぐ。
段々と喉が水分を奪われ、声を上げる事さえ出来なくなった怪物は断末魔すら上げず、抵抗する力も奪われてグッタリと項垂れ、燃え上がる火柱の中で灰と化して焼き消された。
怪物にすでに戦意はなかった。
最期には涙を流し、命乞いまでしようとしていた。
が、アンには見えない。見えていない。
最初に自分に敵意が向けられた時点で、どちらかが殺し、殺される結末は変えられなかったし、変えるつもりなどなかったのだ。
そうしなければ、怪物はまたアンを狙って襲って来たかもしれない。
それを思えば、アンの選択は正しかったのだけれど、二人には彼女の正当性を弁護出来る自信などなかった。
「エリアス、ベンジャミン。この灰を掃除してくれるか。私では見落としがあるやもしれぬ」
「……わかった。にしても、灰になるまで燃やしちまうとはな」
「フム、惜しい事をした。何かしら奴の身元を特定できる物があれば、それを餌に貴族の遺産を総取り出来たのだが」
「鬼か悪魔か、あんたは。貴族からしてみれば大事な跡取り候補が一人消えた挙句、賠償金までむしり取られるんだから堪ったもんじゃねぇだろうよ」
「これから私達には金が必要不可欠になる。搾り取れるところから搾り取っておかねばなるまいよ――あぁ、なるほど。証拠がなければ、作れば良いか」
「は?」
「エリアス」
「は、はい!」
エリアスは再び、
囁く程度の小さな声で詠唱を紡ぎながら、灰を囲うように描かれた魔法陣が青白く輝くと、灰が密集してモゾモゾと蠢き始め、暫くして一つの形へと形成されていく。
白昼の騒動を窓越しに見ていたのか、デップリと肥えた胸で輝きを放っていたベネドール家の紋章が刻まれたブローチが完成した。
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