奥様と恋と友人編
第三十七話
マイラ・シェウ・アヴィロは間もなく十九歳になるが、これまで誰かに恋い焦がれたことがない。
そういう物語が書かれた本もたくさん読んできたし、そういう気持ちを誰かに持っている者とも接してきたから、感情としては何となく理解できる。きっとそれは、ちょっぴり酸っぱかったり苦かったり、でも芯がじんわりと熱くなる、甘い酒のようなものなのだろう。
興味が全くなかったわけでもない。恋という感情を持てるのは、つらいこともあるかもしれないが、素敵なことだ、とマイラは思っている。
「私は変なのかもしれません」
アヴィロ邸の裏庭の一角、奥方様によって耕された小さな畑のすぐ隣には、同じくらいの広さの温室がある。まだ建てられたばかりなので植物自体は少ないが、片隅には植物に関する書物が並ぶ小型の書棚と机と椅子が置かれている。そこに座ったマイラは、ついさっき
「変とかそういうことではないと私は思いますが」
「そうでしょうか」
「マイラ様は、いつも何かしらしていらっしゃいます。小さな頃からそうではありませんでしたか?」
言われてマイラは首を
「自覚しておられない」
「え、えぇと……」
「マイラ様は、勉学にしろ鍛錬にしろ家のことにしろ、一生懸命なさっていることに、こう、没頭して、いつの間にか一日が終わってしまっている……そういう感じ、なのでは?」
「…………はっ!?」
ルコの言葉に、マイラは衝撃を受けた。
「……そう、かも、しれませんっ」
そういえば、毎日があっという間だ。
「ですからおそらく、マイラ様はどなたかをじっくりゆっくり見て意識している暇がなかったのでは、と、私は推測します」
「…………はっ!?」
そういえば、縁談の相手と会うときも、前日のうちから何を話そうとか考えてもいなかったし、会った後も長々と相手について思いを巡らせることもなかった。
それを抜きにしても大体は「明日は何をしよう」と胸躍らせながら寝台に入り、寝付きがいいのですぐ寝てしまって――
「る、ルコ様……私は何て……自分勝手に生きてきてしまったのでしょうか……本当に自分のことしか考えてなかったなんて……父上にあれだけ『人を見なさい』と言われてきたのに……」
机に突っ伏して嘆くマイラの背を、ルコの手が撫でる。
「マイラ様。貴女は他人を見る目はお持ちです。ただ単に……そう、忙しかっただけです。変でもありません。大丈夫です。私にもわかります、やることが多い、しかも楽しかったりやり甲斐があるとそうなるものです」
「いや、でも、だって」
「現に今、貴女はトウキ様とのことでこうして思いを馳せていらっしゃるではありませんか」
「旦那様……」
身を起こす、が、
「もう七日も会ってない……」
今度はルコが衝撃を受ける番だった。しかしいつものことながら、表情はほぼ変わらない。言われてみれば、食事の時間になっても領主様は食堂に現れなかったような。
「一緒に住んでいるのに、ですか」
確かに敷地は広いが、屋敷自体はそう大きい方ではない。よく何日も顔を合わせずに過ごせるものだ。
「隠し通路とか、ないはずなんですけど……どういうわけか、旦那様は逃げるのがお上手なんです。以前も丸五日間顔を合わせないことがありました」
「五日間」
「はい」
「……
問われてマイラは思い返す。
あのときも、今回も。
「何と、いうか……そうですね。旦那様の、心の準備ができていなかったんです」
「トウキ様の、心の準備。で、ございますか」
「はい。あ、でも、前のは不可抗力というか……あれは事故といえば事故ではあったんですけど……その、結婚当初にですね、旦那様は、私を怖がらせないようにと、お顔をこう、全体的に隠されていたんですけど、付けていた仮面が取れてしまって、私も少し驚いたんですけど、旦那様がとてもびっくりしてしてその場から逃げるように……で、五日間……」
身振り手振りで一生懸命説明するマイラに、ルコは頷いた。
「成程、それはトウキ様にしてみれば『やっちまった』やつでございますね。あの方ならそうなりましょう」
「でも、でも、それがあったお陰で、いっぱいお話できるようになった気がします」
「成程、雨降って地ガチガチというやつでございますね。それはあって
「……今回の、これは、どうなってしまうんでしょうか」
再びしょげてしまうマイラの背を、再びルコは撫でた。普段元気な彼女が落ち込んでいるのは、見るに忍びない。本当はシウル・オーギのように抱き締めてたくさん声を掛けてあげられればいいのかもしれないが、自分はそういう
「以前よりも、大変なことになってしまったのですか?」
それでも、話を聞くことぐらいなら――
そう思ったのだが、訊いたのは間違いだったと気付く。
マイラ・アヴィロは、実に正直な女である。
ゆえに、正直にその問いに答えた。
「口付けを、してしまったのです」
至極真面目な表情で、夫婦間のことをさらっと口にしたので、ルコは思わず詰まった。もちろん表情は変わらないのではあるが。
これは聞いてもよかった話だったのだろうか。何と返せばいいのだろうか。
マイラは尚も続ける。
「旦那様は、以前から度々そういうことをするのはもう少し時間がほしいと
だんだん熱が入っていく奥方様の後悔と反省の言葉に、ルコは戸惑いながらも背を撫で続ける。
「落ち着いて下さいマイラ様、トウキ様もマイラ様のそのトウキ様を想うお気持ちは理解していらっしゃいます、そのはずです、大丈夫です」
「大丈夫じゃないです私きっとまた旦那様のお顔間近で見たらやっちゃいます!」
「べっつにやりゃいいじゃんよ、結婚してんだろ」
突然入り込んできた第三者の声。マイラとルコは同時に温室の出入り口を見た。
長い蜜色の髪が陽の光を受けてきらきらと輝く、華やかな男装の美少女――いや。
「ユーイ!」
一気に表情が明るくなったマイラは、駆け寄ると飛び付いた。その勢いは結構なものだったのだが、ほっそりとした体付きにも関わらずユーイは難なく受け止める。
「おいおい奥様そんな気軽によその若い男に飛び付くなよ、ただでさえ旦那に嫌われてんだぜ俺」
「あっ、んっ? 今日は男なの?」
手を取り合う二人の姿はどこからどう見ても仲のいい娘二人組である。
「うん、ちょっと橋まで行ってきた。ツトゥの
「私の結婚もあったしめでたいからって大伯父様……ファンロンの方の陛下がいい資材を使いなさいって奮発してくれたみたいなんだ。お遣いって、ツトゥ様はお忙しいの?」
「そ、忙しくて今チェグルから出られないんだわ。悪いな、近いうちに一緒に遊びに行くっつったのに、休ませてやりたいんだけどなかなか上手い具合にいかなくってさ。そろそろ麦と芋植えるので忙しくなるし」
「それが終わったらチェグルは
「そーなんだよ、畑仕事の時期って合わせにくくて困るよなー」
きゃいきゃいと親しげに盛り上がる二人だったが、ふとユーイが不思議そうに自分を見るルコの存在に気付き、上から下に視線を流す。
「……あぁ、女……ま、この姫様が愛人なんか作れるわけないか」
トウキよりほんの少し低いくらいの背丈に、体の凹凸もあるにはあるが衣服で隠れがち、髪も結えるほどには長くない。
それゆえに男性に間違えられることはよくあり、自身も慣れすぎて特に気にしていないのだが、だからこそ一発で女だと見抜いたユーイに驚いてルコは少し目を見開いた。
「よく私が女だとわかりましたね」
「注意して見ればわかるよ。手と、あとは腕、……腰から下もだな。あんた、背丈は女の割にあるけど別に腕っ節強いわけじゃないだろ? ここの旦那もガタイはいい方じゃない、でもあいつの方がちょび~っとしっかりしてる。剣使うし馬にも乗るしな。……判断材料はこんなとこ」
「……よく、見ているのですね」
ユーイは、にや、と笑った。
「そりゃ、仕事柄ねェ。……そういや、旦那どこ行ったんだ? 職人の親方どもから進捗の報告書と、あとツトゥの手紙預かってきたんだけど」
マイラの表情が固くなり、手に僅かに力が入る。何かがあったのは一目瞭然だ。
「何だよ
「喧嘩は、してない」
「浮気でもされたか?」
「そんなこと旦那様がするわけないでしょ」
「だよなぁ、姫様殺そうとした俺のこと殺そうとしたもんなあいつ」
二人にとってはもう過ぎたことなのだが、ルコが食い付いた。
「今貴方聞き捨てならないことを仰いませんでしたか?」
チェグルでの一件をルコは知らないのだった。マイラはルコとユーイの間に入る。
「あ、あの、いろいろありましてねっ、今はもう、大丈夫なんですっ。……ユーイ、貴方のこと、教えておいてもいいかな」
「えー」
「この方は、信頼できる。旦那様か、私に何かあったとき、まずこの方に。そういう人だから」
あまり乗り気ではない様子のユーイだが、溜め息をつくと渋々頷いた。
「わかったよ。……俺はユーイ。ユーイ・ウォーサ。ツトゥ・フォオル・エンインの
「
「タジャじい知ってんだ? ってことは、あんたナンヒか」
「はい。ナンヒ家当主テアスの娘、ルコと申します。トウキ様の事務補佐役を務めています。……その、報告書と、お手紙でしたか? よろしければお預かりしますが」
「あぁ、いや。報告書はあんたに預けてもいいんだろうけど、手紙は直接渡してその場で読んでもらえって言われてて……そう、だから旦那どこ行ったんだよ!? 橋にも屋敷にもいないじゃんか」
「詰所かなぁ」
嘆息するマイラに、ルコは
「今日は国境警備のお務めの日ではないのでは」
「あそこは、お屋敷ほどではないですけど設備が整ってますからね。警備隊の皆さんも話を聞いて下さるでしょうし、避難するには持ってこいです」
ユーイがまた、えー、と
「俺また国境近くまで行かなきゃなんないの!?」
「私が呼んできましょう」
一礼して出入り口に向かうルコを、マイラが引き止める。
「だったら私が行きます、レイシャなら早く」
「いいえマイラ様、貴女がお迎えに行かれるのはおそらく逆効果です。どうか私にお任せ下さい」
逆効果という意味がどういうことなのかはわかる。残念そうに、はい、と応えるマイラの肩に、そっと手を置く。
「必ず連れて帰りますから、またお二人でいっぱいお話なさって下さい。……ユーイ様、申し訳ありませんが少々お待ちいただけますか。すぐ戻ります」
「様とか付けなくていいよ俺平民だぜお嬢様」
お嬢様、と小さく呟いて、温室を出て行こうとしたルコは振り返る。
「私、ですか?」
「お嬢様だろナンヒって貴族じゃん」
と、ルコは、
「そう呼ばれたのは数年ぶりです」
ふ、と微笑んで、温室を出て行った。
それまでほとんど表情が変わらなかったルコを見てきたマイラは驚き、ユーイも目を丸くした。
「……ルコ様、あんなふうに笑うんだ」
「何か、……かっこいいな、あいつ」
「えっ」
◎ ◎ ◎
マイラの予想通り、トウキは国境警備隊の詰所、厨房兼食堂の片隅の席にいたのだが、
「頼むルコどの俺はここにはいなかったことにしてくれ」
帰宅拒否を表明した。おどおどしている。夕食の仕込みをしている警備隊員たちは、不満そうに次々ルコに訴えた。
「連れて帰って下さいよルコさん! この人今日仕事ないのにいられても邪魔なんすよ!」
「包丁握らせてももたもたするから飯の準備の役にも立たねーし!」
「この人奥様と何かあったんです? 奥様、どう見てもお屋敷追い出す鬼嫁とかいう感じじゃないですけど」
片手を上げて、ルコは隊員たちを制した。
「落ち着いて下さい皆さん、大丈夫です。トウキ様にはちゃんと帰っていただきますので」
「嫌だ!」
トウキは逃げ出した。階上に駆け上がっていくのを、
「逃がしませんよ」
ルコもすかさず追う。追いつけず、隊長室に駆け込み内側から鍵をかけられてしまったが、ルコは慌てない。扉越しに呼び掛ける。
「トウキ様。お客様がいらっしゃっているのです。お戻り下さい」
「客? 俺に? 来るわけがない」
「いいえ、トウキ様。確かにお客様です。チェグル領主ツトゥ・エンイン様のお遣いが直接読んでいただきたい書状を預かってきたと」
「ツトゥどのの……遣い……」
扉が、僅かに開いた。隙間から金色の目が、じ、と見てくる。
「ユーイか」
隙間にさりげなく
「はい。マイラ様とお待ちです」
「マイラ、と……ユーイが……」
不快そうに目が細められる。成程二人の仲をよく思っていないようだ――これを利用すれば。
「お二人は、随分と親しくしていらっしゃるのですね」
「……友人、だからな」
「マイラ様は、ユーイ様がいらしてとても嬉しそうになさっていました」
「それは……そう、だろう。ときどき手紙のやりとりをしていたが、会うのは久しぶりだ」
「マイラ様、抱き付いていらっしゃいましたよ」
「抱、きッ……!?」
扉が開く。
「あ、……うぅ……」
少し俯いたトウキは、泣きそうな顔をしている。
帰りたくない。帰りたい。
どうしていいのかわからないのだろう。
複雑にして繊細、そして、
(めんどくさい方だ……)
マイラ様は何故この方のことをそんなに、と、ルコは思う。
しかしそれは顔には出さずに。
「まぁ、マイラ様はああいう方ですから、そこは気にしても。仲のいい方に対してならどなたにでもあんな感じでしょう。それよりも、橋の工事に携わる職人衆の親方からの報告書も預かってきているとのことですし、屋敷へお戻り下さい」
「う……いやだぁ……」
口ではそう言いながらも、ずるりと部屋から出てくる。足取りは重い。後に続きながら、ルコは敢えて訊く。
「何故帰りたくないのですか」
「……マイラ、と、ちょっと、いろいろあって……どんな、顔をすればいいのか、わからない……」
その「いろいろ」がどういうことだったかは知っている。彼にとっては悪くない出来事だったはずだが。
「笑えばいいのではないですか」
応えると、トウキは顔を両手で覆ってしまった。
「ダメだ変な顔になる、マイラに見せられない」
「そうですか」
(めんどくさい方だ……)
ルコは改めて思うのだった。
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