第三十八話



 トウキ・ウィイ・アヴィロはあと半年と少しほどすれば三十路になるが、現在十以上年下の自身の妻に生まれて初めての恋をしている。


 ウェイダ領に来る前は身近なところに異性も多かったが、特に誰に特別な気持ちを抱いたことはなかった。かといって、同性にそういった対象としての興味を持ったこともない。父と祖父を敬愛し、母に少しおびえ、幼い頃から仲のよかった友人たちには友愛を向けてきた。皇家の者として床でのことの教育を受けたこともあるが、そのときの相手に対して何を思ったこともない。行為は義務であるとしか捉えていなかった。

 誰がいい、誰のことを愛している――そんな話を聞いても、正直ピンとこなかった。羨ましいと思ったこともない。自分は四分の一はヒトではない、きっとそういう気持ちがわからなくて、この先も縁がないのだろう。それでも妻をめとることにはなるだろうし、そうなったら相手の気分が悪くならないようにすればいい。ぼんやりと、そう考えていた。


 しかし、あるとき、その感情を知ってしまった。


 「相手が嫌な思いにならないようにしなければ」が「相手はどうしたら喜んでくれるだろうか」に変わった。


 自分はこんな立場、こんな顔、何よりこんなにうじうじしているから、好きになってもらえなくても仕方がない。

 それでも彼女は、別段気を遣うような様子を見せるでもなく、言葉を交わしてくれる。一緒に考えてくれる。手を取ってくれる。笑ってくれる。


 それが、とても嬉しい。


 おそらく彼女は、よほど嫌悪感がなければ、相手が自分でなくともそういうふうに接するのだろう。


 それが、何だか少しだけ、残念に思えてしまう。


 彼女のそのような性質は長所である、というのは、重々理解しているのだ――それでも。



「俺は、浅ましい……」

 屋敷に戻る道すがら、馬上で項垂れるトウキの姿を後ろから見ながら、ルコ・ナンヒは、はぁ、と返事をする。

「浅ましい、とは」

「……マイラが、ああいう性質であるというのは……その、それなりに、理解してはいるんだが……」

 だんだん声が小さくなっていくのと同時に愛馬シャンドの歩みも遅くなり、ルコの乗る馬に並ぶ。ルコは嫌な予感がした。まさかこの主も、自分に夫婦間のことを打ち明けてくるのではないか。そういう経験は全くないのに相談されても正直困る。

 少し身構えながら次の発言を待っていると、トウキは、ちら、とルコの様子をうかがってから、おもむろに口を開いた。


「…………ルコ、どのは、その……誰かに、その……えぇと、……こう……好意、のようなものを、持ったことは」


 実に回りくどい。はっきりと「恋をしたことがあるか」と言えばいいのに。


 つきそうになった溜め息を飲み込んで、ルコは返した。

「私の初恋は、父でした」

「えっ」

「ですが母と結婚していると知りはかなく散りました。その翌日に好きになったのは慰めてくれた長兄でしたが、これもまた既に義姉あねと婚約していましたし、兄妹は結婚できないと知り失恋しました。共に六歳の頃の話です」

 真顔で淡々と語るものだから、冗談ともつかない。幼い頃の微笑ましい話として笑ってもいいのだろうかとトウキは迷った末、

「……そうか」

 一言だけ返し、ふ、と息をついた。その反応からして、ルコは自分の発言が彼の求めるものではなかったと得心する。

「それ以降は、ありません。私の好ましいと感じる基準は、恐らく父と兄たちです。彼らのような人というと」

「あぁ、それは……なかなか、いないだろうな」

 司法院長官テアス・ナンヒはクォンシュの司法の長、そして四人いるルコの兄も全員、役目はそれぞれ違うが司法院に務めており、誰もが「公正なるはかり」といわれる家に恥じぬ人物たちである。彼らと比べられては、よほど清廉潔白な者でなければルコの目には留まらないだろう。

「しかし、ルコどのは、……実直で、だし、その、……見目も、いいから、言い寄られるなんてことも、あったり、は」

 マイラとは少し種類が違うが、素直で他人と向き合う姿勢がよくできているし、背が高く手足も長く、結うには足りない長さの薄い金色の髪と薄い水色の瞳は実に涼やかだ。本当に、“整っている”人物である、とトウキは思う。その上名家の令嬢、放っておかれる方がおかしい。


 そのはずなのだが。


「術士院ではそれなりに仲のいい人もいましたが、研究の方向性の違いでの喧嘩も多かったので。性別関係なく殴る蹴るもしょっちゅうございました」


 ルコはしれっと過激なことを口にする。トウキは思い出す。軍の高官で術剣士隊の隊長であるキクロも、軍に請われて入る直前まで術士院にいた。おとなしい文官のような顔をして――いや、実際には温厚といえば温厚ではあるのだが、考え方は現実的かつ実力行使派で、思いのほか荒っぽいところがある。もっとも、彼の場合は影響されたというよりも元々の性格なのだろうが。

「…………気性が激しい者が多いんだな、術士院は……」

「あそこは術を極めたいと思う者たちの戦場です。互いに励まし磨き合いつつ隙あらば相手を蹴落とす。そのくらいの気概がなければ生き残れません」

「成程、そういう場ではそういう感情は芽生えにくい、か……そんな、学びの場から、連れ出してしまったんだな。すまない」

 謝罪されたのが少し意外で、ルコは二回、瞬きをした。

「いえ。私は研究は好きですが、術士としては成績は低かったので。ぶっちゃけ申し上げますと、追い出される寸前みたいなものだったので、ちょうどよかったです」

「えっ……そう、なのか?」

「ある程度ならしゅなしで術を発動させられるトウキ様とは違って、私は呪を全部詠唱しないと術が使えないくらいの腕です。まずその域に達していないので、何十年術士院で粘ったとしても一生銀冠は戴けなかったでしょう。キクロ様が推薦して下さったおかげで自分が事務仕事に向いているとわかりましたし、誰かと激しく対立し合うこともなく精神的な負担も減りました。その上マイラ様にもまたお会いできて、現状すごく、いい感じです」

 ルコの言葉に、トウキは思い出した――そういえば。

「……ルコどのは、以前、」

「はい」

「自分が男だったらマイラに求婚していたと言っていたが……その、やっぱり、本当に」

「そうですね。あながち冗談でもありません。あのように真摯に向き合おうと努めて下さって、笑顔を向けて下さって。好きにならないわけがないでしょう」

「そうだよなぁ! ……………………あっ!? …………い、いや、その、ちがっ……いやちがわなっ……やっ、いやっ、そのっ」

「落ち着いて下さい。貴方のお気持ちはよく理解しております」

「理解」

「マイラ様を、お慕いしておられるのでしょう」

「う、あ」

 口をぱくつかせながら赤くなる。とてもわかりやすい。


 この方は、マイラ様に対するご自分の気持ちがいつもダダ漏れであることに気付いていないのだろうか。そして何故マイラ様はこの方のそんな気持ちに気付いていないのだろうか――ルコはほんの僅かに、本当に、ちょっぴり、呆れた。


 しかし同時に、この夫婦は少しだけ似ていると思った。お互いに、相手が自分を大切に思ってくれているという自覚はあるのに、「それは義務感からだ」と思い込んでいる節がある。


(とは、いっても)


 先刻のマイラの様子。「相手に添おう」というのとは、また違う感情を抱いているようにも見えたから、二人が良い形に収まるのも時間の問題だろう。下手に自分が介入するまでもあるまいが、それはそれとして、マイラがいつまでもあのままなのはルコとしても心苦しい。助け船程度なら出してもいいか。


「ご存じでしょうが、何日も貴方にお会いできていないとマイラ様が落ち込んでしまっています」

「……あ、ああ」

「お二人でお話をなさって下さい。貴方がマイラ様を想われていることは、現時点ではお伝えしなくてもいいのです。ただ、……マイラ様を安心させて差し上げて下さい。見て、いられないのです」

 トウキは俯いた。そんなにも、マイラを悩ませていたのか。

「ルコどの」

「はい」

「やっぱり……どんな顔をすればいいのか……」

「笑えばいいのではないですか」

「…………恥ずかしい……」

「そこは頑張って下さいトウキ様」


(めんどくさい方だ……)


 ルコはこの日三度目の、同じことを思った。



     ◎     ◎     ◎



 応接室の扉を開けた途端、花蜜の入った茶の香りが漂う。隣り合って長椅子に座っていたマイラとユーイが同時に振り向いた。まるで娘同士だ。

「あ」

 トウキの顔を見たマイラの顔がほころぶ。美麗というわけではない、が、野の花が一輪そこに咲いたような笑顔。自分は何日も逃げ回っていたのに、こんなふうに笑いかけてくれるのか、とトウキは申し訳なさと嬉しさがこみ上げるが、目は合わせられず伏せてしまう。顔が熱い。

「おかえりなさいませ旦那様!」

 立ち上がって駆け寄る。両手を、ふんわり包むように取る。いつもと同じだ。

「ユーイがお土産に持ってきてくれたお茶、とってもおいしいんです! 淹れてきますね! ユーイもお代わりいるでしょ? ルコ様もお疲れ様でした、どうぞ座っていて下さい」

 にこにこした顔で飛び出していく。完全に元気を取り戻したようだ。

 複雑な表情のまま正面の椅子に座るトウキに、ユーイがにやにや笑いながら大きな状袋じょうぶくろを卓の上に置いた。

「全く、あんたが帰ってきた途端だ。さっきまですんごい顔してたんだぜ姫様。はいこれ、大工と石工の親方どもから。一応予定通りに進んでるけど途中経過報告しとくってさ」

 しばらくここで二人きりで話していたのか――ということは。

「……マイラから、何を聞いた」

 トウキは袋を受け取りながら一気に不安になった。マイラは確かに聡明な娘ではある。王族の端くれとして礼儀作法もよくできているし、知識量も豊富なのでいろいろな会話に対応できる。しかし、個人のこととなると素直すぎるのだ。何を喋ったかわかったものではない。

 少し間を開けてユーイの隣に腰を下ろしたルコが主人を見据える。

「トウキ様。お聞きにならない方が心の平穏を保てるかと」

「なっ……!? るっルコどのっ、なにを聞いたんだっ!」

 未だにやついているユーイが言ってやろうと開きかけた口を、

「ユーイ様」

「もわ」

 気付いたルコの手がさっと塞いだ。

「慎んで下さい」

「や、だってさぁ」

 ルコの手をそっとどけるユーイの顔はまだ笑っている。それを見たトウキは察した。ルコもユーイも、自分とマイラの間に何があったのかを知っているのだ。

「ああぁあぁぁぁ」

 うめきながら顔を覆い、長椅子の上に転がる。

「頼むユーイ帰ってくれ速やかに」

「そういうわけにもいかんのよ、ツトゥから大事なもん預かってきたんだからさ」

 それ以上その件には触れずに、ユーイは今度は懐から短剣を取り出し、その鞘の先、こじりを外した。少し空洞ができているそこから出てきたのは、細く折りたたんだ紙。油紙で包まれた上に花蜜と麦の粉を混ぜた糊で封をしてある。

「ん」

 身を起こし、差し出されたまるで密書のようなそれを恐る恐る受け取る。ちらりとユーイに目を向けると、ユーイは背もたれに寄り掛かって足を組んだ。

「何が書いてあるかは俺も知らないよ。あんたに手渡して、その場で読んでもらえって」

「……そうか」

 ゆっくり開封し、開いていく。元皇子に対する畏敬の念と緊張を感じる少し硬さのある文字が、大きくはない紙面に綴られている。読み進めていったトウキは――


「…………は?」


 顔を思い切り、しかめた。

 同時に、開扉かいひの合図があって扉が開く。

「失礼します、もうちょっとしたらケイツェの蜜煮の包み焼きができるってエシュが……どうかなさいましたか、旦那様」

 掛けられた声に我に返った領主は、ゆっくり、妻の顔を見る。

「…………ツトゥ、どのが」

「ツトゥ様が?」

「ユーイを…………うちの廻者まわしものとして、使わないかと……」

「……えっ?」


 それを聞いたユーイ・ウォーサはというと、


「はぁ!?」


 提案されたアヴィロ夫妻以上に、驚いた。



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