幕間

40.5/苦悩と甘い黄昏



「隊長ー、昼飯の時間ですよー」

 開扉かいひの合図と共にウェイダ領国境警備隊副隊長チュフィンが隊長室に入ると、来月の警備隊の行動日程表を作成していたはずの隊長トウキ・ウィイ・アヴィロは机の上に伏せていた。広げられた紙は、まさかの新雪の如き純白。

「えぇー、嘘だろなんもやってないじゃん……どうしたんですかトウキ様。ほら飯」

 チュフィンは住まいにと借りている小屋があるが馬を管理する場所がなく、近くにあるトウキの屋敷に愛馬ラゲを預けているため、警備隊の詰所に出勤する前に屋敷にやって来て、そのときにエシュから昼食の弁当を受け取る。トウキと出勤が重なる日は何故かトウキの分も預かる。

 預かっていた荷袋から弁当の入った包みを取り出し上司の頭のすぐそばに置くと、赤い髪がずるりと動き、上半身がゆっくり持ち上がる。金色の目はうつろ。色彩は鮮やかなのに陰気だ。この雰囲気は。

「……奥様と何かありました?」

「ひぅっ」

 息を吸うような小さな悲鳴。図星らしい。とはいえ、明るく真っ直ぐな奥方相手では喧嘩けんかをしたとも思えないし、そもそもこの男は奥方に甘い。またしょうもないことで悩んでるな――察したチュフィンは軽く嘆息した。

「聞きますよ」

「や、う……うぅ」

「話したくないなら別にいいですけど」

「あぅ、あ」

「どっち!」

「チュフィン」

 トウキは副官の腕を掴んだ。泣きそうな顔をしている。

「どうしよう」

「何が」

「くちっ、…………」

「くち?」

「……う、あぉぅ」

 また机に突っ伏してしまった。それを見たチュフィンは、


(ほんと、この人じゃなくてリュセイ様が陛下になってよかったな……)


 何となく、しかしやや真剣にそう思った。あまりにも頼りなく情けない。地方の小部隊のおさ程度なら周囲に支えられることで何とか務まるが、国を統べる者には全く向いていない。過去の騒動の際に彼を持ち上げていた者は本当に何もわからずに血筋だけで騒いでいたのだと考えると、心底呆れてしまう。こんなのが国主になったら国は一月ももたないだろう。

 再度嘆息し、荷袋から自分の分の弁当の包みを取り出して上司の対面に置くと、


「椅子と水持ってきますから心の準備しといて下さい」


 そう言って副隊長は隊長室を出たのだが、程なくして、


「っつれーしやァス」

「なにー? なになにー? 隊長奥様と何かあったってぇ?」


 隊長室の扉を叩きもせずに、今度は双子の兄弟オリウとシェスクリーダが各々昼食の乗った盆を持ってどかどかと入った。その後ろに続く副官を、トウキは恨めしそうににらむ。

「チュフィン・ロウ……お前……」

「だってオリウ既婚者として先輩だから何かいいこと言ってくれるかなって」

「オリウがいたらシェーダがついてくるのは自明の理だろう!」

 言われて双子は隊長室の大きな机に盆を置き、腕を組む。

「俺、シェーダがいた方が安心するんで!」

「既婚者の意見を今後の参考にしたいんで!」

 明らかに面白がっているだけである。その僅かな隙間をぬって、小柄な最年少隊員ウァルトが顔を出した。

「あの、お水で~す……」

 盆の上には人数分の水飲み椀と水差し。こいつらここで食事をとろうというのか――トウキは大きな大きな溜め息をついた。

「全員出ていけ」

 双子は揃って、えー、と不満の声を上げ、ウァルトはおろおろする。

「えっ、えぇと、これ……はい、じゃあ隊長のだけ」

「全部置いてっていいよウァルト。お前も椅子と飯持ってきな」

 副隊長の言葉に少年は更に戸惑う。

「でも、副長」

「お前も里に残した許嫁いいなずけとより良い関係を築きたいだろう聞いていけ俺もそうするエシュとの明るい未来のために」

「え、いや、あの、えっ、副長何でそれ知って」

 双子がウァルトを挟み込む。

「なにー? お前許嫁とかいんの? ナっマイキー!」

「さっすがお貴族様のご子息ゥ~! 副長、後でこいつの話も聞こうぜ」

「歳上らしいぞ」

「マージかー!」

「ちょ、なっ、副長!」

 何やらこちらから意識が逸れた上にぐだぐだになってきた。ちょうどいい、このまま忘れてしまえ――トウキは騒ぐ部下たちを放置し、弁当の包みを開けて、神に祈ってから、さっさと昼食をとり始める。午前中に何もしなかったから、午後はちゃんと仕事をしなければならない。気付いたチュフィンがとがめた。

「あ、ちょっと! 何勝手に! ウァルト、早く持ってこい!」

「はいっ!」

 慌てて出ていくウァルトをよそに、副隊長と双子は各々机に向かって椅子を並べて食事を開始した。ウェイダ領国境警備隊の面々は、双子やウァルトのように詰所で当番が作った食事をとるのがほとんどだ。トウキとチュフィンが昼食分だけ、しかも微々たる量ながらも自分の分の食材を他の隊員に回せるようにと食事を持参していることを、隊員たちは知らない。

「そんで、トウキ様。奥様と何あったんです?」

 チュフィンが椀に水を注ぎながら話を振るが、トウキは目を逸らす。

「……別に、何も」

「嘘だ絶対何かある~」

「吐いちゃえよ隊長~」

 絡む双子に、眉間に皺が寄る。

「お前たちのその目上の者に対する礼と態度がなってないのをどうにかしたら話してもいい」

「ケチくせ! あ、そうだ隊長」

 オリウが椀に入った汁物を飲み干した。

「メイが子ども産んだ後も働きたいつってるんですけど、だいじょぶです?」

「何だ、出来たのか」

「いやまだ。そろそろどうかって話してて」

 ふむ、と唸り、トウキは現在屋敷に仕えている者たちを思い浮かべた。皆それぞれ得手不得手があるので、それに合わせて役割を振っている。

「フィーメイは貴重な腕のいい針子だからな、本人にその気があるのなら、これからもいてもらえると助かる」

「おっし!」

「そういえば来月サーカがチェグルに嫁ぐからまた減るんだが、誰かいい人材を知らないか」

「シウル姐さんに続いてサーカもかぁ。サーカ……あのちっこいのがもう嫁に……」

「つーかさぁ、隊長」

 汁物の椀を空にしたシェーダが煮戻し味付けした茶角鹿の干し肉が挟まったパンを手に取る。

「隊長んとこは? お子さんどーすんの?」


 その言葉に、隊長は静止した。固まった、と言ってもいい。


 副隊長が視線を送り、声には出さずに口の動きだけで「バカ」と言うと、発言者は困惑した。

「え? え? なに?」

「シェーダ、お前やっぱり退場」

「えぇ!? なんで!?」

 オリウがパンを掴んだままの弟を椅子から引きずり下ろしてそのまま部屋の外まで連れていく。入れ替わりにウァルトが入室してきた。実にせわしない。

「再び失礼しまーす、あの、今フェディオルゼさんのお母さんがファンロンからの帰りに寄ってくれて、『小ぶりだけどみんなで食べて』って、二つずつ」

 ウァルトの昼食の膳には、大陸南方のあたたかい地域で栽培されている果物ケイツェも乗っている。たった今出ていった双子の分も入れた人数分。チュフィンが歓喜の声を上げながら手を伸ばした。

「おっ、今年の初物! エシュにあげよ~。ウァルト、そこ空いたから座っていいぞ」

「オリウさんとシェスクリーダさんは?」

「シェーダが退場になったからオリウが連れてった。どっちも飯終わってるっぽいから大丈夫」

 はぁ、といまいち理解しきれないような顔で返事をして先輩の外した席に腰を下ろしたウァルトは、手も口も動かさずただ虚ろな目をしている隊長の顔を覗き込んだ。

「隊長?」

 僅かに、金色の目が動いた。

「ウァルト・キヤ・サミ」

 小さく呼ばれる。

「はい」

「ちょっと」

「はい?」

 招かれたので傍まで行くと、トウキはウァルトに耳打ちをした。その言葉に、ウァルトの顔が赤くなる。

「あっ……あのっ、隊長っ……」

「どうなんだ?」

「それ僕に訊くことじゃなくないですか!?」

「……お前が一番真面目に聞いて答えてくれると思って」

「そういうのは副長に訊いてくださいっ、付き合い長いんでしょっ!」

 怒りながら、ウァルトは盆の上のケイツェを机の上に手早くも傷まぬよう丁寧に置いて、そこから自分の分け前をまた盆に乗せ、昼食を持って出ていってしまった。食べ終えそのままになっていたオリウの膳を自分の方へ引き寄せて、チュフィンは何度目かの溜め息をつく。

「結局俺だけが聞く羽目になるのか……」

「別に聞かなくてもいい」

 素っ気なく言って食事を再開する上官に、チュフィンは呆れた眼差しを向けた。

「そんなことないって思ってるかもしれないけど。あんたの元気がないと警備隊の士気に関わるんですからねぇ」

「…………」

「あんたが何だか頼りないのも、頼りないなりにもちゃんとやろうって頑張ってんのも、上手くやっていけるように全員に気を配ろうとしてるのも、あいつらはわかってます。だから誰も反発せずに言うこと聞いて、あんたを支えようとしてるんでしょ。あんたはあいつらを不安にさせるようなことはできるだけしちゃダメなんですよ。ふにゃふにゃながらにドンと構えててくれなきゃ」

「誰がふにゃふにゃだ」

「ふにゃふにゃでしょうよ、育ちの良さにじみ出るどころかあふれ出て滝のようですよ殿下」

「もう殿下じゃない」

「元殿下」

「言っておくが、俺は別に育ちがいいわけじゃない。考えてみろ、俺の父はクォンシュで最も厄介な男といわれる皇子ゲンカ・ツォウだぞ」

 言われてチュフィンは剣の師である将軍を思い出す。そういえば、龍女アルマトを妻にしたいから帝位を継がないように軍に入っていろいろ手を回したとか、そんな話をへらへら笑いながらしていた。彼の息子であるトウキが普段臆病なくせに変に図太いところもあるのも、多少は頷ける。

「でも、ゲンカ様は、ちゃんと育ててくれたじゃないですか。あんたとリュセイ様を」

 少し塩味を付けて炊いた麦に、濃い味付けをした細かく切った麦鳥の肉と刻んだイスクーを混ぜたもの――平民がよく口にする簡素な食事ではあるが、それをさじに取り口へ運ぶその所作は言葉に反して美しいし、部下に対する態度も決して横柄ではない。間違いなく先帝の実弟ゲンカ・ツォウ・クォンシュの教育の賜物たまものだろうとチュフィンは思う。父から温かく接せられた記憶がない彼には、それが少しだけ羨ましい。

「そんで。奥様と今度は何があったんです?」

 匙を置くとトウキは目を伏せた。

「……チュフィン・ロウ。お前、エシュとその、……え、と……」

「?」


 少し、躊躇ちゅうちょして。


「…………どこまで、したことがある?」


 チュフィン・ロウは我慢した。「はい?」と出てしまいそうになったのを、水で奥まで流し込んだ。

 そんな答え方をすれば、この人は「何でもない」とか言ってその先何も話してくれなくなるかもしれない。そうなれば、問題が解決しなくなってしまう。それはウェイダ領国境警備隊副隊長として避けるべき道だ。何しろ隊長には心身共になるべく健やかでいてもらわねばならない。


 茶化してはいけない。真面目に、ちゃんと答えるべきだと副隊長は判断した。


「あの。俺、エシュとは何もしたことないです。よ」

 その答えが意外なものだったのか、トウキは信じられないといった顔をした。

「あれだけ親しげにしておいてか!?」

「だってナルテアさんと約束してますもん、『結婚するまで手は出さない』って。まぁ、たまに手ぇ繋ぐとか抱っこするぐらいはしますけどそれ以上は」

「チュフィン・ロウ……お前、そんな顔して」

「なかなか失礼なこと言いやがりますね元殿下?」

 勿論ときどき口が悪いのも重々承知している。もう十五年以上の付き合いだ。

「そう言うあんたは奥様と上手くやってるんですか、大体想像はつくけど」

「う」

 両手でゆっくり顔を覆う。


 そのまま、沈黙。

 話し始めるかと思って待ってみるが、なかなか言葉が返ってこない。


 ただ見ていても仕方がないので、チュフィンは一口、二口と食事を進めた。


 と、弁当箱の中が半分ほどまで減った頃、


「……チュフィン」


 ようやく話す決心がついたようで、顔を手で覆ったままで、トウキは静かに切り出した。


「はい何です」

「俺は……」

「はい」

「今日、マイラと……」

「えっ何、そんなに深刻な?」

 あまりにも真剣に、少しずつ口にするので、これから夫婦間にどんなに重大な何かが待っているのかと固唾かたずをのんで見守っていたチュフィン・ワバール・ロウだったが、


「…………口付けを……しなければならない……」


 聞いた瞬間、「聞かなきゃよかった」と心底思った。


「すりゃいいじゃないですか!」

 あまりのくだらなさに怒りをおぼえ、つい机を拳で叩く。弁当箱とオリウが置いていった盆と汁物椀、そして水飲み椀が一瞬浮いた。チュフィンは術はさほどでもないが剣の腕はウェイダ領国境警備隊内では随一、見た目以上に力強い男である。普段は上に立つ者としての態度を示そうとするトウキだが、元来臆病な性質であるので、明るく気さくな副官がまれにしか見せないそのいきどおりにびくりとして顔を上げた。

「……でも、だって……」

「だってじゃねーんですよ厭味いやみですかこっちはしたくてもできねーっつーのに何なんですかあんたできる環境下にあるんだからすりゃいいでしょしたって死にゃしませんよ!」

「うぅ」

「それとも何ですか、できない理由でもあるんですか」

「…………」

 再度俯いたトウキは、また少しだけ躊躇った後、ぽそぽそと口にした。


「……嫌われたくない……」


 チュフィン・ロウは天を仰ぎ、深々と息を吐いた。本当にこの人はどうしようもない。


「あの方がその程度であんたを嫌うとは思えないんですけどねぇ」

「でも……うぅ」

「ていうか、あんたその、嫌われるような変なやり方しかできないわけじゃないですよね?」

「……よくわからない。習ったのは普通だと思う、が……普通だと俺が思い込んでいて実は普通じゃないかもしれない」

「あんたほんとどこまで後ろ向きなんですか」

 またまた大きな溜め息が出る。溜め息をつくたびに幸せが逃げるというのなら、きっとこの先数年は不幸のどん底だ、などと自身もまたどうしようもないことを考えてしまったのに気付き、チュフィンは情けなくなってきた。

「そんなことないから安心して下さい、よりによって皇家の者にろくでもない閨事ねやごと仕込もうもんなら死罪まっしぐらでしょうよ。…………って、別に閨事じゃないでしょ口付けですよね!? え、なに!? 『しなければならない』って一体どういうことなんです!?」

 下を向いて小さい声のまま、トウキは答える。

「マイラと……約束をしてしまって……五日後にしていいと……で、それが、今日で……」

「『していい』って言ったんですね? あんたが」

「していい、というか……『今はダメだから五日後にしてくれ』と……そういう感じで……」

「あんたがそう言ったってことは、奥様がしたいと希望した、ってことですね?」

「そう……そう、なるのか……そうだな、そう、かも、多分そう……」

「どっち!」

「そう!」

「よし!」

 席を立ち、トウキの傍まで行くと、チュフィンはトウキを自分の方に向かせ、両肩をがっしりと掴んだ。

「イケます! 大丈夫です! あんたは奥様から口付けを受けるだけ! 嫌われることもない!」


 正直なところ、半ば自棄やけであった。このトウキという男とその妻の間のことはさっぱりわからないが、ここで保証してやらなければおそらくずっとこのままだ。いささか無責任にも思えるが、適当に流すよりはましだろう。


「そ、そうか」

 安堵したらしいトウキは頷いた。あくまでチュフィンの主観だが、自信のなさはいつも通りではあるものの、何とか許容範囲にまで持ち直したようである。


 これで一安心――と思ったのも束の間。


「あ、いや、でも……」


 神々しいはずの龍と同じ金色の目がまた泳ぐ。


「何すかまだ何か不安ですか」

「…………こ、」

「こ?」

「……こっちから、したくなったら……どうしよう……」


 チュフィンは、すぅ、と大きく息を吸った。



「すりゃいいじゃないですか!!」




     ◎     ◎     ◎



「……ということが昼間ありましてねぇ」

 その日の夕方、チュフィン・ロウは退勤が重なった恋人のエシュについ愚痴を零してしまった。

「あの人の相手は大変だよね、お疲れ様」

「元々へにゃへにゃ坊ちゃんなのに結婚してから更に磨きがかかっちゃってるんだよなぁ、いくら奥様のこと大好きとはいえもうちょっと強い心を持ってくれないと……いや、まぁ、わかるけどさ、何となく」

 小さく呟かれたその言葉をエシュは聞き逃さず、長身のチュフィンの顔を見上げるように覗き込む。


「何が、わかるの?」


 元々小柄であるのと歳より幼い顔立ちをしている――それでも随分成長したとチュフィンは感じた。意識し始めたのはここ数年とはいえ、初対面からは十三年近く経っている。


「エシュー」

 堪らなくなり、立ち止まって抱き上げる。軽い、が、やはり重たくなったし、肉付きも多少よくなりやわらかさが出てきた。

「大きくなったなぁ~!」

「何いきなり、またおじいちゃんみたいなこと言ってるし」

「早くこれ持って帰りたいよぉ~」

「下ろしてよ恥ずかしいなぁもう。で、何がわかるって?」

 ゆっくりと下ろすが、手はエシュの胴を支えるように触れたまま。

「俺もエシュのこと考えるとちょっとへにゃへにゃになっちゃう、って話」

「それは困るね、しっかりしてちょうだい」

「できるだけそうするぅ。……あ、そうだ、これあげる。フェディの母ちゃんが仕入れの帰りに詰所寄ってってくれたの」

 荷袋の中からちょっと高級で小ぶりなケイツェの実を取り出してエシュの小さな手に乗せると、エシュの目が輝いた。


「ケイツェだ! いいの!?」


 喜ばせたい。

 嫌われたくない。


 あの人の感情の振りはちょっと激しすぎるが、理解はできる。


「二つもらったからね」

「ありがと! へへ、嬉しい。お腹空いてたんだ食べちゃお」

「じゃあ俺も食べちゃお」

 自分の分も荷袋から出したところを、エシュの手がそれをさっと取り、手巾しゅきんで軽く拭いて、返す。

「はい」

「ありがと。すごい……エシュはできた嫁さんだな……」

「まだですけど?」

「そっかまだだ」

「まぁ、そうなりますけど?」

「あはは、自信満々だ」

 二人で、歩きながら、ケイツェをかじる。しゃくっとやや固めの歯ごたえに、とても甘いがほのかに酸味もある果汁が口の中に広がる。

美味うまいな~」

「うん」

「もっとおっきいの出回るようになったら買ってやるからな、三つくらい」

「だからその孫に対するおじいちゃんみたいなのやめなさい」

「じゃあこの溢れんばかりの俺の愛どうしたらいいの」

「溢れない程度に留めておいて。いい大人なんだからできるでしょ」


 他愛のない会話。エシュはキレのある返しをしてくるので、チュフィンは彼女と会話をするのが楽しい。


 この先もこうしていたいと願わずにはいられない。


「俺エシュのそういうとこほんと大好き」

「そう?」

「うん」

「そう。…………あのね、フィー」

「ん?」

 耳打ちしたそうな様子のエシュに身をかがめると、


「私もね、フィーのこと好きよ」


 普段の彼女からはなかなか出てこない言葉を囁かれ、思わず相手の顔を見る。夕暮れの色が溶けた紫の瞳がとてもきれいだ。


 そう、思った瞬間、唇に一瞬だけ。


 今しがた口にした果物と同じくらいに甘くて、それよりもやわらかく、あたたかいものが触れた。


「ん、んんっ!?」


 思わずたじろぎ後ずさる。顔だけがカッと熱くなり、頭の中にあるはずの何もかもが、一気に吹き飛んでしまった。


 それを見たエシュは、にや、と笑った。

「何その顔」

「や、だっ…………ってっ、まだしちゃダメじゃん何考えてんだ!?」

「あんたはうちのお父さんとそう約束したかもしれないけど、私からしちゃダメなんて言われてないもの」

「お、おぅ……」

 やはり一国を支える宰相の娘なのだと改めて思う。この少女は頭が回る。こういうところも刺激的で、だからこそ彼女に心を奪われたのだとチュフィンは自覚する。熱が胸の方にまで広がるのがわかる。

「……エシュ、結婚しよ」

 思ったことをそのまま口にしてしまった、が、常日頃からこんなことを言っているものだから、聞き慣れているエシュはこれしきのことでは狼狽うろたえない。

「するでしょ」

「ほんとだありがとう! 好き!」

「どういたしまして」

 こんなふうにいつも冷静な彼女だが、手を繋いだその瞬間、はにかむような笑顔を浮かべるのもまたいつものことだし、おそらく彼女自身はそれを自覚していないというのが、チュフィンにとってとても可愛らしく思えるのだった。


「……フィー」

「ん?」

「さっきの内緒だからね。お父さんにバレたらあんた殴られるよ」

「エシュからしたのにそれ理不尽じゃない?」




     了



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