憤怒の罪

 手を翳せば、炎が出る。

 強く踏み込めば氷が這い巡り、指先を下ろせば雷霆が落ちる。


 幼少期、そんな魔法使いになりたかった。なれると信じていた。

 けれどそれは他人ひとの描く理想像で、出来たところで生かす場のない蛇足だった。


 炎が出せたから何が出来る。氷が出せれば何が出来て、雷霆を操って何をする。

 破壊だ。破壊する事しか出来ない。


 自分達の憧れたヒーローは、魔法使いは、人を超えた力を使って何をしていた。

 壊していただけだった。殺していただけだった。

 ただただ、世界から非道の限りを尽くす悪を、滅していただけだったのだ。


 自分もそうやって、自分が許せない悪逆を、自分の手で滅したかったのだ。

 正義を執行するという正当な理由で以て、悪逆を滅し、祓う爽快感を味わいたかっただけだったのだ。


 ただ、それだけだったのだ――。


  *  *  *  *  *


「どうだ、ベンジャミン。似合っているか?」

「あぁ、見違えたぜ。数分前まで奴隷だったなんて、誰も思わねぇだろうよ」


 先程までワンピース一枚だった少女エリアスは、さながら王道の修道女と魔法使いの装いを足して二で割ったような真白の意匠に身を包み、ツバの広い帽子を目深に被っていた。

 手には青白く光る宝玉がついた魔杖ロッドと、典型的な魔法使いの格好へと変わったものの、残念ながら盲目のアンには見えていない。


 当人は値段に関わらず何でも遠慮して、最悪今のままでいいとさえ言ってしまうので、服屋の店員に「魔法使いらしい装いにしてくれ」と頼み、今に至らせた次第である。

 結果、自身の思い描く姿へと変わったものの、姿を見る事の出来ないアンは惜しい表情かおをしていたが、ベンジャミンの称賛で自分自身を納得させたように微笑み、脚を組んで座り込んでいた体勢から跳ねるように立ち上がった。


「店主、これでいくらだ? 見えぬので読み上げてくれ」

「全部で四万六五〇〇円になります」

「五万行かないのか。安いな」


(そりゃあ三五億も使った後だからなぁ)と、ベンジャミンは金銭感覚の麻痺を訴えようと思ったが、止めた。

 次は自分の服を買ってもらうのだ。ここで機嫌を損ねて、まだお預けは困る。さすがに血生臭い囚人服を裏返して、果汁を絞って臭いを消すのにも、限界が近い。

 七日間も耐え忍んだのだし、ここらで新しい服を買ってくれないと、服の方が悲鳴を上げて破けてしまいそうだった。


「よし、良いだろう。ベンジャミン、支払いを頼む」

「はいはい……」


 と、麻袋から金貨を取り出そうとした時だった。


 バチィン、と何かを叩く音がした。

 ベンジャミンにはつい数日前――さらに言えば七日前まで常習的に聞こえていた音。人の体が叩かれた音だった。


 音のした窓の外へと視線をやると、デップリと太った巨漢の男が、首輪を嵌めた少女を相手に蹴る、踏むの暴行を続けていた。

 周囲にフルーツとバスケットが散乱している様を見ると、少女がフルーツの入ったバスケットを人とぶつかるか転ぶかして引っ繰り返し、主人の逆鱗に触れたのだろう。

 普通なら、そこらの人と同じく見て見ぬフリをするべきだろうが、血反吐まで吐きながらも泣く事も出来ず、必死に頭を下げて詫びる少女を見捨てる事は、聖人殺しの異名を取った狼男には出来なかった。


「どこへ?」

「外の騒動を止めに行く」

「私は支払いを命じたはずだ」

「後ででいいだろ」

「ダメだ。店主も商売でやっている。金のやり取りは公正にしなければなるまい」

「放っておけって言うのかよ!!!」

「落ち着けと言うに。其方は金のやり取りを済ませておけと、言っただけだ。

「あ、アン様……!」


 エリアスはアンを止めようとした。


 相手は見たところ、この土地に住まう貴族の家柄。

 貴族や王族に立て付いて碌な結末になった人などいないし、奴隷の扱いについて抗議した

ところで理解などされるはずもない。

 奴隷制度に異を唱える少数の人間が、奴隷を従える人間達の権力によってどれだけ悲惨な末路を辿ったか、商人から嫌と言う程、希望を削がれるために聞かされてきた。


 だから止めねばと駆け出したが、今まで口論していたはずのベンジャミンに止められた。

 完全にではなかったが、若干落ち着きを取り戻した様子のベンジャミンは、店主を相手にエリアスの服の代金を支払っている。

 すぐに止めなければならないのに、度々配られるベンジャミンの一瞥が許さなかった。


「おい、そこの典型的堕落貴族体系。いい加減止めてやらないか」

「何だぁ、貴様!!!」


 周囲で見ていた人達は、突然のアンの登場に驚きを禁じ得ない。


 止めた方が良いと促す視線は盲目の目には届かず、すぐに謝れと助言する声は、貴族に聞こえないよう潜められていたため聞こえない振りをする。

 皆がその場にいる事自体危険だと思いつつも、野次馬根性が働いて目が離せず、呆然と立ち尽くして事の顛末を見届けようとしていた。


「貴様! 我をベネドール家の長男、テテネ・ベネドールと知っての狼藉か!」

「知らぬ。生憎と盲目故な。が、この盲目の目にも余る言動が聞こえたため馳せ参じた。少女に乗せている足を今すぐにどけよ。周囲で見ている子供達が真似をしたらどうする」

「それこそ我の知った事ではないわ! 凡俗の育ちが悪いのは元からであろうが!」

「では其方の両親は凡俗の生まれか? 貴族に成り上がるとは立派なお方なのだろうが、生憎と教育に才はなかったらしい。公然で人を踏み付ける息子に育ててしまったのだからな」

「き、貴様ぁ……!!!」


 手を翳せば炎が出る。

 強く踏み出せば氷が出て、指を振り下ろせば雷霆が落ちる。


 そんな力を持ったとして、一体何が出来るのだろうか。

 前世の私は悟ってしまったのだ。知ってしまったのだ。わかってしまったのだ。

 そんな特異な能力は、あの世界に生きる人間にとっては、文字通り蛇に付ける足の如き蛇足であったのだと。だから誰も持っていないのだと。


 ではそんな力が必要な世界とは、一体どのような世界だろうかと考えた時、前世で答えは出なかった。


「この我を愚弄するとは、身の程を知れ――!?」


 死亡水準に近付く一歩手前まで血圧を上げ、目尻と眉間の血管を痙攣させて真っ赤に顔を染めたテテノが、腰に差していた魔杖ロッドをアンへと向けた時、ベルトが突然切れて、履いていたズボンがズレ落ちた。

 だらしない腹が垂れて正面からだと履いていないように見えてしまい、周囲の女性から悲鳴が上がる。

 テテノは慌ててズボンを掴み上げたが、留めるベルトがないので杖を向けられない。


「どうした。何かトラブルかな? まぁ、私には何も見えないが」

「べ、ベルトが……貴様何をしたっ!」

「ベルト? さてはベルトが切れたのか? 日々の怠慢と不摂生を私のせいにされても困るなぁ、テテノ・ベネドール殿?」


 余りにも的を得た反論が、周囲の人達の笑いのツボを刺激する。

 先程まで物々しく、テテノが優勢にあった雰囲気が一転。テテノは劣勢に立たされた挙句、皆の笑いのツボを刺激する坩堝とされたのだった。


「クソ、貴様何者だ! 名を名乗れ!!!」

「アン・サタナエル。わざわざ憶えるほどでもないが、いずれ嫌でも憶えるやもしれぬ名だ。今は忘れておいて構わないぞ」


 貴族に名前を知られれば、報復は免れない。

 だと言うのに、アンは一切迷いなく名を明かし、周囲に存在を知らしめた。

 テテノも「アン・サタナエル……」と、苦虫を嚙み潰すように歯を食いしばりながら、何度も反芻して名前を憶えた。


「アン・サタナエル! この屈辱は忘れぬぞ! ベネドール家が総力をかけて潰してやる故、覚悟しておるが良いぞ!」

「うん。構わないが、そのときはちゃんとしたベルトを巻いて来ることだな」


 再び周囲が笑い出したので、熟れたトマトのようになったテテノは奴隷を連れてそそくさと行ってしまった。


 テテノの姿が完全に消えたところで、周囲からアンへと拍手を送られる。

 アンは軽く手を上げて応えただけで、特別何も言わず、アピールも何もしなかった。


「姉御、やってやったな」

「さて、何の話かな?」

「と、すまんすまん」


 あくまで偶然という事にしておいた方が、まだ都合がいい。

 予備動作なし、ノーモーションで魔法を繰り出せるアンの技は、いつ繰り出したところで敵に見切られる切り札にならないという利点があるものの、知られてない方が都合がいい事は変わりなく、相手の不意をより効率よく付ける事に越した事はなかった。


「アン様……」


 信じられない、とばかりに見つめるエリアス。

 アンには顔こそ見えなかったが、向けられている視線とそれに乗る感情は感じ取っており、エリアスの頭を目深に被せられた帽子の上から撫で回した。


「案ずるな。言ったろう? 私は憤怒の罪。怒るような事があれば出て行ってしまうし、力を使ってしまうのが私の罪なのだ。だからこれからも度々、このような事があるだろうが……ついて来て欲しい」


 だからこそ、私は魔法使い――魔導剣士として、この世界に転生したと思うから。


「……はい、アン様。私、頑張ります」

「うん。だが、無理は禁物だぞ? 其方は暴食の罪。其方が欲する物、求める物を絶えず食す者なれば、其方のペースを見つけ出し、見出した物のみ食えば良い。悪食は体に毒故な」

「は、はい……!」


(本気でこいつに英雄をヤらせる気なのか……? 姉御。それは酷って話だぜ)


 聖人殺しは知っている。

 正義を翳したところで、それがどれだけの正当性を持っていたところで、殺人は殺人だ。殺人にしかなり得ない。

 正義を振りかざした手には返り血がこびり付いて、どれだけ洗っても取れやしない。

 周囲の目は等しく殺人者として評価し、向けられる視線の全ては冷徹の極みだ。


 自分からやり出したアンや、聖人殺しの汚名をすでに被っているベンジャミンは、目的を果たそうと果たせずとも、冷遇される覚悟はあるつもりだが、彼女は違う。

 巻き込まれているだけの彼女に、そんな度胸も覚悟もあるはずはない。これからそう遠くない先、彼女は確実に後悔するだろう。


 そうとわかっていながら、奴隷から解放された彼女を尚戦線に出すと言うのなら、彼女の――アン・サタナエルの怒りはそれだけの物なのだろうが。


 この世界における両親を殺された事への復讐か。両目を失った事への復讐か。


 何が彼女の逆鱗をそこまで刺激したのかが、ベンジャミンには未だ、わからなかった。

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