第五十五話



 サマラーシャは、自分に逆らった黒牙獣ワラウスを手なずけている粗末な装いの娘が領主の奥方しかも隣国の王族と理解した瞬間、


「ぉわ、あ、あの、あっ、う、ふぁっ……」


 とても狼狽ろうばいした挙げ句、

「たっ、たいへんひちゅれいいたひまひたっ!」

 噛みまくりながら、素早く礼をした。


 その身のこなし、美しい姿勢。


 何故か、見覚えがあるような。


 不思議に思いながら、マイラは進み出てサマラーシャの肩にそっと手を置いた。

「どうか頭を上げて下さい。このウェイダの人たちはこの子が私の友だと知っていますが、他から来る方々はご存知ぞんじないこと。このような、領外の方たちもよく訪れる人目のつく場所で連れ歩いている私も悪いのですから」

「いえ、これはわたくしの非でございます殿下」

 一転、まるで武人のようなはきはきとした受け答え。サマラーシャは頭を下げたまま続ける。

「そこの黒牙獣が他とは違うことは承知しておりましたが……少々、いえ、大変、浅はかな考えを、してしまい」

 わざとだったのか。

 すると、サマラーシャをかばうように、ティドラも前に出てきてひざまずいた。

「申し訳ございません! おいさめすべき立場にありながら、お嬢様……主人を止めることなくっ、」

 どうやら彼も本意ではなくあんなことをしていたらしい。マイラは納得した。レイシャがおとなしかったのは、己に無礼を働こうとする前に何らかのやりとりを見ていたか、何かあると察していたのだろう。でなければ今頃ここには血まみれのティドラが横たわっていたに違いない。

「事情がおありのようですね。……私がお力になれそうなことはありますか?」

 そろって勢いよく顔を上げた主従は、

「人を、探しております」

「国境警備隊の者なのですが、その……ちょっと、騒ぎを起こせば、誰かしら来ていただけるかと……思ってしまいまして……」

 口々に言う。

「成程」

 マイラは頷いた。国境警備隊は一応軍の所属ということになってはいるので、国境の警邏けいらだけではなく騒ぎがあれば収めたり、犯罪者が出れば捕らえて司法院に送致しなければならない役目も負っている。しかしウェイダ領はトウキに力を持たせないために配された人員は他よりも少なく、ロナル鉱山と温泉街の辺りも国境付近ではないため、通常は警邏はしていない。隊員の中にはこの近辺に居住している者もいないわけではないが、住民の全員が国境警備隊に誰が属しているかなんて知っているとは限らない。

 どうぞお立ち下さい、とうながし、二人が立ち上がってから、問う。

「国境警備隊なら、私も親しくさせていただいている方が大勢います。どなたをお探しなのですか?」

 サマラーシャは、ひとつ息をついて己を落ち着かせてから、口を開いた。

「チュフィン・ワバール・ロウ。ご存知でしょうか?」

 あまりにもよく知った名。それを聞いた瞬間、何かが頭の中にちらついた気がしたが――それが何なのかは、よくわからない。

「チュフィンさん、ですか」


 そこへ、


「サマラ様! あぁ、もうだから言ったのに!」


 馬車から、今度は若い女が出てきた。


 マイラを見るなり、ずかずかと近付いてきた彼女は、

「ちょっと貴女あなた、うちのお嬢様に一体何を」

 今にも食ってかかろうかという勢いであったが、ティドラが割って入る。

「やめろチャヴェダ、この方は領主様の奥方、ファンロンの姫君だ!」

「えっ…………あっ、…………」

 ティドラとチャヴェダという名らしい女性は視線を合わせると、揃って前に出てマイラに対して最上の礼をした。よく見ると顔立ちがそっくりだ。


「申し遅れました、手前、キルプ家にお仕えしておりますティドラ・ナビリ、これは妹のチャヴェダ。数々のご無礼、どうかお許し下さいませ、殿下」


 またしても頭を下げられたマイラが、


「あ、あの、もう、そういうの、いいですから……」


 困ったように苦笑いすると、レイシャは呆れたように、またあくびをした。



     ◎     ◎     ◎



 ウェイダ領国境警備隊の詰所に一人のお嬢様を連れた領主の奥方様がやってきたのは、昼食を摂り終わった隊員たちが務めを再開しようとした矢先のことである。普段から友たる黒牙獣の背を借り領地を駆け回っている奥方様はともかく、立派な身なりをしたそのどこぞの令嬢が、一人で馬に乗っている――それを見た隊員たちは、驚いた。ウェイダ領には馬に乗る女性がそれなりにいるので、それに関して見慣れていないわけではない。しかし、その若い娘はどう見ても、自ら馬に乗る必要性がなさそうなのに、だいぶん慣れた様子なのだ。

「すげーな、あんなカッコでこんなとこまで乗ってきたんか。宿あるとこから結構距離あんのに」

「奥様みたいな子なのかな」

「いやでも、奥様山育ちだって言ってたじゃん」

 双子のオリウとシェスクリーダが玄関近くの窓から覗きながらこそこそ話すそばから何事かと思い様子をうかがったチュフィン・ロウは、目を見張った。


「え、何で」


 聞き逃さなかった双子が反応する。

「何なに!? 副長の知り合い!?」

「結構かわいくねっすか!? え、もしかして」

 そんなことを言うものだから周囲も密やかに沸き立つが、チュフィンは難しい顔をしたままだ。

 そこへ騒ぎを聞きつけ階上の隊長室から降りてきたトウキが声を掛ける。

「やっぱりあの書簡、実家で何かあったんじゃないのか」

「…………」

「わざわざ都からお前に会いに来たんだ。話をしてこい」

「でも」

「命令」

「こんなので上官権限使わんで下さい」

 渋々玄関から出て行くと、気付いたマイラが駆け寄ってきた。

「お仕事中に突然すみません。あの、お客様、サマラーシャ様が、急ぐからどうしても今日チュフィンさんにお会いしたいって」

「急ぎ?」

「あ、えと、人命に関わると」

「人命?」

 思わず馬とレイシャと共に待っているサマラーシャを見やると、目が合った彼女は意を決したような顔で静かに近付いてきて、礼をした。

「お久しぶりです」

「……サマラ、どういうことだ、こんなとこまで」


 何しに、と言うより早く。


 サマラーシャは、チュフィンに抱き付いた。


 見ていた国境警備隊の面々は、おぉ、と更に沸き、マイラはぎょっとしたが、当のチュフィンは、


「こら」


 冷静に、サマラーシャを引き剥がした。

「幾つになったと思ってんだ、もう二十歳はたちだろ? 子どもじゃないんだから人前でこんな」

「帰ってきて下さい! すぐに!」

 チュフィンの言葉を再度さえぎり、サマラーシャはすがりながら声を張り上げた。

「早く、早くしないとっ……死んでしまいます!」

 チュフィンの表情が変わる。

「死ぬ!? 誰が!? ゾマルス様がか!?」

「違います!」

「じゃあ誰が」


 僅かに色味の違う明るい緑色の目が、にらみ合うように違いを見つめる。


 深呼吸をしてから、薄く紅の引かれた唇が動いた。


「ヴォレイツ・スン・ロウが、です」


 静かに告げられた名を聞いたチュフィンは、一歩、下がった。


「行かない。帰れサマラーシャ」




 そのまま外で話をするのも、と、トウキは華やかな都からの客人と副隊長を一旦隊長室に招き入れた。赤の他人がいれば冷静に話し合いができるだろうというのもあった。


 が、


「何で帰らないとか言うの! 生まれ育った実家なのよ!?」

「お前、俺とあのおっさんがお互い死ぬほど嫌い合ってるのわかってるよな!? くたばる!? ざまあみやがれだよあっちだって死に際に不出来な息子のツラなんか見たいと思っちゃいねーよ!」

「だとしても貴方はあの家の息子でしょう! 表向きだけでもそういう姿勢を見せた方が」

「嫌だね絶対嫌だ!! 何が家だ、できれば捨ててやりたいわこんな名前!」


 激しい。双方、それなりにいい家の出とは思えないほどの怒鳴り合いである。


 ついさっき会ったばかりのサマラーシャはともかく、チュフィンのこんな姿を初めて目の当たりにし困惑したマイラが、椅子に座って机で頬杖ついているトウキにそっと近づき、問うた。

「あの、旦那様、その、これは……大丈夫、なのですか?」

「気が済むまでやらせてやってくれ。久々の再会だしあの二人にとってロウ家のことは永遠の課題だ」

「旦那様は、サマラーシャ様のことをご存知なのですか?」

「ああ、まぁ、そうだな…………大きくなった、のに、…………あまり変わらないな……」

 そういえば、チュフィンとは子どもの頃からの付き合いだと聞いている。チュフィンと親しいらしい彼女のことを、トウキが知っているのも無理はない話だ。

「……旦那様。チュフィンさんとサマラーシャ様は、一体どのような」

 サマラーシャの父は財務大臣、チュフィンの父はその補佐官。親同士が上司と部下で繋がりがないわけではないが、それにしても――更に疑問を口にすると、トウキの表情がぎこちなくなった。

「……俺の口から言っていいものか……」

「え、と、それ、は……」

 などと夫婦で話していた矢先、


「ふ……うぅ、う~っ」


 サマラーシャが、泣き出してしまった。

 怒りの眼差しを向けたまま、ぽろぽろ涙を零す。


 しかしチュフィンはむすっとしたままだ。


「泣いたって無駄だ、絶対帰らない」

「なんで、なんでよおにーさま! あたしがこんなに頼んでるのに! 何でよぉ!?」


「んっ?」


 今彼女は何と言ったのか。マイラが夫に視線を送るが、

「これはチュフィンが折れるか」

 小さく溜め息をつき、苦笑するのみ。

「え、え?」

 疑問に答えるべく、トウキは妻に視線を移した。


「サマラは……元の名は、サマラーシャ・ナウン・ロウという。キルプ財務大臣のところへ養子に出された、チュフィンの実の妹だ」



     ◎     ◎     ◎



「サマラーシャ様は、チュフィンさんと今でも睦まじくていらっしゃるのですね」

 ロナル山の麓の宿へと戻る途中、レイシャの背に乗りサマラーシャの馬に並ぶマイラが言うと、馬上のサマラーシャは泣きらした目をごしごしとこすった。気合いを入れてほどこしただろう化粧がすっかりぼろぼろだ。

「どうぞ、サマラとお呼び下さいませ殿下」

「ではサマラ様も、私のことは殿下ではなくマイラと」

「承知致しました」

 微笑む顔、目元も、鼻筋も、唇の形も、よく見れば少し兄に似ている。既視感の正体はこれだったか。

「兄は、毎月、書簡を送ってくれるのです。毎年、誕生日の贈り物も。わざわざちゃんと、キルプ家の方の父――ゾマルス様の許可を取って。生家で優しくしてくれたのはあの人だけでした。喧嘩けんかもたくさんしましたが」

 つらそうな過去を示す言葉にマイラが僅かに顔をくもらせるが、サマラーシャは何ともなさそうに笑った。

「お気になさらないで下さいませ。冷遇されたといえばそうなのですけれど、あの人がずっと構って下さっていたお陰で、わたくしかなり図太いのですよ」

「あの……お父様の、お加減は、本当に」

 笑顔が消える。

「あと一月ひとつき、もつかどうかだそうです。昨年の暮れ、ゾマルス様と共に軍の本部に向かう途中に倒れたと聞きます。それからずっと寝たきりですから、悪化が早かったのでしょう。それでゾマルス様も、わたくしであれば兄を連れ帰ることができるのではと、こたびのウェイダ行きを許して下さったのですが」

 それならば、本当に早く帰った方がいいのではないか。しかしチュフィンは心底父を嫌悪しているようだった。

「チュフィンさんは……お父様のこと、そんなに」

「あの人、要領がいいでしょう? 上の兄たちよりも立ち回りが上手くて人当たりがいいので、それなりの役職に就けば父よりも上を目指せる人だと思います。ですが、どうしても父とそりが合わないといいますか。きょうだいの中では一番出来がいいのに、一番父の言うことを聞かない。わたくしも役に立たない女子だからといとわれてはいましたけれど、父はそれ以上に、兄が自分の思い通りにならない方が気に入らなかった。だから、反発し合っていたのでしょうね」

 根深い問題だ、と聞きながらマイラは思った。いつもほがらかで優しい彼が、まさかそんな幼少期を過ごしていただなんて。

「兄やわたくしだけではありません。あの男に従ってきた上の兄たちも、おそらく優しくされたことなんてないのです。……それでも、一応家が家ですし、一応親ですから。揃って見送るぐらいはしなければ」

 たくさん話して少し疲れたか、サマラーシャは大きく、息を吸って、吐いた。

「限られた時間ですものね。何とかして、早く兄を説得して連れ帰る、それがわたくしの務め。明日も頑張ってみます。マイラ様、本日は本当に、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました」

「あ、」

 もう少しで温泉街に入るというところで、サマラーシャは馬の腹を蹴り、マイラの返事を聞くより早く駆けていった。マイラに無駄な心配をかけさせまいとしたか。初めて顔を合わせたときに高圧的なお嬢様のように演じていたのも、国境の領地ということで気を張っていたのだろう。本来は、気遣いのできる善良で快活な娘なのだ。

 そんな彼女が、実の父の死を前に、兄を思って動いている。


(私が口を挟むべきことではない……けど……)


 チュフィンに後悔してほしくない。


 たとえ憎み嫌い合っている相手なのだとしても。

 掛ける言葉が文句ひとつか罵倒ばとうになってしまうかもしれないとしても。


 何とかならないものか。


(旦那様なら……何とか、してくれないかなぁ)



     ◎     ◎     ◎



 深夜。

 ファンロン側の国境見回りの夜営地で、チュフィン・ロウは焚火たきびを前に椅子に座り酒の入った小さな瓶に口を付けていたが、背後に現れた気配に動きを止めた。

「お前が仕事中に酒を飲むとは珍しい」

 振り返ると上司。火に照らされた赤い髪は燃えるかのように光を含み、その奥の金色の目が、星のように見える。チュフィンは思う――顔“は”いいんだよなこの人、龍女の息子だけあって。

「詰所番が抜け出してきちゃダメでしょ……うゎ」

 トウキの後ろから出てきたスニヤが、体ごとチュフィンにり寄った。細くやわらかい被毛に包まれた尾がくねくね動いて顔をくすぐる。

「ちょ、スニ、ぷっ、やめ」

「『帰れ』と命じるのは簡単だが」

 チュフィンの手から酒瓶を取り上げ、一口飲んで、返す。

「どうしたい?」

 スニヤの頬を掻くように撫でてやりながら、応える。

「帰りたくないですよ。会いたくない。会ったらきっと、またお互い気分悪くなって終わる」

「いいじゃないか、嫌いなんだろう? ヴォレイツどのをむしゃくしゃさせたままかせてやればいい。お前はこの先まだ生きるんだ、すっきりできる。ついでに目の届かない場所で武官としてこんなに立派に成長しましたと礼装で帯剣した姿でも見せてやれ。悔しがるぞ」

 チュフィンは吹き出した。

「っははは、すっげぇ嫌がらせ! あんた、案外ろくでもないこと言うな!」

「龍女アルマトの息子だからな」

「ふふ、そうでしたねぇ…………あー、」


 二人と一匹で、ふと、見上げる。木々の合間から覗くのは、まさしく夜の乙女の衣、細かな宝石が散りばめられたような星空だ。


「帰りたくねぇ~」

「エシュに何かいいものを買いに行くと考えろ」

「あ、それ、いっすね…………いや、やっぱり帰りたくねぇ~」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る