異世界は初めてがいっぱい。

「まずはちゃんと自己紹介しておこう。」

 黒猫はそう言って居住まいを正す。

「吾輩は猫である。――――ただ、千年を超えて生きて、人語も話せれば人の姿にも化けられる、ちょっと不思議な力も使えたりする、九本の尾をもつに至った猫又である。」

 そう言うと黒猫のお尻からさらに八本の尾が出てきて、合計九本の尻尾がフィールの前に現れた。

 九本の尻尾はそれぞれ色や柄が異なり、体と同じ黒い尻尾は一本だけである。たぶん、その黒い尻尾が最初の一本だったのだろう。

「名前は――――ネコである。名前も、ネコである。長いこと「吾輩は猫である。」と言い続けていたら、いつの間にかネコと呼ばれていた。フィールも気軽にネコと呼んでくれ。」

「分かりました。ネコ様。」

「――――様はいらないよ。」

「いいえ、ネコ様のことはネコ様とお呼びします。」

 興奮気味に黒猫に詰め寄って熱弁するフィールの姿に、何か頑固なものを感じたネコは仕方ないとあきらめて、ネコ様と呼ばれることにした。


「まずはお風呂に入っておいで。」

 吾輩は綺麗好きなんだ。だからドロドロのフィールにはお風呂に入って綺麗になってもらいたい。そう黒猫が告げた。が、

「お風呂ってなんですか?」

「……フィール、今まで体を綺麗にするのはどうやっていたんだい。」

「雨を浴びたり、川や湖があれば水浴びをしたりしてました。」

「それらが無い時は?」

「水が無ければ体は綺麗には出来ませんよ。」

「はぁ~、そうか、そうだったのか。なんと非文化的だったのだね。」

 野良猫の方がまだましじゃないのか。そう思うネコは、

「いいだろう。ついてきたまえ。一からお風呂の入り方を教えてあげよう。」

「ハイ、ネコ様。」



「きゃあああああああああああああああぁぁぁぁぁっぁぁぁぁ、水が、水が、わあああああああ、わあああああああああああ。」

 という訳でお風呂に入りに来たが、

「わああああああああああああああああああああ、何ですかこれええええええええええ、なんで水がいっぱい出てくるんですかああああああああああああああああああああああああああああ。」

 いやぁ、それはもう暴れる暴れる。

 シャワーを頭に浴びたフィールはお風呂に入れられた猫のように暴れまくったのです。

「ええい、ただのシャワーだよ。落ち着きなさい。」

「そんなこと言ったってえええええええええええ、うええええええええん、ネコ様何処ですかああああああああああああああ。」

「ええい分かったから、いったんシャワーは止めるよ。」

「うええええええええええん、びっくりしましたあああああ。」

「フィールは水浴びの経験はあるんだよね。」

「ありますよ。でもこんな風にブシャァァァァァァァって水が出たりしないですよ。しかもなんだか熱いですし。」

「38℃のぬるま湯だよ。でも、慣れてないと分からないものか。」

「なんなんですかこれは、魔法ですか。」

「魔法じゃないよ。ただの体を洗うための道具だよ。」

「こんなものがですか。」


 さて、散々暴れたが、シャワーを浴びたことで少しは、というかもともとがかなり汚かったので、シャワーだけでもかなり綺麗になった。

 垢と泥にまみれていた肌はその白さを見せてくれた。

 肌と同じく泥だらけだった髪も綺麗な銀髪をしていたことがようやくわかった。

 その銀髪も伸ばし放題だったため、かなりのボリュームになっていて体の輪郭が分からないほどだった。

 今は髪が濡れて肌に張り付いているので輪郭が分かりやすい。

 だがそれゆえに痛々しかった。

 年のころは10歳か少し上だろう。だが、

 フィールの体には目立つような大きな傷はなかったが、細かい傷跡がいくつもある。また、ちゃんと食べてないから体がかなぁり細かった。

 肌も栄養状態が悪く荒れている。

 簡単な傷跡程度ならネコの力で消せるが、栄養不足はきちんと食事を取らせないことにはどうにもならないだろう。

 それと、ようやく目が明けられたので目を覗き込むと、ルビーのようなきれいな赤色をしていた。


「ネコ様が浮いてる。」

 フィールはその赤い目を剥いて叫んでいた。

「コレが魔法だよ。言っただろう、少し不思議な力が使えるってさ。」

「このシャワー?っていうのも不思議ですけど。」

「それはこの世界では当たり前にある技術なんだけどな。」

 だけど、隔絶した科学技術は魔法と同じである。というSFの言葉もあるし、フィールにとっては同じものかな。そう思うネコだった。

「ネコ様が飛べるなんて驚きです。」

「ハハハ、猫だって千年も生きれば空の飛び方だって覚えられるさ。蛇だって、海で千年、山で千年、と生きて空に昇り龍になるんだから。」

「そうなんですか。ネコ様って博識です。」


「さて、湯船にお湯を張ってる間に髪と体を洗ってしまおう。」

「流すだけじゃダメですか。」

「ダメ。」

「ネコ様がやってくれたりはしないですか。」

「ダメだよ。自分でできるようにならなくちゃ。それにこの手じゃ爪が立っちゃうよ。」

「人のお姿にはならないのですか。」

「ソレもダメ。吾輩は雄だからね。うら若い乙女が男とお風呂に入るのは生涯を誓った相手だけだよ。」

「ならば問題ありません。」

 フィールは宙に浮くネコの前足を掴んで宣言する。

「ワタシはネコ様と生涯を添い遂げると誓いました。」

「いや、アレはそう意味では。それに吾輩からの一方的な契約だったし。」

「ならばここで改めて誓います。ワタシ、フィールはネコ様と生涯を添い遂げることを誓います。」

「……。」

「ネコ様は?ネコ様は誓ってくれないですか。」

「……いや、誓おう。病める時も、健やかなる時も、フィールと共に過ごし、添い遂げることを誓います。」

「へへへ、ネコ様、改めましてよろしく、ですね。」


「ほほぉう、コレがネコ様の人間のお姿。」

 改めて誓いを口にしあった後、ネコはフィールの前に人に化けた姿をさらしている。

「おぉう、ご立派ですね。カチコチじゃないですか。」

 もちろんお風呂に入っているのだからネコも裸である。というか元から裸である。

「こら、何処を見てるんだ。」

「お腹です。ネコ様のお腹、猫の時はフニフニで柔らかそうだったのに、人の姿になるとカチコチみたいなムキムキです。」

「吾輩、これでも鍛えているからね。」

「お顔は優しそうなお爺さんなのに。」

「年が年だからね。猫のときは黒いのに、人になると見事に真っ白になっているのだよ。」

 そう言って、真っ白ながらもふさふさの髪をなでる。

「お髭もキュートです。」

「お、分かるかい。この髭こそ吾輩のチャームポイントなのさ。」

 浴室に渋い声が反響した。


「それでは髪を洗うよ。」

「ハイお願いします。」

「まずはこのシャンプーというものを使う。」

「シャンプーですか。」

「そう、石鹸の代わりに髪を洗うためのモノだよ。」

「石鹸、それってすごい高級品じゃないですか。まさかそれも。」

「いやこれはそう言うほどの値段じゃないよ。」

「それでも、私なんかに使っていいんですか。」

「いいの。女の子は髪を大事にしないとダメなの。分かった。」

「分かりました。ネコ様。――――それでこれはどう使うのですか。」

「これはね、まずこの尖がっているくちばしのようなモノの先に手を添えて、それから頭の上を押して上下にピストンすると。」

 どぴゅっ、どぴゅっ。

「あ、先っぽから白くてドロドロしたものが出てきました。」

「表現。」

「?はい。」

「何でもない、……でこれがシャンプーなんだが、これを手でモミモミすると。」

「わぁ、泡が立ってきました。ほんとに石鹸みたいです。」

「そうだろう。でこれを髪に馴染ませて、優しく洗ってあげる。ほら、前を見てごらん。鏡にフィールの姿が映っているよ。」

「前?、これ鏡って言うですか。このネコ様の前に居るのがワタシ――――」

「鏡を見るのは初めてかい。」

「ハイ、コレがワタシ……。って、なんか頭がモコモコになってきました。」

「髪を洗うとこうなるよ、って、フィール、目、目をつぶって、泡が目に入ったら――――」

「みにゃああああああああああああああああああああああああ、

目が、目があああああああああああああああああああああああ、痛いですうううう。しみるですうううううううう。」

「今洗い流すから、擦っちゃだめだよ。」


「それじゃあ改めて髪を洗うからね。」

 目に泡が入ったフィールはそれまた暴れたものだが、ちゃんと説明を聞けば納得して髪を洗わせてくれた。

「フィール、かゆいところはないかい。」

「かゆいところ言われても、なんか頭全部がむずむずする。」

 そう返すフィールの髪はすごく長い、おまけに今までちゃんと洗っていなかったので洗うのに時間がかかってしまった。

「どうだい、むずむずはとれたかい。」

「ハイです。すごっくスーとします。やっぱりネコ様すごい。」

「これは吾輩がすごいんじゃないんだけどね。」

「ネコ様、次はなにをシコシコしてるですか。」

「だから言い方。これはコンディショナーだよ。」

 フィールの髪は長い、だからシコシコの回数も多くなる。

「シャンプーとは違うですか。」

「これはシャンプーの後に使って、髪を傷めないようにするものだよ。」

「そうなのですか。」

「ハイ、流すから目をつぶってぇ。」

 ジャバアァァァァァァァ。

「それじゃあ、次は体を洗っていこうか。」


「いいかい、ここ、おへそっていうんだけどここをくりくりって。」

「うっ、ネコ様――――キモチイイ。」

「そうかい。良かった。おへそは汚れが溜まりやすいからね、気持ちいいのは綺麗になってる証拠さ。」

「そうなのか。ありがとうネコ様。」

「それじゃあ、次はバンザーイってして。」

「分かったのだ。」

「じゃあワキを洗うよ。」

「キャハハハハハハハ。くすっぐたーい。」

 バンザイしたフィールのツルリとしたワキをアワアワにしたタオルでこすると、フィールは慣れない刺激にくぐったがる。

「こら、暴れない。ここもちゃんと綺麗にしないとダメなんだよ。」

「きゃはははははははははははははははははははははははは。」


「で、この足の指の間は入念に洗うんだよ。」

「分かったよネコ様。」

「それで最後の場所だけど、……最後だけど。」

「どうしたのだよ、ネコ様。」

「その……だな、そ、そうだ、最後の場所はフィール、自分で洗ってみよう。」

「え、自分で。」

「今まで吾輩が洗っていたのを見ていただろう。あれと同じようにやってみればいいんだよ。」

「う、うーん、……分かったのだ。ネコ様みたいにやってみるのだ。」

「うむ、その意気や良し。それじゃあ泡立てるところから始めようか。」

「ハイ。たしかタオルに石鹸を擦って。うんしょ、うんしょ。」

「よし、キレイに泡立ったな。」

「あとはこれでをごしごしすればいいんだよな。」

「うん、そうだよ。でもあんまり力を入れすぎないようにね。」

「わかった。うんしょ、うんしょ、お股をごしごしっと、んっ、キモチヨクなってきた。」

「そうか、それはキレイになってるってことだよ。」

「そうか。ワタシのお股キレイになってるのか。ネコ様見ててくれてる。」

「見てるよ~。」

 嘘である。

 ネコは猫であるが同時に雄でもあるのだ。そして、雄であるが紳士でもある。

 その紳士の矜持がフィールのソコから目をそらさせていた。

「見て見て、ネコ様~。キレイになってるか。」

「フィールから見て、吾輩が洗った場所と同じようになっているかい。」

「うん、ツルッツルのピッカピカだよ。」

「ごほん!うん、それならいい。これから自分で洗うのに分からないと困るからな。」

「え~、もしかして、ネコ様これからは洗ってくれないのか。」

「そうだよ。これからは1人でお風呂に入れるようにならないと。」

「え~、やだ、ネコ様に洗ってもらった方がキモチイイ。ネコ様と一緒のお風呂がいい。」

「いや、そうは言っても――――。」

「…………ダメ?」

 フィールに上目使いで懇願されて、紳士の矜持とフィールへの思いやりを天秤にかけたところ、猫が出した答えは、

「……たまに、だぞ。」

 だった。

「やったぁ。」


「ふ~、極楽極楽。」

「お、おおおお、おおおおおおおおおおおおおお~~~~。」

 猫の姿に戻ったネコを抱っこするように、フィールはゆっくりと湯船に身体を沈めた。

「どうだいフィール、初めてのお風呂の感想は。」

「す、すっっっっごく、キモチがイイです。」

「それは良かった。これが日本の文化だよ。」

「こんなキモチイイの今日が初めてです。一生の思い出です。」

「……明日からも毎日入るんだよ。」

「え!毎日。そんな贅沢な。」

 フィールが驚いて激しく動いたので、お湯がはねてネコの顔に掛かる。ネコはそれを前足でぬぐいながら教える。

「この世界ではそれが普通だから。汚れたままだと他の人に笑われちゃうよ。」

「それだとネコ様困りますか。」

「うん、フィールが笑われるのは吾輩の恥だ。」

「分かりました。毎日キレイキレイにします。」

「うんうん。」


「ところで、ネコ様どうして猫の姿に戻ったの。」

「吾輩こっちの姿のほうが落ち着くのだよ。それに、人の姿は何かと不便でね、あれでは魔法のひとつも使えないのだ。だから人の姿になるのは人に成らなければ出来ないことをする時ぐらいなのさ。」

「人の姿じゃないとできないこと?」

「そうだよ。この世界では普通、猫は人の言葉をしゃべらないからね。」

「フィールの世界でも猫は喋りませんでした。」

「吾輩は特別だが、年を経た猫は人の言葉を覚えるものなのだよ。」

「へ~。」

「それじゃぁ、上がる前に10数えようか。」

「ジュウ?」

「数字の10だよ1から10まで数えられるかい。」

「それくらいできますよ。」

「それじゃあやってみようか。」

「はい。――1~、2~、3~、4~、5~、6~、7~、8~、9~、10!」


 お風呂から上がった2人、もとい、1人と1匹はタオルでしっかりと拭いて――――


「きゃあああああああああああああああああああああああああ、なにこれ、なにこれええええええええええええええええええ。」

「何ってドライヤーだよ。」

「うわああああああああああああああああああああああああん、熱いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい。」

 フィールにとって異世界は初めてだらけだった。

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