愛憎

義男は、その夜8時に家を出た。西野悠子のアパートに、着いたのはそれから30分後、まだ部屋には明かりが灯っていた。

「一度だけだ、ママに会いたい。」

独り言をいいながら、アパートの階段をゆっくりとあがる。義男は募る感情を抑え、206号室のインターホンを押した。中から優しい声が聞こえてきた。「はい、何でしょうか。」義男は、咄嗟に嘘をついた。

「このアパートに、引っ越してきた。田中と申します。ご挨拶に参りました。」何も持たずに挨拶に来てしまった事など、義男には考える余裕など無かった。

「そうですか、それはわざわざ、恐れ入ります。学生さんですか?」聡子は、義男が若く見えたので、ついそう言ってしまった。

「は、はい。そうです」

義男の緊張した態度が逆に、二人の距離を埋めることになった。

「ふふふ、良かったらお茶でもどうぞ。」

悠子が義男を部屋の中に入れた途端、義男は、思わず叫んだ。

「ママ!!」

「えっ?! 田中さん?どうしたんですか?」悠子のよそよそしさが、義男を逆上させた。「ママ。僕だよ。義男だよ!!なんで、わからないんだよ!!」気が付くと、義男は悠子の、か細い首を締め上げていた。隣の部屋で、子供が泣いていた。

「ママ!!ママが悪いんだ! ママが悪いんだ!ママが。」義男は、泣きながら目の前で絶命している悠子を見つめ、自分を救うように独り言をいい続けた。

そして義男は、自分の目の前で動かなくなった西野悠子を冷たい床にそっと置くと、子供の鳴き声すら聞こえないのか、淡々とその部屋を出て行った。それから、程なくしてパトカーがサイレンを鳴らしてアパートに着いた。アパートの住人が異常な叫び声に気付いて警察に連絡したのだった。



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