第三十六話
どこからどう見ても高貴な身分の長身の男は、自分に注目しながら呆然としている女と少女を見ると、
「何してんの二人とも」
二人ははっとして素早く立ち上がると礼をしようとしたが、男が慌てて両者の肩をがしっと掴む。
「待て、待て、ダメ! 今お忍びだから!」
シウルは呆れて小声で言う。
「大声で何言ってんのあんた。全然忍んでないじゃないその格好」
「はっ……!?」
周囲を見回すと、「突然の国主の登場にどうしていいのか困惑している者」と「見てくれからして領主よりも立派だし、先程幼子が名前を呼んでいたからおそらくこの国の皇帝なのだろうと察しはつくが、好奇心からただ見守る者」の視線を感じる。
お忍び皇帝は、しばし思案したのち、そっと冠を取り、見事な刺繍の施された上等な布地の装束を脱いでそれで冠をくるりと包み込むと、腰に帯のように巻きながら
「大丈夫、バレてない。俺が皇帝だなんて知ってるの、都から来た奴らとトウキの嫁さんくらいしかいないだろ。なー、ウティラー」
「なー!」
リュセイとウティラは仲良く手を繋ぐが、そのウティラこそが彼の名を叫んだ張本人である。額に手を当て、絶対バレてるって、と呟くシウルに、ショウハが袖を引きながら不安げな視線を向ける。
「シウル」
「あ……申し訳ございませんショウハ様、陛下が少々」
「ショウハ」
シウルの言葉を遮って、リュセイはショウハの正面に立ち、空いている方の手で、くしゃっ、とショウハの髪を掴むように撫でた。
「帰るよ。ファーリとハンジュが心配してる」
「へ、か」
ショウハは俯く。
「怒る、ない?」
「リラダどのと、約束したからなぁ。ショウハは、できるだけ、自由にするって。ただ、出掛けるんなら、ちゃんと、誰と、どこに行くか、言ってから、行きなさい。わかった?」
「わかった」
「うん。それならいい。ショウハは、強いから、どこに行っても、大丈夫だもんな」
ウティラと繋いでいた手を離すと、小柄なショウハを軽々と抱き上げる。強いと言われて、一瞬、嬉しそうな顔をしたショウハであったが、またすぐにしょんぼりとしてしまった。
「でも、シウルに、負けた」
リュセイはシウルを見る。軽武装に剣を提げた彼女は、なるほど侍女ではない。
「……はぁん、なーるほど? まぁそりゃそうだ、シウルは、クォンシュで一番強い美人だぞ。……どうだった、戦ってみて」
「おれ、もっと、強い、なりたい」
「ショウハ。『おれ』じゃない『わたし』」
「わたし」
「よい。……うん、そうだな。シウル、来て」
小さな妃を何とか片手で抱きかかえ、シウルの手を引いた皇帝は、トウキとマイラの前に立った。マイラは、はっと息を飲んで、また後退する。それを後ろにいたトウキが再度受け止めた。
「嫌、だなぁ」
何を言われるかの察しがつき、トウキが溜め息交じりに小さく漏らした言葉に、リュセイは笑う。
「元々俺の剣だ。そろそろ返してくれてもいいんじゃないか」
「うん……」
繋がれた手を振りほどき、シウルが割って入った。
「ちょっと、リュセイ、何言ってるの、私はっ、」
「『トウキが嫁さんもらうまで』って話だったはずだろ。幸いマイラどのはファンロンの王族、後ろ盾としては申し分ないし、実家もすぐ隣だ。何かあればすぐ駆けつけてもらえる……はず。だと、思う……」
「希望的観測で言わないでくれる!?」
「いや、だって、隣といっても異国だし俺も直接マイラどのの父君と話したわけじゃないからそこはさぁ」
二人は同時に、ちらりとマイラを
「た、多分、だいじょうぶですっ」
「ほら大丈夫、問題ない!」
「問題なくない」
妻の後ろに立ったままのトウキが嘆息した。
「どういうことなのかは大体わかったから、とりあえず話は屋敷の中でしてもらっていいか。ショウハ様はまだ『ヴェセンから皇帝に嫁いできた皇妃がお忍びで来た』として片付けられるが、リュセイ、お前は無理がありすぎる」
「ぬ」
言われてまた、見回す。少々ざわついているのがわかる。
「ただでさえお前は目立つんだから」
「お前の方が目立つじゃないか、そんなきれいな赤い髪してるのアルマトかお前かぐらいだぞ」
「それを言うならお前ほど背丈があるのもそんなにいないからお前だって目立つだろう。御身は存在として派手なのです陛下」
「ぬぬぅ……あんまり時間ないんだけどなぁ」
「だからといってこんなところでする話でもないだろう、いくら俺が命じたとしても必ず誰かがどこかで漏らすぞ。……あとどのくらいいられる?」
「何とか二刻作った」
「充分じゃないか。マイラ」
「はい」
くるり、振り返り、微笑む。
「お茶の準備をして参ります。陛下、ショウハ様、どうぞ中へ。わたくしは少々失礼致します」
一礼して裏口へ駆け出すマイラの姿を見送り、皇妃を下ろしながら、皇帝陛下は、にや、と笑う。
「いいな。俺が貰えばよかった」
「四人いれば充分だろう」
トウキが睨みながら拳で親友の肩を軽く殴ると、ショウハも真似をして夫の腹部に裏拳を当てた。
◎ ◎ ◎
アヴィロ家の屋敷は、一領主の邸宅である割に造りも
寝室は元々トウキ一人が使っていたのを(一応)隣国の貴人であるマイラが嫁いでくる際に相応に改装されたので例外として、応接室と客室についてはトウキが領主・国境警備隊隊長として着任する際に「そもそも厄介者の屋敷に客など来ない、それなら住み込みで働く者の部屋にした方がいい」とそれらしく整えるのを渋ったのを、「この先ここで生きていくのなら必要になることもきっとあるから」とシウルが何とか説得し、トウキの父で皇帝の叔父である将軍ゲンカ・ツォウ・クォンシュに調度品をねだったのである。
実兄の散財癖を見てきたのと、元々の質実剛健な性格からか、皇家の者でありながら「何かあったときに困らないように」と堅実に職務で得た給金を貯め込んでいた将軍ゲンカは、皇太子暗殺未遂事件の際に立場上息子に何もしてやれなかったこともあってか、喜んで出資した。結果、応接室と客室はそれなりに立派だ。
そんな応接室の扉を開いた途端、
「全く何でいきなり来るの皇帝のくせに!」
シウルの怒声に、マイラ・アヴィロは思わず人数分の茶器の乗った重さのある盆を危うく取り落としそうになってしまった。
「そりゃ確かにトウキがお嫁さんもらったら戻るって約束だったけど!? でもそんなすぐなわけないでしょ!? こっちだって準備が必要なのよマイラちゃんもまだ嫁いで来て半年ちょっとなんだからここのこと慣れてないんだしトウキも」
大変なご立腹である。慣れているのかオーギ親子はもちろんトウキとリュセイは落ち着いたものだが、椅子に座ったリュセイが膝の上に乗せているショウハはおろおろしていて、入室してきたマイラに気付くと助けを求めるような視線を送る。卓に盆を置いたマイラは
「シウルさん、シウルさん、落ち着いて下さいっ」
「だってねぇ、この、こいつはさぁ! いつもこんなで! 皇帝のくせに!」
いつもの聡明さが完全に失われている。リュセイがのんきに笑った。
「シウルはさぁ、トウキを甘やかしすぎなんだよ」
「なっ……
「おーっと痛いとこ突くゥ。でもそこはしょうがないだろ、俺の身代わりで死にかけたんだし、都にいさせたらほんとに部屋から出てこないくらいの引き籠もりになっちゃうじゃないか。……でもさ、」
揃って可愛い弟分を見る。
「こいつ、もう三十路だぞ?」
言われたトウキはぐっと詰まり、キクロは思わぬ言葉に吹き出しかける。
が、おふざけのように言ったその言葉に、皇帝リュセイ・クォンシュは更に続けた。
「……シウル・テュラ・オーギに命ずる。都へ帰還し余に仕えよ」
声と共に、空気が、ぱりっと張った。
そこにいた全員が圧倒され、静止する。
一見気さくで
皇帝の目的は、家出したお転婆な皇妃の迎えだけではない。
十年以上預けていた美しき剣を取り戻しに来たのだ。
しかし、
「
その剣はというと、早々に沈黙を破った上、更に怒った。
「そのやり方狡いって知っててやるんだもん! あんた昔からそういうとこあるよね!? 腹立つ!」
「そう言うけどなぁシウル!」
リュセイも
「こっちだって十三年も待ったんだぞ!? 十三年! わかるか!? 十三年! お前が俺の嫁さんになるって決まってからで数えたらその倍、二十六年だ! よく我慢できたな俺!」
はらはらしながら、そっと茶を供していったマイラであるが、終えると二人の剣幕に怯えながらそっと椅子に座る夫の傍へと移動する。
「あの、旦那様、」
小さく呼び掛けるが、やはりトウキは寸分たりとも取り乱さない。どころか微かに、笑っている。
「心配ない、いつものことだ」
立ち上がりながら目配せすると、キクロも頷く。
「あとは二人、と……ショウハ様もいた方がいいかな。ウティラ、スニヤと遊んでこようか」
人懐こい
「でも、おとーさま」
「大丈夫だよ、叔母様とリュセイお兄様はとっても仲良しだから。今のウティラぐらいにちっちゃいときから、ね。……リュセイ、シウル、気が済むまで話すといい、けど……痴話喧嘩聞かされる皇妃様の身にもなりなさい」
キクロに
閉扉の音で、部屋は一旦、静まり返った。
熱くなっていたシウルも冷静さを取り戻し、ひとつ大きく息をしてから、問い掛ける。
「待たされて、怒るくらいなら。何で私がトウキについてくって言ったとき、止めなかったの?」
リュセイは、抱っこしているショウハが帯に差した剣の
「……お前だから行かせたんだ」
暗殺未遂事件の直前、そろそろ
妃でも妻でも嫁でもなく、「俺の剣になってほしい」と。
それは、彼の自分に対する“絶対”の信頼。
常に傍にあり、共に戦ってほしいと願うほどの。
本当の兄弟のように育った親友の身を任せられるほどの。
「知ってる」
シウルの目から、ぽろっと涙が落ちた瞬間――リュセイは押し黙り、彼女を見つめた。
その一粒に籠もった感情は。
抱きかかえられたままのショウハが、シウルの涙にはっとして、
「へーか! シウル、泣く、させる、悪い!」
皇帝の頬をぺちりと叩いた。シウルは皇妃の突然のとんでもない無礼にぎょっとする。しかし皇帝は、
「いってぇ! 何すんだよぉ」
怒らない。どころか、すっかり“そこらにいそうな明るいお兄さん”の様相に戻っている。
ショウハが祖国の言葉で文句を言いながら夫をぺちぺちと叩き続けるので、シウルは伝っていた涙を拭いながら、笑ってしまった。
「ショウハ様、どうか、お気を鎮めて下さい」
とどめの一発をまた頬に入れると、ショウハは夫の腕から抜け降りて、シウルに抱き付く。
「シウル、何故泣く!? よくわからんが、陛下が何か無礼なことを言ったのだろう!? 泣くな、怒れ! お前を泣かせるなど、全くこの男は! 三度斬っても生ぬるい!」
この少女は、自分のことを憎むでもなく、“好きなひとの好きなひと”として、“同じひとを想う者”として、また同じ“剣を取る者”として、受け入れ、認めて、親しみを持ってくれている。
嬉しくなって、シウルも抱擁に応じた。そして納得もする。リュセイが可愛がっているのも無理はない。
「違うんです、悲しいとか、悔しいとかじゃなくて…………違うの。ありがとう」
シウルには、ショウハが
この子と同じ歳だった頃、自分はどうだっただろうか?
「ショウハちゃん。私、貴女みたいに、なれるかな」
ショウハだけに聞こえるように小さな声で言うと、ショウハは、にこ、と笑う。瞬く星のように。
「何を言っている。私のようにならなくても、お前はとても強い私よりももっと強いし、我が母と同じくらいに美しいし、何よりこの国一番の男に愛されているのだぞ。
「ふふ、そっか、そうだね。誇り、か」
それがあったから、やってこれた。
でも、それで何とか気持ちを押し込めていた。
会えなくて、話せなくて、寂しかった。
来てくれて嬉しい。
もう、伝えてもいいのだ。この子のように、素直に。
「…………ねぇ、リュセイ」
抱き合っていた皇妃と離れ、シウルはリュセイの正面に立つ。リュセイは身と表情とを引き締めた。
「なに」
「あんたは十三年待ったって言ったけど、私だって待ってたんだからね」
拭ったはずの涙が、また零れる。
しかし、それは、そのままで。
「トウキがお嫁さんもらうまでって、あんたがちゃんと見つけてくれなかったからこんなに経っちゃったんじゃない」
「……だって、トウキが駄々こねるし、あいつ臆病なくせに頑固で気難しいし」
「あんたが探すの下手クソなのが悪いんだよ。何で最初からマイラちゃんにしなかったの、こんな近くにあんないい子いたのに」
「無茶言うなよしょうがないじゃん、マイラどのはファンロン内で輿入れするとかしないとか話が出たり消えたりしてたんだから」
「何度も、諦めた方がいいのかなって、思っちゃったんだからねっ。迎えに来てくれるって言ったのに、もう来てくれないんじゃないかってっ……」
「絶対迎えに行くって約束しただろ、たとえじいちゃんばあちゃんになっても絶対」
「それじゃ遅すぎるでしょ! あんたの剣っていったって、そんなになったら錆びちゃってるじゃない!」
「だったら催促しろよ、トウキと話してるとき何度も呼んでって言ったのに全然顔見せてくれないし、トウキがマイラどの連れてきたときだって謁見で侍女面してちょっと出てきただけで裏まで会いに来てくれなかったしさぁ! 嫌われたかと思ったじゃんか!」
「嫌うわけないでしょ!? だって顔見たら絶対文句言っちゃうしっ、あんた、皇帝だからっ……先代の、借金のこととかっ……周りの国とのこととかっ、ずっと大変だったしっ……そんなの、言っちゃダメじゃんっ……」
「言えよバカ、言わなきゃダメだよそういうの。シウルっていつもそうだよな、ギリギリまでずーっと我慢して」
「あんただってギリギリまで何も言わないししないでしょ、それがかっこいいとでも思ってんのバカじゃないの」
リュセイは、席を立ち、
「お互い様だな」
笑いながら、シウルを引き寄せ、ぎゅっと抱き締めた。
「そうだよ」
シウルも力一杯リュセイの体を抱く。
いい歳をしてこんなくだらない言い合い、まるで子どものようだ。
それでもいいとシウルは思った。
誰にも言えず、ずっと秘めていた言葉が、心が、涙と一緒に流れ出ていった。
これでいい。
他でもないリュセイに、聞いてほしかったのだから。
「シウル。帰ってきて。やっぱり俺さ、シウルに傍にいてほしいんだよ」
「いいの? 皇妃が術剣士でも」
「いいに決まってる、術士が女王になってる国もあるんだし。『白梅』も辞めなくていいよ、最高にかっこいいじゃん術剣士隊第三席の皇妃なんてさ。なぁ、ショウハ」
言われた言葉を完全に理解しているわけではないが、丸く収まったことはわかるらしく、ショウハは嬉しそうな顔で頷いた。シウルから離れたリュセイは、ショウハを抱き上げ、くるり、回る。
「ありがとうショウハ。ショウハが怒ってくれなかったら、踏ん切りつかなかったよ」
「へーか。皇后、ハンジュどの、よい?」
「ちゃんと言ったよ、家族を増やすって」
下ろしてから、ヴェセンの言葉で説明する。
「自国からも嫁さん貰って地盤固めておかないと、皇帝って結構不安定な地位だからな。だからシウルを嫁さんにするのは子どもの頃から決まってたんだ。ただ、いろいろあって遅くなっただけ」
「そうだったのか。……うん、そうか。賢明な判断だ。よかった。陛下はちゃんと、幸せになれるんだな」
に、と笑って、リュセイは、シウルとショウハ両方を抱き込んだ。
「俺ばっかり不幸になる気はないよ。国主も民も幸せじゃなきゃ、豊かな国にはなれないだろ。頑張るよ、ファーリもハンジュもショウハもシウルも、俺の嫁さんになって後悔したなんて、絶対思わせない。俺は、赫き龍の国クォンシュの皇帝だからな」
◎ ◎ ◎
結局、その日はシウルが皇帝・皇妃と一緒に都に帰還することはなかった。シウル曰く、
「当ったり前でしょ、私がいなくなったら奥様のマイラちゃんがこの家の女衆を直接取りまとめなきゃならないんだから、覚えておいてもらうこといっぱいあるのよ。
とのことなのだが、皇帝と皇妃が仲良くぶつくさ文句を垂れ
「ごめんね、言い訳にしちゃって。私がいなくなってもエシュが引き継いでくれるから絶対大丈夫だし、マイラちゃんはいつも通りで大丈夫だから。…………ただ、まだ、ちょっとね、その……心の準備ができないの」
しかしそうなってみると、一月などというのは本当にあっという間で、皇帝がやってきたのはつい先日だと思っていたのに、もうシウルが都に帰る日が来てしまった。
都のオーギ家から迎えに来た馬車に乗り込むだけとなったシウルは、これまでの侍女長の姿ではない。高い品質の装いに髪をきれいに結い上げ化粧も施した彼女は、良家の子女だ。
「私の代わりの護衛は、一応リュセイと兄貴と相談してできるだけ早く派遣してもらえるようにするね。でっかい後ろ盾があるっていっても、やっぱり心配だものね」
トウキは安堵の溜め息を漏らす。
「ありがたい……まだ死にたくない……」
「そうよ、死んでもらっちゃ困るよ。この
シウルの手が、左半面を覆う仮面を優しく撫でる。共にウェイダに赴いてから、シウルが触れるのはいつも焼けた半面の方だった。
「頑張りなさい、トウキ」
「うん」
次に、マイラの前に来ると、膝を折って礼をする。
「マイラ様。数々のご無礼申し訳ありませんでした。このビビりな弟分のこと、よろしくお願い致します」
「いえ、いえ、嫁いだ初日からとってもよくしていただいて、嬉しかったです。旦那様のことは、はい……お任せ下さい!」
「ふふふ、そうね、マイラちゃんなら、大丈夫か!」
立ち上がり両手を取ると、マイラの大きな目が一気に潤んだ。
「…………シウルさんん~っ、また、会えますよねぇ!?」
「やだもう、泣かないでよぉ~。剣士隊辞めなくていいってリュセイ言ってくれたから、兄貴と一緒に遊びに来るよ。向こうに着いたら術具送るね、何かあったらそれ使って遠慮なく連絡して。どうせこいつのことだから、これからいっぱいマイラちゃん困らせるだろうしさ」
めでたい門出だから笑おうとするのだが、どうしても涙が出てきて止まらない。マイラは顔がぐちゃぐちゃだ。
「はうぃい、あいがどうございまずぅっ」
「あはは、顔大変なことになっちゃった。ごめんね、こちらこそ、ありがとう。……あのね、マイラちゃん。ひとつだけ、お願い」
シウルはマイラに耳打ちした後、見送りに出てきたアヴィロ家の者たちとご近所の皆さんを見渡した。
「さて。じゃっ、私行くね! お世話になりました! エシュ、後は頼んだよ!」
自称シウルの弟子の少女は、泣きそうなのを何とか堪えながら、背筋を伸ばして返事をした。
「はいっ!」
シウル・テュラ・オーギは颯爽と馬車に乗り、爽やかに去っていった。
咲き乱れる花の香る、春のよく晴れた昼前のことだった。
就寝前、トウキは違和感をおぼえた。
同じ床の中のマイラが妙におとなしい。いつもなら、その日あったこと、思ったこと、これからやりたいことを、楽しそうに話すのに。
隣に横たわる妻の様子を窺う。
珍しく背を向けている。
「マイラ。どうか、したのか」
「……いえ」
声が小さい。
「…………寂しくなるな」
「はい。でも、シウルさん、術具でお話できるって仰ってましたし、会いに来てくれるとも、言ってました」
「うん。大臣どもがうるさく言うかもしれないが、そういうのが効かない女だからなシウルは。家が家だし、昔からリュセイや俺ばかりと遊んで、剣も術も学んで……末は女将軍かと言われたこともあった。もしかしたら、ショウハ様の上を行く跳ね返りかもしれない。口先ばかりじゃない、絶対に、この辺境まで来てくれる」
嘘は全く言っていない、のだが――マイラが少しでも、笑ってくれないだろうか。そう思いながらトウキは語る。
そしてマイラは察した。夫は、自分の調子がいつもと違うから、いつものように振る舞おうとしてくれているのだと。
優しいひとだ。
「だんなさま」
消えそうなくらいに小さな呼び声でも、
「ん?」
しっかり拾ってくれる。
当たり前と思ってしまいがちなことだが、そうではない。彼は、マイラの声だからこそ、尚のこと、聞こうとしてくれている。
振り向いて伸ばした手が、二回りほど大きな手に受け止められた。
「どうした」
夜のややひんやりとした空気と共に、胸の奥底に
これまで何度も、何十回も、こうして隣り合って寝ていたのに、全く意識したことはなかったが。
別れ際にシウルに言われた言葉を思い出す。
「もし、トウキのこと嫌いじゃないのなら、ときどきでいいから、頼ってあげて。ちょっとでいいから、甘えてあげて。きっと嬉しいと思うから。この子ね、お隣から迎えた妻だから、じゃなくて、貴女という人だから、貴女のことが可愛くて、大好きで、
今ここにあるやわらかくあたたかい彼は、全て、自分だけに向けられたもの。
そう考えると、胸の上の方がきゅうっと締まる、気がした。
吸い寄せられるようにその胸元に入ると、肩が包まれる。何て心地よい温度だろう。
自分は見目がよいわけではない。華がない。
彼は意見を言ってもらえるのは嬉しいと言ってくれるが、いろいろ口出ししてしまう自分はきっとやっぱり生意気だ。
そんなでも、愛おしんでくれるのか。
マイラもトウキの背に手を添えた。
ぴったりとくっつくと、自身が身に付けている
「旦那様と、離れたくないなぁって、思いました」
「え」
「ずっと一緒にいたいです」
「え、あ、その……う、…………そう、か」
とくとくと鳴る胸の奥、その速さと、酒を口にしたときのような顔の熱さ。
「だんなさま、」
囁いた、次の瞬間、マイラはトウキの唇に、己のそれをそっと、触れさせた。
ところが。
「ふゎっ!?」
トウキはびくりとして、勢いよく後ずさる。
これまで見たことがないくらいの驚き顔で口をぱくつかせているが、声が出ていない。その獣のような素早い動きにマイラも驚き、固まってしまう。
その、非常に長く感じたが、実際にはほんの僅かであっただろう沈黙の後、
「おぁっ……はっ、うゎ、あ、…………ああああぁぁぁっ、あああぁああああああぁぁぁぁぁ!?」
絶叫しながらトウキは跳ね起き、そのまま寝室を飛び出していってしまった。
取り残されたマイラはといえば、寝台に横になったまま突然のことにしばらく呆然としていたのだが、ふと我に返り、過去にあったことを思い出す――そう、初めて彼の仮面の下の素顔を見たときの夜を。
「あっ……あ、あ……わあぁ!?」
身を起こし、
つい深く考えずに動いてしまった。
まさか、こんなことになるだなんて。
「ど、どうしよう、どうしよう、私っ……またやっちゃった……どうしよう、たすけてシウルさんんんっ!!」
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