第四十二話



 奥方様の実父と奥方様と因縁のある美形の男が客人としてやってきた日の夕食前、新米侍女長エシュの様子が少しおかしいと最初に気付いたのは旦那様だった。

「どうしたそんな顔して」

 客室を整え終え、台所に向かおうとしたところに声を掛けられる。エシュは立ち止まって、己の両頬をぐにぐにと揉んだ。

「今私どんな顔してますか」

「チュフィンと喧嘩したときよりも怖い顔をしている」

「んぬ……」

 トウキの手が、頬に当てたままのエシュの小さな手に重ねられて、そのまま二度三度押す。

「あいつと何かあったわけではないんだろう?」

「トウキ様。心配じゃないんですか?」

「何が」

「だってあのキラキラした人、奥様の縁談相手だったんでしょう? しかも奥様にべたべた触ったりしてとっちめられたっていうじゃないですか」

「チュフィンに聞いたな」

「フィーが、奥様を守れって」

 不愉快そうに言うエシュに、トウキは笑った。

「もう終わっている話だ。……まぁ、確かに、ちょっと存在がまぶしい、かな」

「奥様にすり寄ってきたりしたらどうするんですか! そういう不埒ふらちな人だっているんですよ!」

「……少なくとも、話をした限りでは、そういう感じではなかった」

「え」

 意外な言葉に驚くが、トウキの言葉は尚も続く。

「頭がとても良くて、己の能力にそれなりに強い自信を持っている――マイラが言うには、そういう人物のはず、なんだが……意外と普通というか、寧ろ友好的に見えた。装っている可能性があると言われればそうかもしれないが、どうもそういうのとも違う気ようながする。存在は眩しいが」

「…………ふぅん?」

 エシュは考え込んでしまった。目の前の主人とはもう九年ほどの付き合いになるが、人を見る目があるかどうかは正直よくわからない。彼自身が見極めた人材を傍に置いているというよりも、臆病なくせに頑固で少しやさぐれてやや頼りない彼を「仕方がない」といったふうに支える者が周囲に集まってきたように見えるからだ。彼の言う言葉をどこまで信じていいのか。

「マイラは警戒しているようだが、それは無理もないこととして。アデンどの……マイラの父君が断るでもなく連れてきたということは、大丈夫なんじゃないか、と、俺は、思う」

曖昧あいまいですねぇ、そういうのは確信持ってから言って下さいよ」

「う……」

 トウキの手を丁寧にどけて後ろに回ると、ぐいぐい背を押す。

「ほら、まだお客様のお相手してる最中でしょう。早く戻って下さい旦那様」

「あ、あの、エシュ」

「何ですか」

「茶の、お代わりを、」

「はいはい、すぐお持ちします」

 応接室に向かう主人の背を見送り、エシュはひとつ、息をついた。

「だからって、油断しちゃダメだと思うのよね」

 

 そう、気を緩めてはならない。ちゃんと目を光らせて、あのキラキラした男が奥様に近付かないようにしなければ。



 と、思っていたのだが、



「奥方……マイラ殿下と直接二人だけで話がしたいのですが、何とか便宜べんぎをはかっていだたけないでしょうか」


 理由をつけて部屋を抜け出してきたらしいくだんの男からの申し出を受けて、エシュは当惑した。水を汲みに出た夜の始めの裏庭、他の者は誰もいない。

「え、いや、あの……」

「どうしても、話さなければならないことがあるのです」

 いたって真面目な表情に、くらっとした。よろめいたのではない。もう日は沈んでいるし、彼自身が光り輝いているわけではないのだが、眩しいのだ。同系統の美形である事務補佐役ルコの方が、まだ相手にしやすい。物静かなルコは深夜の満月のようだが、この男はさながら初夏の爽やかな陽気のきらめく日光だ。

「……失礼ですが、お客様」

「どうかウーリェスとお呼び下さいエシュ殿。ウーリュン川に転じた水の龍にあやかって付けられた名です」

 名前を覚えられていている上、聞いてもいないことまで誇らしげに披露される。そういえば、あのマイラからとても頭がいいと聞いているとトウキが言っていたし、今はまだ見習いだがもうすぐ正式な司法官になるとかいう話だった。頭がいい人というのは少し変わっているのだろうか。


「え、と、あの……ウーリェス、さま」


 何とかして断らなければ。エシュは必死に考えた。相手はとんでもなく頭がいい人間、言いくるめられてしまうのは避けたい。


「わ、わたくしはっ、この通り若輩者でございますゆえ、まだこの家の右も左も」

「この家に仕える者の中で、貴女は一番上に立っている。違いますか?」

「へっ」

「かなり慣れた素早く美しい動きをしていましたし、歳上の方に指示を出していましたよね。しかも的確に」

「ぁわっ……」


 普段はちょっと気にしている「歳より幼い見た目」を利用した誤魔化ごまかしが効かない――それならば。


「…………おっ……奥様と、二人きりで、というのは、承服致しかねます。……その、」

 何と説明しようかと悩んでいると、察したウーリェスは、あぁ、と小さく声を上げて、

「彼女と私のことを知っているのですね」

 さらっと返した。この男、己の醜聞を気にしていないのか。

「う……はい……」

「でしたら、そうですね……貴女も同席しますか、エシュ殿。いえ、……エシュターナ様」


 一部の者しか知らないはずの名で呼ばれ、思わず言葉を失い、目を剥く。


 何故それを、と問おうとする前に、ウーリェスが、己の口の前に指を立て、にこりと笑った。


「マイラ殿と話をさせて下さい。そのときに。……失礼」


 きびすを返し裏口へと向かう後ろ姿を、エシュはただ見ていることしかできなかった。



     ◎     ◎     ◎



 どうすればいいのだろう。


 本日の仕事を終えたエシュ・ツェイリーは、帰り道、考えてながら歩いていた。国境警備隊の詰所からの帰宅途中に馬を預けに立ち寄ったチュフィン・ロウが夜道は危ないから送っていくと申し出たのだが、将来を誓い合った仲だというのに彼の存在を忘れてしまったかのように、ずっと顔をしかめている。

「エシュ」

 呼び掛けられても気付かない。

「エーシュー」

「…………」

「エシュターナ」

 本来呼ばれるはずのない名に、エシュはびくりとして立ち止まり、チュフィンを見た。みるみるうちに怒りの形相に変わる。

「その名前で呼ぶのやめて。エシュターナ・ツコラはもうこの世に存在してないんだから」

「ごめん。…………でも、勿体ないよな。きれいな名前なのに」

「知ってるの?」

「知ってるよ。エシュターナってコファンの恋人っていわれてる花の精の女王様だろ。奥様が前に弟さんと白蜜花ブラーレの蜜漬け作ってたのも、確か元々コファンがエシュターナに贈ったとか何とかって伝承なんだよな。それ使った焼き菓子売ってる老舗が都にあるんだわ、ちなみにめっちゃくちゃ美味い。……う、エシュにも食べさせたぁいでも都行かないからなぁ~シウル姐さんに送ってもらおっかな~」

「やめなさいシウルさん一応皇妃なんだから」

 その名を口にして、姿を思い出す。


 師と崇めたあの人なら、どうするだろう?


 また表情が沈んでしまったのを、チュフィンが気にして覗き込む。

「エーシュ。どうした?」

「……あの、キラキラした人」

「ぅん? 光ってんの?」

「頼まれたの。奥様と二人にさせてほしいって。どうしても話したいことがあるんだって」

「なに!? やっぱり口説く気だな!?」

「でも、でもね、」

 チュフィンのそでをぎゅっと握る。その手はかすかに震えている。

「もしかしたら、そういうのと違うかもしれない。旦那様がね、そういう人じゃなさそうって言ってたし、あの人、私のこと知ってるみたいだった。奥様に話したいこと、私も一緒にいて聞いてていいって。……名前、呼ばれたの。エシュターナって」

「え」

 驚くと同時にチュフィンは納得した。先程のエシュの反応――縁もゆかりもない外国の男がごく限られた者しか知らない己の出自を把握していることからの不安が、そうさせていたのだ。


 それにしても、一体何故。


 エシュ曰く「キラキラした人」ウーリェス・ナティはファンロンの民である。エシュが赤子の頃に死んだとされているイノギアの宰相ムドゥヤザ・ツコラの娘エシュターナだということを知っているのは、実父ムドゥヤザ本人とエシュを密かにクォンシュに連れ出したムドゥヤザの家臣、託された養父ナルテアとその家族、そして領主夫妻と、故あってナルテアの身元の調査を担当した領主の事務補佐役ルコとチュフィン――イノギアとクォンシュの人間しかいないはずだ。


 立ち尽くし思案するチュフィンの顔をエシュが見上げる。


「フィー、ねぇ、これって、大丈夫なのかな? どうしていいかわからないよ。私のこと知られてるのも怖い。何であんな人がいるの?」


 愛してやまないエシュが困り果てている。チュフィン・ロウは必死に考えた。とはいえ、自分は頭がいいわけではないし、“トウキ様の部下”ではあるが“アヴィロ家に仕える者”ではないのでこの件に関しては本当にどうしようもない。


 何か、打開策は――


「……いっそのこと、言う通りにしてみる?」


 思い切って口にすると、エシュは絶望したような顔になった。 

「何で!?」

「多分、奥様にもエシュにも、危害を加えたりはしない、と思う。奴にとってここは外国だし、奥様は一応陛下の親戚に嫁いだ身分の高い人だから、滅多なことはしないはず。エシュの名前知ってることも……脅しとか、そういうんじゃないんじゃないかな。訴え出るにしたって、エシュがイノギアの宰相の娘だなんていうのはナルテアさんやトウキ様たちが“知ってる”ってだけで何も証拠ないんだし」

「でも」

「エシュ」

 大きな手が、小さな肩を痛くならない程度に力強く掴む。

「こんなこと言っちゃってるけど、俺も確信は持てないし、前も言ったけど力にはなれない。そこはごめん。……でも、こういうことはできる」

 耳元でぽそぽそ、囁くと、エシュの表情から不安の色が消えた。

「わかった。頑張る」

 腹を決めた彼女は、いつものしっかりした少女に戻っている。チュフィンは満足そうに、に、と笑った。

「それでこそ強くて可愛い俺のエシュだ」




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