エシュ奮闘編
第四十一話
マイラの父アデン・シェウ・ロガナ・ファンロンはファンロン王政国の王シュイリの甥にあたるが、王族である以上に国境に接するツァスマ領の領主でありツァスマ周辺の領地や国境の街道を行き来する者の間で起こる問題を担当する官吏として名が知られている。
武術よりも勉学を好む彼は、妾腹の出で王族としての地位は低かったものの、愛情深い父の計らいによりファンロンの都にある学術院で幼い頃から学び、まだ少年ともいえる若いうちに司法官の資格を取得したのだが、そんな矢先に先代ツァスマ領主で父方の伯母にあたるヴォリタ・ティヨナ・ルヨ・ファンロンにより後継に指名され、しかも先任の地方司法官も老齢により引退するということで、領主と地方司法官を兼任することになった。
勿論これは、普通に考えれば相当な無茶振りである。しかし、勉学に優れ穏やかで人当たりもよいアデンは王シュイリや先代領主ヴォリタをはじめ、他の王族や大臣たちにも期待を寄せられていたのだ。
幸いにもツァスマ周辺は治安がよく、――というよりも、実際は険しい山に囲まれた田舎であるため、国境だが攻め入られにくい地形であることと、人間同士の揉め事よりも獣害や自然災害の方が多いだけなのだが――アデンものんびり辺境の領地を治め、都に比べれば格段に平和な揉め事をのんびり収める務めが性に合っていた。究極の適材適所と言っても過言ではない。
そんな彼は、前年の秋口にお転婆な愛娘の結婚という密かに何年も頭を悩ませていた問題をようやく片付けたのだったが、今まさに新たな問題に直面しようとしていた。
「…………その、ご息女とのことが、ありながら、とは思うのですが……」
目の前で気まずそうに頭を下げる青年に、確かに気まずいなぁそうだろうなぁ、と思ったが、それをおくびにも出さずにアデンは笑った。
「貴殿が謝ることでは。これは司法院の決定。どうか、期間中よく学び、力を貸してほしい」
「……よろしくご指導下さいませ、殿下」
◎ ◎ ◎
いつも
「奥様」
「……」
「マイラ様」
「ほぁっ! ……あ、わ、エシュ……」
手元には書簡。険しい表情の原因はそれか。
「どうかなさったんですか?」
「父から、便りがきたんです」
難しい顔をしたまま、マイラはふぅ、と息をついた。
「近々またグォルチの司法院に行くので、顔を見せに立ち寄ってくれるんだそうです。ウーリュン川の工事現場では旦那様とちょくちょく会ってるみたいなんですけど、私が行くときって父がいなくて。婚儀以来会えてないですから」
だとしたら、この様子はおかしい。マイラは少し離れて暮らす身内のことが大好きなはずだ。特に父に対しては、学びたいと望んだことを許容してくれたから今の自分があるのだと敬愛の念を抱いている。
「何か、嫌なことでも書かれてましたか?」
「エシュは」
「はい」
「苦手な人って、いますか?」
問われて思案する。
「…………特に、思い当たりませんね」
「そうですか、それはよかった。今ある縁を是非大事にして下さい」
「あ、はい、ありがとうございます。……じゃなくて! 私のことより奥様がどうかされたんですかって話ですよ、もう!」
「ううぅ」
彼女が思い悩む顔を見たことがないというわけではないが、こんなにも苦悩する顔は初めてだ。マイラはあまり多く語ったわけではないが、その言葉をまとめてみると、
「つまり、奥様のお父様が、奥様の苦手な方を連れてくる……ってことですか?」
「おうぅ」
机に突っ伏した。図星らしい。何と声を掛けようかエシュが考えていると、机に伏したままの奥様は、
「十日後にツァスマを発って、三日ほどグォルチに滞在、その帰りに立ち寄るそうです。来客の準備……しましょう……」
そう力なく言った。
◎ ◎ ◎
「トウキ様にお聞きしたことがある。奥様は縁談の相手をぶん投げたことがあるらしい、と」
チュフィン・ロウが知ったふうな顔で頷きながら意味ありげに言うので、エシュはちらりと横目で見た後、木筒に入った冷たい蜜茶を一口飲んだ。二人は今、ロナル鉱山の入り口にある足湯に浸かっている。チュフィンが鉱山で飼育されている石龍モーフェンの様子を見てくるようにとトウキに命じられたのだが、冗談半分で一緒に行かないかとエシュを誘ったのを見た領主夫妻が許可し、エシュに休みをくれたのである。
「ふぅん」
素気なく返され、チュフィンはつまらなさそうに口を尖らせた。
「何だ、興味ないのかお嬢さん」
「奥様が困ってるなら助けてあげたいとは思ってるけど。そこまで突っ込んだ事情は知らなくてもよくない?」
「事情知ってた方が助けやすくない?」
「ものは言いようね。あんた喋りたくて仕方ないんでしょ」
「そうじゃないよぉ」
ちょうだい、と手を差し出されたので、エシュは持っていた木筒をチュフィンに渡す。チュフィンは一口、二口飲むと、並んで座るエシュとの距離を少しだけ詰めて声を潜めた。
「その、奥様の元縁談相手。奥様に強引に口付けしようとして返り討ちにあったんだってさ。ぶん投げたって、多分それのこと。それ以前にもべたべた触られたりしてたらしいよ」
「それは……まぁ、いくらあの奥様でも嫌でしょうね。でも奥様はもうご結婚なさってるんだし、」
「人妻に手ェ出そうとする野郎なんていくらでもいるさ。奥様若いし」
「え」
婚約者の疑惑の眼差し。慌てて否定する。
「違う違う、俺そんなのしたことない、十四からウェイダにいるんだぞエシュだってずっと見てきたじゃん! ……うちの兄ちゃんがな、そういうので……出世の道作ったりしたから。親父も黙認しててさ」
「そう、だったんだ」
安心すると共に、チュフィンが身内と仲が悪い理由を悟る。軽くいい加減なようでいて意外と真面目なのはよく知っている。
「ん、だからね」
大きな手が、小さな肩を抱く。
「奥様の傍にいて、気を付けてあげて。俺の仕事はトウキ様を
「大丈夫、あんたはあんたの務めを果たしなさい。私だってシウルさんに認められた侍女長なんですからね」
「わぁ、頼もし~い。……さて、」
チュフィンはエシュの肩から手を離し、足を拭いて靴を履いた。職務柄かその動きは速い。ウェイダ領国境警備隊は隊員のほとんどが十代から二十代と若く、互いに気安く接して
「モーフェンもおっちゃんらと仲良くやってるみたいだし、今日の仕事は終わり! どこ行こっか、腹減ってない?」
「あ、あのね、」
エシュも足を拭いて靴を履く。差し伸べられた手を取り立ち上がる。
「まだ、ちょっと先になるけど……揃いのもの、作っておかない? 旦那様と奥様の耳飾り作ってもらった工房があるんだって。あれ、……きれいだよ、ね」
普段強気で遠慮なくものを言う彼女が少しだけ照れるような様子で言うので、
「ん、うん、そっか。作っとこ、っか」
チュフィン・ロウもつられて照れ臭くなった。
◎ ◎ ◎
その男が姿を現した瞬間、客人を出迎えたエシュとフィーメイを除くアヴィロ家の侍女・女中衆は、ほぅ、と感激の溜め息をついた。
日の光を集めたような明るい金色の髪と、夜空を思わせる深く濃い青色の瞳。物腰のやわらかなすらりとした長身は、トウキよりも少し高いくらいか。女性的というわけではないが、「麗しい」という言葉がよく合う顔立ちをしている。
「旦那様より王子様っぽい」
ぼそっと言うフィーメイの脇腹にエシュが肘で一撃入れる。
「メイさん」
「うぃ、すんまっせん侍女長」
エシュは年上の部下の軽口よりも、主人夫妻の様子が気になっていた。
客人たちを迎え出た夫妻は笑顔だ、が。
(ぎっっっこちな~い……大丈夫かなあれ……)
元々おとなしく少し臆病な気質のトウキは愛しい妻と一悶着あった
「何か……不安だなぁ」
思わず呟くと、フィーメイを筆頭に周りの仲間たちがこっそり肩や背を叩く。
「だいじょーぶだよ新侍女長! チェグルの領主さんのときも上手くやってたじゃん!」
「そうだよぉエシュはあのシウルさんに太鼓判もらってんだからね~?」
「私たちも頑張るからさ」
違う。そうではない。
エシュが案じているのは、自分の仕事ぶりのことではない。もうかれこれ九年もこの家に仕えている。客人の前で致命的な粗相をするなど、滅多なことではあり得ないという自負がある。
問題は奥様だ。
彼女は己のことに関してはバカ正直に話してしまう。旦那様と彼の事務補佐役がときどき困惑しているのをよく知っているし、エシュ自身も何度も戸惑ったことがある。そんな彼女が、彼女の父が連れてきた男との関係を色恋沙汰の話題で盛り上がりやすい若い女子ばかりの侍女・女中衆に話してしまったらどうなるか。現に、かの男が馬車から出てきてからざわついている。
(多分、あのことを知ってるのはこの中では私だけ……の、はず……)
この家を取り仕切る者として、主人夫妻の心の平穏と奥様の身の安全を守らねば。うら若き新米侍女長は決意を固めながら、美麗なる客人を見た。
その男の名は、ウーリェス・ダワード・ナティ。
ファンロン王政国の司法官見習いにして、マイラの母方の従兄、そして――最後に失敗した縁談の相手である。
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