第三十九話
己の最も信頼する
共にクォンシュの隣国であるイノギアとデアーシュの雲行きが怪しいこと。
ウェイダは少しだけとはいえデアーシュとも接している国境であるため、心配だということ。
デアーシュといえば、皇帝リュセイの一人目の側室が王の異母妹にあたる。
トウキがときどきこっそり連絡を取り合う親友リュセイによると、デアーシュの若き王ヤハジャはここ数十年ほどで徐々に亀裂が広がり国家として弱体化が
チェグルは大きな街道が数本通っており、産業上異国の者の出入りも少なくはない。情報源としては信頼できるし、ツトゥ・エンインもトウキに対して友好的である、のだが――
「あいつのあんたに対する態度は信じていいと思うぜ。あいつ嘘つくの下手クソだしあんたと会った日はすっげぇ嬉しそうに話すからな」
いまいち解せないといったふうな態度で
「まー、確かに。うちには姉ちゃんともう一人弟いるし、一人くらい手放したっていいんだろうけど……何で俺なんだよ、俺この旦那に嫌われてんじゃん」
「別に嫌ってはいない」
「でも気に入らないんだろ、顔に書いてあるぞ。わかるよ、愛しい愛しい嫁さんとよその男が仲良くしてりゃあ、まぁそうなるわな」
「なっ、ちがっ……いやちがわっ……やっ、そのっ」
狼狽する主人の姿に、ルコが表情そのままに嘆息してまた客人を
「ユーイ様、慎んで下さい。それは事実ですがこの方には少々強すぎる言葉です、しかもご本人の目の前で」
「お、ぅ?」
「ほぁ!?」
ユーイとトウキが一斉に領主様の愛しい嫁さんに注視する。が、熱い茶の入った碗を両手で持って息を吹き掛けていた彼女は、
「へへ、ふふふ、そうはっきり言われてしまうと照れちゃいますねぇ」
嬉しそうににこにこ笑う。トウキは小さく
「それはともかく、だ。そっちも即決はできないだろうし、俺もちょっと勝手なこと抜かしやがったツトゥの野郎ぶん殴らないと気がすまないから一旦帰るわ。……でも、そうだな。俺じゃなくても、影で動ける奴の一人くらいは抱えておいた方がいいぜ雪獅子公。ただでさえあんたは危ない地位にいてこんな
我に返ったトウキは腰を浮かせた。
「あっ……ユーイ、その、」
閉じかけられた扉の隙間から、派手な美形の顔がにゅっと出る。
「俺はツトゥの命令には逆らえないし逆らう気もない。へなちょこだけど主人は主人だからな。それは俺の主人があんたに変わっても同じだ。あんたが受けるってんなら、俺はちゃんと仕事するよ。それが
「待って、待ってユーイ!」
マイラが慌てて茶碗を卓に置き駆け寄る。
「何だよ姫様」
「ツトゥ様を殴っちゃダメ! 貴方そう見えて力あるんだから」
「姫様」
少しだけ扉を開いて、マイラの肩にぽんと手を置く。
「男には殴るべき奴をしっかり殴っとかにゃならんこともあるのよ。じゃあまたな」
鼻先で扉を閉められたマイラは、おろおろしながら夫に訴える。
「旦那様っ、どうしましょう!? ツトゥ様がっ、殴られちゃいますっ!!」
のんきに茶を啜るルコが落ち着いた声と顔で言う。
「殴るときは殴る。殴られるときは殴られる。そういうものですマイラ様」
「ルコさまぁ!」
再度折りたたんだ小さな書簡を見つめながら、座り直したトウキも茶を一口含んだ。
「あれでもツトゥどのとユーイは忠義以上の絆があるようだ、問題ない。……ルコどの。これは、燃やしておくべきだろうか」
「
「そうか」
「それに、貴重な
「ツトゥどのがそう言うことはないとは思うが……一応、そうだな」
「そんなことよりトウキ様。和睦のお時間です」
「えっ」
急な話題の転換にトウキは困惑した。自分が使っていたものとユーイが使っていたもの、二つの碗を手に取り、ルコは席を立つ。
「いくらとても驚いたからといって何日も逃げ回って様子を窺うだなどと、いい歳をした大人がすることではございません。野生動物ですか。ちゃんとご夫婦でお話し合いをされないと最悪家が潰れます。ことにマイラ様はファンロンの姫君。貴方がたの仲にクォンシュとファンロンの国交がかかっているのです。どうぞ、ごゆっくり」
たたみ掛けるように言うと、優秀な事務補佐役は応接室から出て行ってしまった。
残されたのは、トウキとマイラ、夫婦二人。
トウキは気まずそうな顔のまま、マイラはいつものにこやかな顔で、互いを見た。
「あ…………え、ぇと、」
「旦那様」
トウキの前まで来ると、頭を下げる。
「ごめんなさい! 私、旦那様のこと何も考えないで、あんなことを」
「あ、いや、頭を上げてくれ、その、俺も、ただ驚いただけなのに大袈裟に逃げ回ってしまって」
「でもっ」
「……マイラ。ここに」
長椅子の、自分が座るその横を、トントンと軽く叩く。緊張した面持ちで、マイラはゆっくりそこに腰を下ろした。トウキもまた、緊張しているようだが、妻から目を逸らさぬように努める。
「そのっ……ぁ、え、と。……嫌だったとか、そういうことでは、全然ない、んだ」
「はい」
「ああいうの、を……される、と、思ってなくて……」
「何故です?」
ずいっと迫られ、反射的に身を引く、が、逃げ出しそうなのを何とか耐える。
ここで逃げてはいけないとトウキは思った。妻は真剣だ。ならば己も、ちゃんと向き合わねばならない。それが礼儀というものだ。
大きく息を吸う。口の中、喉の奥が冷やされていく。
そうだ、落ち着け。
彼女は言葉が出るのを待ってくれる、大丈夫だ。
「……その、えぇと、…………」
姿勢を正す。マイラもつられて背筋を伸ばす。
「……お前、いや、貴女、を、妻にと言い出したのは、確かにおっ……私、ですが、えっ、とっ、婚姻自体は、国と国の繋ぎでっ、だから、そのっ…………本来なら……表向きだけ、でも、よかったはずで……」
普段と違う言葉の選び方。急によそよそしくなった、というよりも、今彼は、公的な立場を示しながら話したいのだとマイラは察した。
「はい」
その意を汲んだという意味を含めて頷くと、安堵したのか表情の固さが僅かに
「……子も、養子をとればいいし、無理に、そういう仲に、ならなくてもいい。そう、思っていた、ので……」
旦那様、と口に出しかけて、マイラはやめた。今はそうではない。
「トウキ様。やっぱり、そういうのって、情がない方がいいのでしょうか?」
「わからない。……ただ、クォンシュとファンロンの間のことではないが、周辺の雲行きが少し怪しいのが……」
「そう、ですね。ですが、大伯父はクォンシュとは戦はしないと
笑いながらトウキの手を取り、その上に更に自分の手を重ねて。
「立場としては、そうなのかもしれません。でも私は、そういうことを抜きにしても、貴方が相手で本当によかったと、貴方の妻になりたい、なっていきたいと思っています。私、貴方が想って下さっているということが、嬉しいんです。とっても」
立場を抜きにしても。
その言葉が、触れられた手からじんわりと沁みてくる、ような気がした。
「こんな、顔でも?」
どう返してくるかは、何となく想像がつく。が、
「その火傷痕は貴方の勇気と優しさの証です。それに、元々がきれいでお優しい顔立ちなのですから、それはそれで侮られにくくていいと思います」
思ってもみなかったことまで言われて、トウキは思わず吹き出す。
「ははっ、ははは。そう、そうか。うん。…………この通り、臆病者だし、すぐ後ろ向きに考えてしまう」
「慎重なのです。よくない事態のことを考慮するのも、大事なことです」
「そうかな」
「そうです」
「……歳が、少し離れているから、話が合わないことが、多分沢山あると思う」
「歳が近くても離れていても、合わない人とは合わないものです」
ああ言えばこう言う、しかし彼女のそれは、屁理屈とかそういう類のものではない。
つい暗い方向へ向きがちな自分を、光る道筋の方へ導いてくれるような。
ああ、やっぱり。
「好きだ、なぁ」
「えっ」
マイラの声に、息を止める。
自分は今、何か口に出したか?
「…………え?」
「はゎ……」
呆気にとられた顔が、みるみる赤く染まっていく。
まさか、しみじみと感じ入っていただけのはずの言葉がそのまま――
「あっ……ち、ちがっ……わない、けどっ、ちが、いや、そうじゃっなくてっ!」
「おわわゎ……」
双方、赤面しながらおたおたする。
トウキ・アヴィロは混乱した。
何を言っていいのか、何を言っているのか。
言ってしまったのか、いやもしかしたら言っていないのかもしれないのか。言っていなければいいのだが。
もはや、よくわからなくなってしまっていた。
何か言わなければいけない気がするが、声も言葉も上手いこと出てこない。口をぱくぱくさせていると、
「……旦那様、あの、」
マイラがおずおずと言いながら、しかし距離を詰めてきた。
「またっ、してもいいですか!?」
それが何のことを言っているのかは、明らかだった。
身を
「ダメ! 待て! や、ちがうっ、嫌ではないっ、でもっ」
そう、嫌ではない。それどころか嬉しいと思った。寧ろ正直なところしたいとも思う、が。
緊張と焦りと狼狽とで吹き飛んでいってしまいそうな頭の中の言葉を何とか必死にかき集め、臆病で後ろ向きになりがちな雪獅子公は、ゆっくりと両手で顔を覆いながら、消えゆきそうなか細い声で、言った。
「今はダメ…………五日後にしてくれ…………」
夫の現状最大限の譲歩に、マイラは嬉しさのあまりにこにこするのを堪えきれない表情で、
「はい! 五日後ですね!」
元気に応えた。とりあえず今ここにあった危機(?)から脱したことにより、トウキは徐々に落ち着きを取り戻していく。
「あ……え、えぇと……それより、だな……さっきのこと、なんだが。どう思う?」
これ以上引っ張られるとまた逃げ出してしまいそうなので、話題を逸らしたいのもあった。投げ掛けると、五日後の口付けを許されたことにより満足したらしいマイラは、改めて姿勢を正した。
「私は、いいと思います」
「あれは、信用に足るか」
「信じれば応えてくれる人です」
その表情はいつもの穏やかであたたかい妻ではない。
時折見せる、上に立つ者の顔だ。
「……そうか。それなら、お前に任せたい。俺よりもああいうのを扱うのが上手そうだ。お前が直接、手足として使うといい」
丸投げされたのではなく、この家の主人の妻としての責務を与えられた――マイラの心は躍った。
「はい! お任せ下さい旦那様!」
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